ヘビースモーク

飛鳥休暇

吸い込んで、吐き出して

 逃げたくても逃げられないこの世界から、

 なんとか離れたくて逃げ込んだのは寂れた公園のゾウの形をしたすべり台の下だった。


 コンクリートで出来たすべり台の下の、トンネルのような筒状の空間で座り込む。

 子供たちが遊ぶように造られたものだから、そのトンネルの中は中学生になったわたしには少し狭かった。


 トンネルの中から外を見ると、激しい雨がいまだに降り続いていて、それは逆に私と世界を遮断してくれるカーテンのようにも思えた。

 地面はびちゃびちゃに濡れていて、スカートが濡れるのも構わずわたしはここに座り込んでいる。


 雨がすべり台に当たる音がトンネル内に反響している。

 気になったわたしが右耳についた補聴器を外すと、世界がわたしから遠ざかった。


 深呼吸をする。

 コンクリートの湿ったほこりっぽい匂いが肺いっぱいに入り込む。

 不快ではない。どこか懐かしい、心を落ち着かせてくれるような香りだ。


「いやー、すごい雨だな」


 ふいに、私がいる場所と反対の穴のほうに人の気配を感じた。

 見てみると、びしょ濡れになった傘をばさばさと振りながら誰かがトンネルに入ってきた。


 坊主に近いショートカットを金色に染めた女の人だった。

 大きめのTシャツとタイトなデニム。まるでどこかのパンクバンドのメンバーのような出で立ちだ。

 その人は中で座っていた私に気付くとぎょっとした表情をして何か呟いた。

 口の動きから「なんだ、先客がいたのか」と言っているようだった。


 そのパンク風の女の人はそれでも構わずに、わたしと同じようにトンネルの中に座り込んだ。

 甘ったるい香水の匂いがトンネル内を侵食してくる。

 そのままわたしに顔を向けて何かを言ってきたので、わたしは慌てて外していた補聴器をつける。


「……なんだお前、耳聞こえないのか?」


 パンク女が不躾ぶしつけに言ってくるので、わたしは少しムッとしながら「今は聞こえます」と答えた。


「そうか。制服ってことは中学か高校か?」


「……中二です」


 他人との距離感がおかしいのか、パンク女はズケズケと聞いてくる。


「中学生がこんなとこ座ってなにやってんだよ」


 女が馬鹿にするようにわずかに鼻を鳴らす。

 大人のあなたのほうがこんなとこに来てなにをしているのかと言いたくなる。


「ま、いいや。今からオレ、ここでタバコ吸うから、煙が嫌だったら出て行けよ」


 なんて勝手な人なんだと思った。

 そもそも先にこの場所にいたのはわたしのほうなのに。


「私の方が先にいたのに。みたいな顔してんな」


 わたしの心を言い当てるように女が笑う。


「仕方ねぇよ。ここはオレのお気に入りだからな。ここでタバコ吸うのがオレの日課なんだよ。つまり、ずっと前からここはオレの場所なの」


 そんなめちゃくちゃな理論を言いながら、女がポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出す。

 お父さんが吸っているのとは違う、白い箱のやつだった。


 女が箱をそのまま食べるかのような動きをしながら、中から器用に一本だけ口を使って取り出す。

 カキンという小気味の良い音と共に、銀色のライターで火を点けだした。


 タバコの先端が赤く光りながらわずかに女の口元へと近づいていく。

 ふぅーと大きく息を吐きだすと、白い煙がトンネル内に充満した。


 焦げ臭いような臭いがこちらまで漂ってくる。


「逃げないのか?」


 女がタバコをくわえながらわたしに聞いてくる。


「……逃げてきたんです」


 わたしが答える。


「……そうか」


 それ以上は何も言わずに、女はタバコをふかし続ける。


 そのまましばらく時間が流れた。

 外から聞こえてくる雨の音は激しさを増し、まるでコンサートの歓声のようにも聞こえた。


「よっと」


 ふいに、女が腰を上げた。

 傘を先にトンネルから出して開く。


「まぁ、何があったか知らんけどよ。また逃げてきたらいいよ。オレも勝手にここ使うからよ」


 トンネルから出ていく間際に覗き込むようにして女が言って、そして立ち去って行った。


 ひとり残されたわたしは、湿った埃と、甘い香水と、タバコの煙が混ざった匂いの中で、しばらく膝を抱えていた。



 ******



「お、またいたな」


 わたしの顔を見るなり、女がそう言ってきた。

 今日の空と同じような晴れた笑顔だった。


 女は前と同じようにトンネル内に座り込むと、慣れた手つきでタバコに火を点ける。

 大きく息を吐きだすと、トンネルの天井を見つめながら「……で?」と言ってきた。


「何から逃げてきたんだ?」


 女の問いに、わたしはしばらく考えてから「……世界から」と答えた。


「そりゃいいや」


 女が楽しそうに笑う。


「いじめられてんのか?」


 何気なく吐き出されたその言葉に、わたしの心がチクリと痛んだ。

 何も言わずに黙ってうなずく。


「……そうか。まぁな、そんな世界なら逃げて正解だ。アイツらは自分と違うもんを認めたくないらしいからな」


 まるで経験談のように語る女の横顔を見る。

 男勝りな格好をしているが、よくみるととても整った顔をしていた。

 イケメンと言ってもいいのかもしれない。


「でも、逃げてる自分がほんとは嫌いです」


 わたしが言うと、女がハンッと鼻を鳴らした。


「やめとけ、やめとけ。自分で自分を嫌ってもいいことなんか一つもないぞ。いいか、どれだけ甘い言葉を囁かれてもな、自分をほんとうに愛せるのは自分だけだ。お前みたいなヤツはいつか悪い男にコロッと騙されるぞ」


 そう言って女は火がついたままのタバコを持った手でわたしを指さしてきた。


「でも、わたしは自分を好きになれないです」


 わたしは無意識のうちに補聴器に触れる。

 わたしと世界を繋ぐもの、そしてわたしと世界を隔てるもの。


「まぁ、そうだな。オレもお前と同じ年の頃はそうだったよ」


 わたしは女のほうを見る。

 女はどこか遠い目をしてトンネルの壁を見つめている。


「でもいつか分かる日がくるよ。人を気にしてもしょうがないってな。『自分の人生の主役は自分だ』みたいな言葉があるだろ? あれは本当は逆だと思うんだよな」


「……逆?」


「そう。人生の主役が自分なんじゃなくて『他人は自分の人生の主役じゃない』んだよ」


 女の言葉の意味が分からずに、わたしは少し首を傾げる。


「だからぁ、何があったって他人はモブなんだから気にする必要はないってこと。それが親だろうが、恋人だろうがな」


「そんなこと」


「今は思えなくてもいいよ。でもどうしようもなくなって、逃げることも出来なくなったら絶対に開き直れ。もうどうでもいいやーってな。んで、自分の好きなように生きればいい」


 そんなことを話していると、突然女の背後からにゅっと別の女性の顔が現れた。


「ショウ、いつまでタバコ吸ってるのよ」


 さらさらのロングヘアーを垂らしながら、トンネル内を覗き込んで来る。


「おう、悪い悪い」


 そう言うとショウと呼ばれた女がタバコを地面に押し当てて火をもみ消す。


「……だれ? その子」


 わたしの顔を見つめる女性の目が冷たくて、わたしは少し姿勢を正す。


「ただの『逃げ友達』だよ。……ガキに妬いてんじゃねーよ」


 そう言ってショウが長髪の女性のおでこを軽く叩いた。


 叩かれた女性は「てへっ」と可愛く言ってから、ショウの腕に自身の腕を絡ませた。

 それはまるで恋人同士の行いのように見えて。


「んじゃ、またな」


 そう言ってショウと女性が立ち去っていく。

 女性が甘えるようにショウに頭を寄せている。


 ――あぁ、そうか。


 あの人も、世界から逃げたくなったことがきっとあったのだ。


 二人の背中を眺めながら、わたしはぼんやりとそんなことを思ったのだった。



 ******



 それから何度も、わたしはトンネルに逃げ込んだ。


 私がトンネルで座り込んでいると、決まってショウが現れてはタバコを吸って帰っていく。


「ここよぉ、いいよな」


 ショウがトンネルの壁に足の裏をくっつけて言う。

 さほど広くもないトンネルだから、足裏をくっつけていてもヒザが曲がっている。


「なんかよぉ、お母ちゃんのお腹の中にいるみたいに落ち着くよな」


 トンネルの中に、ショウの声が反響する。


 ショウはおしゃべりが好きなようで、タバコ一本吸う間にも、そんな風にわたしに話しかけては勝手に納得して帰っていくのだ。


 でも、そんな時間がわたしにとってもいつしかかけがえのないものになっていた。


 今日はどんな話をしてくれるのだろう。

 世界から隔離されたこのトンネルの中で。

 ショウの言葉とタバコの香りだけが、リアルなものに感じられたから。



 そんなある日、いつもと同じようにトンネルの中で座っていると、反対側から誰かが入ってきた。


 ショウかと思って顔を上げると、そこには四十代くらいのおじさんがいた。


「お嬢ちゃん、こんなところで何してるの?」


 にこやかに話しかけてはいるが、その笑顔がどこか怖く感じてしまう。

 私が黙っていると、おじさんはゆっくりと私に近づいてきた。


「お嬢ちゃん、こんなところにいるくらいならボクとパパ活しようよ。一緒にご飯食べよう。ね?」


 じりじりと寄ってくるおじさんの迫力に押されて、わたしは動くことも声を出すことも出来ずにただ身体を強張らせていた。


「ね? 大丈夫だから。優しくするからさ、っがぁぁぁぁ!」


 言葉の途中で突然おじさんが大声を出して苦しみだした。


「オイ! おっさん! なにしてんだテメェ!」


 声のするほうを見ると、おじさんの向こうで怖い表情をしているショウの顔が見えた。


 ショウはおじさんの足を掴んで、その股間を蹴り続けていた。


「ご、ごめ! もう、やめ! やめて!」


 おじさんが降参のポーズをとって、股間を押さえながらトンネルから逃げ去っていった。


「まったくよ。変態おやじが。……おい、大丈夫だったか?」


 ショウが心配そうにわたしの顔を覗き込んできたので、わたしは思わずショウに抱きついた。


「……こ、怖かった」


「……そうか」


 ショウの手がわたしの頭を優しく撫でてくれる。

 わたしはショウに抱きついたまま、しばらく身体の震えを止めることが出来なかった。


「なんだ、お前さ」


 ショウがわたしの頭を撫でながら言う。


「いっちょまえに女の匂いするのな」


 その言葉にわたしが顔を上げると、ショウがわたしの唇にキスをしてきた。


 柔らかな唇の感触と、ショウの香水とタバコが混ざった匂いに、いつしかわたしの身体の震えは止まっていた。


「ハハッ。悪かったな。もしかしたらファーストキスだったか」


 顔を離してから笑ったショウの言葉に、わたしはイエスともノーとも取れるような首の振り方をした。


「もうあのおっさんはこねぇだろうけどよ。お前はまだ若いから、気を付けるんだぞ」


 そう言ってショウが頭をポンポンとしてくるので、わたしは犬になったみたいに目を細めた。



 ******



 それからしばらくした頃、いつものようにトンネルでショウを待っていると、遠くから声が聞こえてきた。


「ショウ! ショウ? ねぇ! ショウ!」


 ショウの名前を呼ぶ声が近づいてくる。


 何事かと様子を伺っていると、いつかショウと腕を組んでいた長髪のお姉さんがトンネルを覗き込んできた。


「ショウ!?」


「……あ、あの」


 わたしの顔を見て驚いた表情をしたお姉さんが、それでもトンネル内をキョロキョロと見渡す。


「……ショウ見なかった?」


「今日は、まだ、来てないです」


「……今日は?」


 すごい顔でお姉さんがわたしを睨みつけてくるので、わたしはびくりと肩を揺らした。


「あなた、何か知ってるんじゃないの?」


 お姉さんがわたしの目をまっすぐ見ながら聞いてくる。


「あの、……知ってるって、何を」


 わたしの言葉に、お姉さんはフンっと鼻を鳴らしてからそのままどこかへ立ち去って行った。




 ――その日以来、ショウがトンネルに現れることは無かった。





 ******



 あれからなんとかわたしは大人になった。


 あれだけ悩んでいた学校生活も、離れてみればなんてことはなかったようにも思う。


 それはショウがくれた言葉のおかげでもあるだろう。



 今でも街中でショウと同じような香水やタバコの匂いがすると思わず振り返ってしまう。



 わたしと世界を繋ぎとめてくれた人は、タバコの煙のように音もなく消え去ってしまった。


 わたしの身体の中にこびりついて離れない、宝物のような思い出だけを残して。



 わたしの中に入り込んだあなたを思い出す度に、初めて吸ったタバコのような苦い痛みが全身に広がっていく。

 出来ることならわたしも一緒に吸い込んで、あなたの一部にしてくれたら良かったのに。


 煙になったわたしを吸い込んで、連れて行ってくれたら良かったのに。




【ヘビースモーク――完】

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