黄色い目の女

井ノ下功

見られている


 私が見出されたのは何故なのだろう。

 馬車の荷台の上に立ち、沿道で拍手をする人々に向かって手を振りながら、ぼんやりと考えた。馬車の前後には旗を掲げた兵士がずらりと並び、物々しい空気に包まれている。沿道の人々は疲れたような表情で、縋るような目を私に向けていた。

 縋られても困る。私はこの身のすべてを持て余す気分になりながら、さらに考えた。私は何故見出されたのだろう。私の何を見出したのだろう。

 私はただの村娘であった。ここよりもずっと東の農村に住んでいた、ただの小娘。特別なところは何もなく、見栄えだって大してよくない。あるいはジャンヌ・ダルクのような、そういう物語性が求められたのかもしれない。といっても私に天の啓示を受けた記憶などなく、またそういうドラマも付け足されなかった。付け足されたのは不気味なストーリーと、“魔女”のあだ名。

 頬に当たった雪がじわりと溶ける。ついに降り始めた。今夜はひどい吹雪になるという話であった。できればこの後の野外演説まではもってほしいとこっそり祈る。祈りながら、凍り付いたような微笑は溶かさないよう気を付ける。それが隣を進む上官の指示であった。

 上官は毛並みの良い馬の上でぴんと背筋を伸ばし、鋭い視線をどこへともなく飛ばしている。どこへともなく、といったが、その目は誰かの挙動不審を決して見逃さない。今も。彼がぱっと首を廻らせて路地の奥の方を見遣ったと思ったら、すぐ傍に控える部下へ人差し指を振った。部下が飛ぶように隊列を外れて指示された方に向かっていく。どうせ禁制の酒か、敵性の文書が見えたとか、そういうことだろう。

 戦況が悪化するにつれて、統制はどんどん厳しくなっていく。疲れた顔になるのも当然のことだ。

 ふと見れば、沿道に並ぶのは老人と子どもばかりであった。

 私は故郷の祖母のことを思い出した。私が戦争のために村を出ることを、最後まで心配していた祖母。元気にしているだろうか。私の協力の代わりに保証された配給は、きちんと届いているだろうか。



 教会にはすでに人がたくさん座っていて、私が説教台に立つのを待っていた。私は神父の案内に従って、十字架の前に立つ。決まり通り祈りを捧げてから、民衆に向き直る。

 話すことは事前にすべて決まっている。上官が用意した台本を、ただ淡々となぞるだけ。抑揚も技術も何もいらない、ただ平坦に、凍り付いたように、ひたすら言葉を紡ぐのみ。


「私は導かれてここへ来ました」


 この話をするのは何度目だろう。私の村からここまで、何十という村を通るたびに話してきたから、もうすっかり覚えてしまった。あの氷のような上官が作ったにしてはドラマチックな、けれど面白くも感動もしない作り話。


「それは妙齢の女性でした。ある日私の村に来て、畑仕事をしていた私に言ったのです。この戦争はすぐに終わる。ただし私たちの勝利とはならない、と」


 ここでざわり、と民衆がどよめくのもお約束。事前に仕込んであるのかと思うくらい同じ反応だ。けれど私の心は動かない。すべて作り話なのに、という罪悪感ももう無くなった。


「私は聞きました。何故負けるのですか。私たちの努力が足りないのですか。すると女性は言いました。努力の問題ではない、と。私は咄嗟に、半ば縋るような気分で尋ねました。ならばどうすればいいのですか。私に出来ることはありませんか。どんなに些細なことでもいいのです。どんな苦難にも立ち向かい、どんな苦労もいとわない、と」


 ベンチの一番端でうつむいていた老婆が、そっとハンカチを目に当てた。花柄のほっかむりはひどく色褪せ汚れている。子どもらは真っ直ぐにこちらを見上げている。誰も彼も細くて小さかった。


「お国の役に立ちたいという一心でした。私の村も多くの青年がお国のために身命を賭しています。私一人が、ただ女だというそれだけの理由で、何も役に立てないというのが悔しくて仕方がなかった。まして負けて終わるなど、許せるはずがありません。それが伝わったのでしょう、女性は私に教えてくれました。私に会ったことを話しながら、西へ西へと進みなさい。皆が私のことを知り、私の力を信じ、一心に祈るようになれば、必ず道は拓ける、と」


 しんと冷え込む教会は吸い込まれるように静かだ。わずかな身じろぎの音がぎしり、みしりと響く他は、私の声しかまともな音がない。


「それまで私は気が付かなかったのですが、彼女は深くうつむいていて、顔が見えなかったのでした。去り際にようやく彼女は顔を上げて、私は初めて彼女の目を見ました。その目は真っ黄色に光り輝いていました。白目も含め、すべてが。そして彼女は、私の目の前で、ふと消えたのです」


 このくだりを話すたび、不気味だなと思うのを私はひた隠しにしている。万一バレでもしたら、隣に仁王立ちする上官が何を言うか分からないからだ。


「しばらく呆然としていた私は、ふと思い出しました。私の村の古い伝承を――黄色い目の女の話です」


 当然、この伝承もでっちあげたものである。あの村で二十年生きた私も、三四半世紀に手が届こうという祖母も、こんな話ちらとも聞いたことがない。それを堂々と語れるのだから、私も大した大嘘つきである。


「その女は森に住まい、かつては魔女として恐れられていました。ですが、何か大きな勝負事に挑むとき、彼女に祈りを捧げて勝てなかった者はいないという話です」


 そんな都合の良いことがあるものか。そう言った人もいなかったわけではない。けれどこのところ、そういう声はすっかり途絶えていた。みな、藁にも縋りたい気分なのだろう。


「だから私は村を出て、言われた通りに西へ向かい、この話をしています。私がこの身を捧げ、この国に勝利を呼び込むために。話は以上です」


 皆さんも信じてください、などという言葉は要らないのだろうか、と最初期の私は思ったのだが、やっていくうちに身をもって要らないことを知った。そんなこと言わなくても、みな何故か信じていくのだ。むしろ言わない方が重みが増す、と言ったのは上官である。

 私は無愛想に演台を後にした。

 教会でこの話をした後は、何故か十字架に目を向けるのが怖くなる。私は乾いた拍手を一身に浴びながら、逃げるようにして教会を出ていく。



 再び行列をなして、町の中心部に行く。雪はそれなりの激しさになっていたが、広場は人で溢れていた。

 聞きに来てくれ、とも、来ないでくれ、とも思う。小さな作り話でも、銃と軍服を傍らに何カ月とかけて話し続ければ、かなり壮大になっていく。

 仮設の台の上に立ち、私は話し始める。いつものように、淡々と。


「女性は私に教えてくれました。私に会ったことを話しながら、西へ西へと進みなさい」


 ふと、台を囲む人垣の先頭に立っている老婆の姿が目に入った。腰を曲げ、深くうつむいているその頭には、ひどく汚れて色褪せた花柄のほっかむり。さっきの教会にいた老婆がまた来ているようだ。熱心なものである。


「皆が私のことを知り、私の力を信じ、一心に祈るようになれば、必ず道は拓ける、と――」


 慣れた話を途切れさせたのは度忘れしたからではない。

 老婆が人垣から進み出て、真っ直ぐこちらへ向かってきたからである。

 隣に立つ上官が私の方を睨み見た。私は慌てて言葉を紡ぐ。


「――それまで私は気が付かなかったのですが、彼女は深くうつむいていて、顔が見えなかったのでした――」


 老婆の歩みは止まらなかったし、誰も止めなかった。老婆は粛々とした歩みでこちらに来て、台の上に登ってきた。

 私は上官の方を振り向いた。だが彼は冷たい目で私を睨むだけである。そして顎をくいと動かして、先を話せ、と無愛想に命じるのみだ。

 直感して、ぞくりと怖気が走った。彼には見えていないのだ。あの老婆の姿が!


「去り際にようやく彼女は顔を上げて、私は――」


 声は震えてもきっちり刷り込まれた話は続いた。

 続けながら私は前に向き直り、


 目の前に老婆の頭を見て息を呑む。


 老婆は私の目と鼻の先で、ゆっくりと顔を上げた。


 ――初めて彼女の目を見た。

 その目は真っ黄色に光り輝いていた。

 白目も含め、すべてが。


 しわくちゃの顔がにかりと笑う。


 私は絶叫して意識を失った。



   *


 台の上で流暢に話していた女性が、ふいに絶叫して倒れました。人垣が大きくどよめき、うねります。私はそのうねりに巻き込まれないよう気を付けながら、何が起きたのか知りたくて、必死に目を凝らしました。

 前の方から甲高い笑い声が聞こえてきます。何人かの怒号も。何か予期せぬ、恐ろしいことが起きているようでしたが、私にはよく見えませんでした。

 次の瞬間、ひときわ大きな叫び声が上がって、人垣から飛び出た一人の女性が西へ行く街道を走り去っていきました。ものすごいスピードでした。私の目では一瞬しか捉えられなかったのですが、その姿は確かに、台でしゃべっていた女性でした。

 彼女の目は黄色に光り輝いていました。

 周りがざわめいています。すでに彼女の話は噂として聞いていました。黄色い目の女に導かれて、勝利を呼び込むために西へ向かっているのだ、と。

 私は我が国の勝利を確信し、胸の前でそっと両手を組みました。


「ありがとうございます、黄色い目の魔女様――」



     おしまい

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黄色い目の女 井ノ下功 @inosita-kou

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