瘤
鱗卯木 ヤイチ
第1話
「また……」
小宮明美は人里離れた郊外の自宅で、庭にある桜の樹を眺めて呟いた。桜の幹の表面にぷっくりとした小さな瘤のようなものが出来ていた。桜の樹がまたコブ病にかかってしまっていたのだ。
コブ病とは桜やコナラ、フジの樹などの表面に瘤状の盛り上がる病気である。初めは樹木の表面に小さな豆粒大のでしかないのだが、コブ病が進行すると人間の握り拳かそれ以上の大きさに膨れ上がる。数もまちまちで、瘤がひとつしかできない場合もあれば、複数個発生する場合もある。そのまま放置をしておくと樹木の生育に影響し、枯れたり、瘤の部分から折れてしまったり恐れもあるため、なるべく早期に治療する必要があるのだ。
明美の家の桜は特に弱い個体なのか、ある時から頻繁にコブ病にかかるようになった。つい数ヶ月前も瘤を除去して、薬剤を塗布したのだが、今日見るとまた小さい瘤が樹木の到る所に生じていた。
「早めに取った方が良いのだろうけど……。やっぱり、もう少し大きくなってから除去することにしようかな」
明美はそう独り言ちた。
それから2週間後、明美はまた桜の樹の状態を確認していた。
瘤は以前より確実に大きくなっており、今では明美の握り拳くらいの大きさになっていた。その数もかなり増えており、幹の半分ほどを埋めるに至っていた。
明美は瘤をこんこんと軽く叩き、その後表面を撫でてみる。明美の身体が一瞬ぶるりと震えた。
「……取り除くには、まだ早いかな」
明美はそう言って屋内へと踵を返した。
気のせいか明美の瞳に妖しい光が灯ったように見えた。
それからまた2週間後の深夜2時頃、月明かり照らされた桜の樹の傍らに、明美は立っていた。月明かりに浮かぶ明美の顔には、歓喜とも言える表情が浮かび、頬は少し色を帯びていた。明美は瘤が良く見える様に、桜の樹の表面を懐中電灯で照らした。
この2週間で瘤はさらに大きくなっていた。ちょうど人の頭くらいの大きさにまで成長しており、どの瘤の表面にも全て同じように左右対称の凹凸が形作られていた。その形はもはや瘤と言うよりかは、人の顔と言った方がしっくりと来た。そのような人面瘤が桜の幹の表面にびっしりと敷き詰められていた。
懐中電灯の光が揺れるたびに、その顔は喘ぐように表情を変えた。
「……ふふ、またよくここまで育ったわね、幹男さん?」
明美はひとつの人面瘤の頬を撫でた。
「よっぽど恨めしいのかしら? 取っても取っても、また出てくるなんて。もう地面の下には骨くらいしか残ってないでしょうに……。……でも安心して、私が何度でも取り除いてあげるから」
明美は手にした鉈を急に振り上げると、柄の部分で人面瘤のひとつを激しく殴りつけた。殴られた人面瘤の顔が苦痛で歪んだように見えた。
「ははっ! いい気味! これまで散々人に暴力を振っておいて、自分が殴られるのはやっぱり嫌なのね。……少しは後悔するといいわ!」
もう一度、明美は人面瘤を殴りつける。
明美はその瘤を通して、かつて自分を虐げてきた夫の幹男を見ていた。
幹男は明美の年の離れた夫であった。幹男は普段は温厚な男だったが、少しでも自分の意に沿わない事があると激昂し、明美に暴力をふるった。酒が入ると幹男の暴力はさらに苛烈さを増し、ひとしきり暴行が終わった後には明美は痛みで立ち上がれなくなることもしばしばだった。幹男が仕事を引退してからの毎日は地獄だった。ほぼ毎日、昼夜問わず明美は暴行を受け続け、明美は心身ともに衰弱していった。そんな毎日にただひたすら耐え忍ぶしかなかった。
ある日、明美はいつものように幹男から暴行を受けていた。
明美は自分の身を守ろうと幹男に向かって手を伸ばした。その手がたまたま幹男を押し返す形となった。幹男は酒を飲んでいたせいもあり、そのまま仰向けに倒れた。倒れた時に頭をテーブルにぶつけ、そのまま気絶をしてしまったのだ。
明美が動揺したのはほんのわずかな時間だった。幹男が目覚めた後、更なる暴力にさらされるのは目に見えていたため、明美はすぐさま幹男をガムテープで手足や身体、顔までもがんじがらめに何重にも縛った。それだけでは足りないと思い、明美はガムテープの隙間から大量の酒を無理やり幹男の口に注ぎ込んだ。
幹男が酩酊して身動きが取れなくなっている隙に、明美は庭の桜の樹の傍に大きく深い穴を掘り始めた。幸いにして、明美の家は郊外にあり、近所の人から見られる恐れはまず無かった。数時間かけて深さ1mくらいの穴が出来ると、明美はその穴の中に縛ったままの幹男を引きずり落とし、そして埋めた。
近くにあった桜の樹は枯れてしまうかとも思われたが、意外にも枯れることなく桜の樹はそこに居続けた。しかしその代わり、幹の表面に瘤が出来始めた。
最初は小さかった瘤は、次第に大きくなり、数も増えた。大きくなった瘤は幹男の顔と瓜二つになり、それが樹木の表面を埋め尽くした。
その光景に明美は初め戦慄した。慌ててその人面瘤を鉈でそぎ落とし始めた。切除される際に人面瘤は苦痛のような表情をし、切り口からは血のような赤い樹液噴出した。その様子に明美は興奮した。かつては自分を苦しめた相手を、今度は逆に自分が苦痛を与えているのだと思うと、恐怖が次第に快楽へと変わっていった。
それから数年の間、明美は桜の樹に瘤が出来るたびに、その歓喜の儀式を繰り返していた。
「……じゃ、まずあなたから行くわよ。……そら!」
右手に持った鉈を、明美は容赦なく幹男の人面瘤に向かって振り下ろした。
何か硬いものを砕く鈍い音と、噴き出る赤い飛沫に、明美は独り、酔いしれた。
狂喜に支配された、そんな明美の恍惚とした表情を、月明かりが照らす。
明美の顔に、まだほんの小さな瘤が、ぷくりと浮かんだ。
瘤 鱗卯木 ヤイチ @batabata2021
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