ワーク・フロム・リビングデッド
石田宏暁
スマホじゃ出来ない
世界が変わって仕事のやり方も変わった。現地で直接顔を合わせる必要もない。接待は接待のプロに任せればそれで良かった。
「もしもし。資料を渡すだけでクライアントと話す必要はないわ。ええ……内容なんて知らなくても大丈夫。問題があれば私が直接電話すると伝えて」
薄汚れたテーブルには飲みかけのボトルとデリバリーフードが無造作に置かれている。ネット注文した化粧品は開封されないまま床に放置されていた。
「もしもし。あら、社長……お誘い頂いたゴルフの件ですね。ええ、ぜひ行かせて頂きますわ。ひとつお願いがあるんですけど」
咲恵はタバコを一本とりだして火をつけた。しばらくは辞めていた習慣だったが、誰とも会わない生活で口臭や受動喫煙を気にする必要もないと思った。
「仕事の話はしないでくださいよ。私はオフのときは仕事のスイッチ切ってますから。アハハ、多分とぼけると思います」
三年前とは大違いの世界になった。商社とは名ばかりの会社で私の開発は全く目にも止められなかった。取引先は担当の私が女だというだけで名前すら覚えてくれなかった。
「もしもし。来週の日曜日、Beachの社長とゴルフ場を予約してあるわ。そう、貴方が行くに決まってるでしょ。私のふりをするだけでギャラが入るのよ……そうよ、感謝してよ」
スマホの向こうから不安そうな女の声が響いて咲恵は耳を遠ざけた。夜のお相手をさせられた場合の交渉はしていない。その場合のプロは別に頼んである。
「分かった。セイコーしたら……バカね、そっちのセイコウじゃないわよ。前払いで十万に後からもう十万振り込むわ。がっつくんじゃないわよ、まったく」
以前はどれだけ働いても認められなかった。クライアントは胸の大きさとヒールの高さにしか興味が無くてビジネスは話にすらならなかった。
ところがどうだろう。リビングにこもりスマホだけで仕事をするようになってから、新しい
人材配置から実行スケジュール管理まで、私の提案はどんどん採用されていった。日帰り出張とセクハラ接待に振り回されて泣いていた時期には夢にも思わなかったことだ。
着信。
「もしもし。ええ、
顔を会わせなければ別人になれた。不安になることもあったけど嘘をつくことに抵抗はなかった。自分にも嘘をつけば嘘は本当になるような気分だった。
着信。
「はい……怒ってないって言ってるでしょタナー、あなたたちに失望しただけよ。いまさら心配してどうするのよ。暗号で話すって何よ、私はペンギンで貴方はサンドイッチ? 道具は揃えるけど
すこし危険な仕事も増えた。どんな組織も同じで資産を奪いあう構図に分裂していた。だから顔を見せずにスマホだけで話を纏める能力が有利になる。
もう一台、私用スマホが着信音を鳴らしている。今の私は電話のために、やりかけの仕事を止めるほど軽い女ではない。入力中のメールが終わるまでは見向きもしない。
最近は元軍人からハッカーまでも雇えるのだ。仕事はすべてスマホだけで事足りた。以前はどんなに変わろうとしても変われなかった私が全てを取り仕切っていた。
女の時代と言っても私には無縁だと思っていた。メールを送信してからやっと私用スマホを手にする。六回か七回目のコールだった。
「もしもし。母さん?」
『やっと出たわね。何回電話したと思ってるの。昨日はお父さんも心配して電話してくれたのに、やっぱり出ないっていうから心配になったわよ』
「……ちょっと仕事が忙しかっただけよ」
『そんなに働いても女の幸せっていうのは誰かと結ばれることよ。仕事なんてすぐ辞めてやるって言ってたじゃない。病気にでもなったらどうするの。誰も看病してくれないわよ』
「そのときは母さんが看病して。そしたら私が稼いだお金は母さんが使ってもいいのよ」
『もう、お金の心配なんてしてるんじゃないわ。貴方もう三十歳なのよ。ほら知り合いの浩司くんだったかしら、今はどうしてるの?』
「会ってないわよ。もう一年も経つかしら」
『怠け者のあなたが、どうしたのかしらね。スマホで仕事するって、区切りがつかなくて働き過ぎるのじゃなくて?』
母さんはよく分かっていた。最近は常にスマホを手離すこともなかった。でも、どんなに仕事をこなしても、実感がない。
自分の足で駆けずり回っていたころには分からなかった。とどのつまり私の仕事とは適材適所に人と物を動かすだけの単純なものだ。
人間関係や協調性、チームワーク。しがらみによる圧力を徹底的に排除すれば、仕事は簡単すぎるほど単純だった。
着信。
「もしもし。終わったかしら……ええ、事故だと報告するのよ。無能だなんて思ってないわ。連中にも雪山でマンモスを追いかけるくらいの知能はあるでしょ?」
仕事の出来る人間とは、何も自分でやらない人間のこと。責任なんて犬にでも喰わせればいい。どうせ誰もとらないのだから。
「……質問してるのはこっちよ! さっさと自分の仕事をしなさい。責任を持つのよ」
私は笑った。私のではない笑い声をたてて。すべてを無駄に感じることがある。つまり私は寂しいのかもしれない。
あちこちの仕事をスマホひとつで掛け持ちして、報酬は何十倍にもなっていた。それでも自分のことを評価出来るほどの充実感はない。
「……」
何ヵ月も人と直接会っていない。寂しいくせに以前の生活に戻る勇気も気力もなかった。世界と自分を繋いでいるのは小さなスマホだけのような気がした。
マンションのエントランスから呼び出し音が鳴った。この家を訪れる人間はデリバリーサービスかネットの宅配便しかいないはずだった。
「……どなたですか?」
小型モニターに映るマスク姿の男はヨレヨレのパーカーを着ていて左手に古びた雑誌だけを持っていた。
『あ、あの、俺です』
「こ、浩司くん!? どうしたのよ、急に。電話してくれれば良かったのに」
『き、君は出ないだろうし。スマホじゃ出来ない
「何か急用かしら。だって一年ぶりよね」
『……う、うん。君の忘れ物を持ってきたんだ。この雑誌なんだけど』
「ぷっ」咲恵は吹き出した。「言い訳にもほどがあるわ。いいわよ、入って」
無理のある言い訳。どうせその辺で拾った雑誌なのだろうけど。慌てて長い髪に指を通しながら部屋を掃除する。
自分にも表情があったことを確認して胸が高鳴った。私はドキドキしていた。スマホじゃ出来ないことを想像してしまう。
忘れ物……彼がいつの間にか忘れていた自分を見つけて拾いあげてくれるような、そんな感覚だった。
はやる気持ちを抑えてオートロックを開けると、浩司はゆっくりと部屋へとあがった。
「おじゃまします」と彼は言ったが、生で聞く声には温かみがあって優しくて、押し付けがましいところは全くなかった。
「……いらっしゃい」年甲斐もなく緊張で頬が赤くなっていた。「久しぶりだね、スマホじゃ出来ないことって何かしら?」
台所から戻ると私は壁に寄りかかって背中のモノを隠した。興奮して待てそうもなかった。一番楽しめる方法ですぐにやりたかった。
「うん。ちょっと待っててね」
そう言ってマスクを取った彼は、引き綱を離した猛獣のように私に向かって飛び付いた。その口は鮫のように幾重にも生えた牙があった。
あまりに突然に、あまりに素早く。物理法則を無視した動きには閉口した。私は躊躇なく取り出した銃で二発。もう二発撃った。
「……ギャアアアアアア……アアアアッ」
横たえた彼は悲しげな目を向けた。あの頃の私ではなく別の私に。薄汚れた青みがかった体液がリビングのフローリングに広がった。
こんな生活になって浩司は変わってしまった。だから私も変わるしかなかった。彼がこの部屋を訪れることはないと知っていた。
この日を夢見てずっと網をはっていた。そのうち目的を忘れて仕事に夢中になっていた。そう、まるで別人のように。
「確かにスマホじゃ出来ないこともあるわよね。ほら、スマホじゃ貴方を殺せない」
古びた雑誌が彼の手から滑り落ちた。ずっと昔に一緒に買った結婚情報誌だった。こんな時まで手離すことが出来ないなんて私は呆れてまた笑いだした。
「ふう……やっぱり、こっちの方が仕事をしたって気がするわ」
リボルバーの銃口にフッと息を吹いた咲恵は誰も居ないリビングでポーズを決めた。また着信音が鳴っていた。
咲恵はすでに地下組織の幹部としてエージェントネーム『ペンギン』で通っていた。今の彼女は決めポーズを中断して電話に出るほど軽い女ではなかった。
ワーク・フロム・リビングデッド 石田宏暁 @nashida
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