少女は彼に触れられない

藤咲 沙久

不思議だわ、不思議だわ。

 身体が落ちる夢を見た。

 全身のびくりと跳ねる感覚で目を覚ます。ああ、よくあるやつだ。この現象にも何か名前がついているんだろうか。

「あー……あ? ここ、どこだっけ……」

 目の前にはエレベーター。壁には五階と書かれている。俺は一人掛けの小さなソファに座っていた。家じゃない。そうだ、紗奈さなと二人で古い旅館に泊まったんだった。

 長い同棲生活の中で初めての旅行。どこか行きたいと言うから、わずかな貯金を崩して近場だが少し高い宿に予約を取った。だというのに紗奈は朝からずっと不機嫌だった。

「なんなんだよ……叶えてやっただろ、旅行」

 ふと右を見ると飾り用の小さなテーブルがあった。ぐしゃりと凹んだビールの缶が数本乗っているが、俺が置いたんだろうか。だんだんと飲んだような気もしてくる。まだ酔いが抜けていないのか記憶が曖昧だ。

 ぼんやりそれを眺めていたら、伸びてきた手が缶を掴んだ。顔をあげる。制服と、掃除用具が詰め込まれたワゴンを見るに清掃員なんだとわかった。彼はテキパキと片していく。

「あ……どうも。すみません」

 ばつが悪くて軽く頭を下げたが、テーブルの上を雑巾で拭く間も、清掃員は一言も口をきかなかった。そのまま背中を向け、ワゴンと共に去っていく。あまりの態度に俺はしばらく呆然としてしまった。

 戸惑いは残ったものの、とにかく部屋に戻ろうと思い立ち上がる。見下ろすとパーカーにジーンズ姿だった。まだ大浴場には行っていなかったらしい。

 廊下に並ぶ窓からは暗闇しか見えない。紗奈と言い争いをしてから、かなり時間が経っているらしかった。

(ああ、そうだった。紗奈と喧嘩したんだ)

 じわり、じわりと思い出す。相当酔っているのか、少しずつしか自分の記憶を辿れなかった。

亮介りょうすけは何にもわかってない」

 たしか、紗奈がそう言った。徐々に会話が頭に蘇ってくる。

「どういう意味だよ」

「私の話を聞いてない。どうでもいいと思ってる、興味がないのよ」

 どうでもいいなら二人で生活するもんか。家事だってある程度手伝ってる。レスにだってなっちゃいない。手のひらに残る柔らかく豊満な感触は、まだ記憶に新しいくらいだ。

 何が不満なんだ。何を怒ってるんだ。結婚を先伸ばしにしてることなら、気にしなくていいと言っていたじゃないか。腹を立てる理由なんてどこにもないだろ。

「もういい。私帰る」

 そうだ、紗奈が急に声のトーンを落として荷物をまとめ始めた。鞄をひっくり返した状態の俺とは対照的に、元々たいして広げられてなかった私物はすぐ片付いていく。

「はあ?! もう夜だぞ、何言ってんだ」

「たかが隣の県なんだからどうにでもなるわよ。あとウチには戻らないから。しばらく友達の家に泊めてもらう。亮介の顔も見たくない」

「……そうかよ、勝手にしろ!」

 あの瞬間は俺だって紗奈の顔を見ていたくなかった。見送りは御免だと、鍵と煙草、小銭入れだけ尻ポケットに詰めて先に部屋の外に出てやったんだ。だが、今はすっかりそんな気持ちも薄らいでいる。

 もしかしたら紗奈もすぐに落ち着いて、ロビーにつく頃にはけろっとした表情になってたかもしれない。すっかり夜だ、俺が酔いつぶれている間に部屋へ戻っている可能性もある。あれは気分屋なところがあるから、十分に考えられた。喧嘩をするといつもそうだった。

「……不用心だな」

 藤の間、と札の出た部屋の前で足を止める。俺たちに充てられた部屋のはずだ。わずかに細く入口の引戸が開いていた。鍵こそかけなかったが、戸は閉めて出たはず。

 揉めた気まずさもあって、音を立てないようそっと覗き込んだ。奥に見える襖から漏れる明かりは無く、明らかに不在だ。

(いや、紗奈なら戻ってくる。もしくは出ていってもない。きっと、風呂にでも行ってるんだ)

 体を引くと、不意に隙間が塞がった。引戸が勝手に閉じた──わけはない。視線を降ろすと、ずっと下、自分の腰ほどまでしか背丈のない少女が立っていた。両手は戸に添えられており、彼女が閉めたのだとわかった。

 日本人形を思わせる、黒々としたおかっぱ頭。今時珍しい。

「何してるんだ」

 声を掛けると、まるで俺がここにいると今気がついたかのように驚いた顔を向けられた。瞳までが一切他の色を交えない漆黒だった。

 旅館に備え付けられた物とは明らかに異なる浴衣姿の少女。いったいいつからそこにいたんだろうか。

「不思議だわ、不思議だわ。おにいちゃんこそ何をしているの?」

「何って……ここ、俺が泊まってる部屋だし」

「おにいちゃんと居たおねえちゃんなら、もう居ないわ、居ないわ」

「紗奈のことか? どうして……紗奈はここにいるはずだ」

「忘れたの、忘れたの? 路華みちかのことも忘れちゃったのね?」

 ミチカ、というのはこの少女のことなんだろうか。忘れたも何も、お前のことなんて知っているわけがない。

 無視して中に入ろうと手を伸ばしたが、少女がワッと声をあげた。子供らしい高い音がいちいち耳に障る。

「駄目よ、駄目よ。おにいちゃんはお部屋に入れないわ。路華が鍵をかけたから」

 少女の右手には棒状のプラスチックがぶら下がった鍵。尻ポケットに手をやる。入っていない。いつ取られた? いつ施錠した?

 俺が確かめるより先に、少女が「ほら、ほら」と戸を揺らし開かないことを証明してきた。

「お前、何がしたいんだ。鍵を返せ」

「おにいちゃんはここに居てはいけないの、いけないの。正しい場所へ路華が連れていってあげる」

 音も立てずに少女がきびすを返す。駆けているようだが、幼い足取りに追い付くなど造作もないことだ。俺は仕方なくその背中を追った。ほら、浴衣の袖を揺らして大きく振る腕をもう掴める。

「ふざけるのもいい加減に……」

 奇妙な感触。まずはそう思った。

 理解するより先に、首の後ろがざわりと粟立ったのがわかった。深く呼吸をすることが出来ない。少女から目を逸らしたいのに瞬きすら叶わない。

「こっち、こっち。路華についてきて」

 少女はくすくすと笑って俺を振り返る。今、俺はあの細い腕を捕らえたはずだ。自分の手を見た。完全に空を切ったことに間違いはない。

 触れられなかった。すり抜けたように、物体を感じなかった。

(──気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い)

 人間じゃない何か。そうとしか考えられないじゃないか。まだ自分は酔っているのか、だとしても胃からせり上がるような吐き気はアルコールによるものではない。

「まだよ、まだよ。この先なの。おにいちゃんはすぐに諦める。おねえちゃんのこと、思い出したいんでしょう?」

 甲高い声にハッとした。コイツは紗奈を知っている。すぐに諦める、それはよく紗奈が口にした言葉だ。まさか、紗奈をどこかに連れ出したのか。無事を確認しないことには立ち止まることは出来ない。

 愛しているんだ。学も金もない、たいした仕事も出来ない俺を受け入れてくれる、心の広い女なんだ。もう、俺には紗奈しかいないんだから。

「……そっちに、紗奈はいるのか」

 少女がにこりと笑った。そこはもう行き止まりにも見えたが、どうやら非常階段の扉があるようだ。俺が一度止めた歩みを再開したのを確認すると、少女は重たそうにそれを押した。俺を待つようにそのまま開けて立っている。

 吹き込んでくる風に逆らって外に出た。景色は闇夜でよくわからない。背中でバタンと音がしたのを聞いた。扉が閉まったんだ。

「紗奈? 紗奈、どこだ……?」

 喉が震えた。いるはずなんだ、必ず。俺が呼べば返事をする。いない、いない、そんなわけはないどうして。

 どうして紗奈は、俺 の 前 か ら い な く な ろ う と す る ん だ 。

「紗奈! 紗奈、いるんだろ!? 頼む出てきてくれ、謝る、俺が悪かったんなら謝るから……紗奈!!」

 堪えきれず前へ踏み出す。その時、何かを踏みつけて足を滑らせた。いや、足元には何もなかったはずだ。でも俺にはわかっていた。確かに踏んだんだ。いつも吸ってるあの銘柄の、吸い殻を。

 宙に投げ出される体。ここは階段、下の踊り場まで落ちるしかない。落ちる、落ちる、この感覚を俺は知っている。

 これは、一度体験した記憶。

「悲しいわ、悲しいわ。仲直りしたくて仕方ないのね。もう何年も経っているのに繰り返してしまうほど」

 痛みはなかった。当然ということか。横たわったまま動けずにいると、階段を降りてきた少女が俺を覗き込んでいた。

「俺は、死んでたのか」

「残念ね、残念ね。事故だったと聞いているわ」

 そう、あれは事故だった。しばらく廊下の自販機前で酒を呷って、どうせ部屋にいると踏んで戻ると、自分の荷物しかなかったんだ。

 「どうしていいかわからなくて。……とにかく煙草を吸おうと思った」

 非常扉を開けた先の踊り場で何本か燻らせた。携帯灰皿を忘れたから落として踏み消した。それから戻ろうとした時、それに足を取られた……そうだった気がする。そして死んだ。

 なんだ。触れないのはコイツじゃなくて、俺の方だった。

「じゃあ、あの部屋に紗奈はいないんだな」

「今あちらには織部おりべさんというご夫婦が泊まっているわ。お夕飯中よ。部屋の鍵を閉め忘れたと言うから、路華がお母様のお使いで戸締まりにきたの。えらいでしょ、えらいでしょ」

 そうだな、と呟く声が掠れる。自分の立場がわかった途端、なんだかもうすべてが消えていくように思えた。これで、きっと俺は終わりだ。

「悪かった、な」

「本当に、本当に。とっても迷惑なお客様だわ。今回はお母様達に黙っててあげてるけれど、次はお塩を撒いてしまうわよ」

 霞む意識の中で、呆れたような少女の声が聞こえる。ふわふわと夢でも見ている心地がした。俺は今度こそ自分の状況を理解できたのだろうか。次に目を開く時、そこはあの世なんだろうか。

 落ちる、落ちる。思考が落ちていく。沈んでいく。

 そんなことを考えているうちに、身体がびくりと跳ねたのがわかった。

「……紗奈」

 俺は、エレベーターホールのソファに座っていた。

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少女は彼に触れられない 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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