第9話 エピローグ――鬼の胎動

 集中治療室I  C  Uから一般病床びょうしょうに移って一ヶ月、わたしは暇を持て余していた。読みたい小説はすべて読んでしまったし、スマホでネットサーフィンをするのも限界がある。どの場所で手持ち無沙汰であろうと大した違いなどないだろうが、雨が降っていないときは病院の庭先まで足を伸ばし、そこで時間を潰すことに決めた。消毒液と、それが隠す「死」の匂いがしない、爽やかな外気に触れると、胸の疼痛とうつうが少し和らぐ気がした。


 病院に運ばれたとき、瀕死の重傷を負い、医者をして手遅れだと言わしめたわたしの体は、しかし今、順調に回復しつつあった。何でも、折れた骨が肺や脾臓に深く突き刺さり、多臓器不全を起こしていたらしい。普通ならとっくに息が絶えている状態だったと医者は言った。実際、どうしてあんな状態で命が保てていたのかまるで理解が及ばない、手術が成功して正常な生命活動を取り戻したのは奇跡も奇跡と言う他ない、と。わたしの不可思議な生還劇には誰もが首をひねるばかりだった。自分の体のことではあっても、専門家に分からない道理を、わたしが理解できるはずもない。


 もうひとつ、まったく見当がつかないのは、わたしが重傷を負った経緯だった。事件なのか事故なのか、そもそも自分に何が起きたのか、まったく思い出せなかった。唯一分かっているのは、急患のわたしを壮年の男性が運んできて、すぐに去っていったという、その事実だけ。警察はその男を重要参考人として手配し、今も追っているが、未だ手がかりは何も掴めていない。


 思い出せないことは他にもある。事件――仮に事件としておこう――の一週間くらい前までの記憶も、わたしの頭からすっぽりと抜け落ちていた。家族や医者は怪我のショックで記憶が欠落したのではと言ったが、なぜかしっくりこない。何か異常な出来事を忘れている――そんな気がしてならない。失われた記憶を呼び起こそうとするたび、自分と誰かの悲嘆がかすかに耳奥で響いた。


 幻聴だけでなく、自分の両の手が血塗れになっている幻覚も何度か見た。驚いたのは、そうしたまぼろしを感じて、自分が高揚していることだった。恐怖や脅威を覚えるのではなく、わたしはたかぶり、鼓動と呼吸が早まった。それは、性的な衝動にすら似ていた。時間が経つにつれその興奮は急激に薄れつつあるが、採血のときなどは、未だ注射器から意識して目を逸らすようにしている。


 変化はそれだけではなかった。あれほど激しい悲しみを覚えた祖母の死を、受け入れている自分がいる。根拠は皆無だが、欠落した記憶の中の出来事を通してそうなったのだという直感があった。頭に思い描けもしない、“あること”があったから、わたしは今、祖母の急逝きゅうせいみ下せている。己の死すら糧にしてわたしが日々を生き抜いていくのを、祖母は何より望んでいるはずだと思える。死という不条理に足を捕らわれることなく、そこから這い出る負の感情に心を囚われることなく、前へ進みつづける――それが、不慮の最期を遂げた者をいたむために生者が取れる、最善の行動なのだと。


 透き通る青の空を仰げば、燦々さんさんと陽が照っている。確信のないことばかりだが、今こうして、命を保ったまま、まぶしい陽の光を受けているのは疑いようのない事実だ。ただ、もし、ここに確信めいたものを付け加えるなら、それは、わたしが死を伴う、恐ろしい何かをしたという感触だろう。その何かによって、わたしは、人をあやめたり、人が荼毘だびすことを日常のひとコマとして、目的のための手段に過ぎないと看做みなしてしまっていると思う。祖母の死を前向きに捉えられているのは、その副産物だ。


 もうひとつ、わたしには、予感がある。自分の中のこの鬼がいつか心を破り出て、暴れ回るかもしれないという、かすな予感。これからも、この胎動が止むことはないのだろう。だが、考えてみれば、きっと、これはわたしだけではない。少なくない人が心の内に「鬼」を抱えているのではないかと思う。それは怒りであり、憎しみであり、妬みであり、あらゆる負の感情だ。そして、陳腐な物言いをすれば、その裏には必然的に愛があるのだと、今なら理解できる気がする。


 だから、わたしはこの思いを――鬼を――抱えて生きていこう。おばあちゃんの希望や期待には添わないであろうこの方法はとても苦しいが、これのみが、鬼を宿してしまった人間ができる、唯一の嘘のない生き方だと思う。わたしはわたしの鬼を捨てはしない。それは、愛を捨てるということ、罪を捨てるということだから。


 *


悠木凛ゆうきりんは着実に快方に向かいつつあるようです。このままいけば、あと数週間で退院できるとの話でした。修羅と化した記憶も、お嬢様の術により消えたままのようです」


 暗い蔵の中で燈會ランタンの淡い光を頼りに文献を読みつづけるあるじに向かって、佐伯は新しい情報を伝えた。


「そうか」


 奈々美は無機質とも言える声で応える。


「本当に宜しかったのですか?」


 佐伯が躊躇ためらいがちに質問を口にする。


「……珍しいな」


 奈々美はそこで本をぱたんと閉じた。


「お前が私の行動に疑問を差し挟むなど」


「聡明なお嬢様のことですから、深い思慮の下で考え抜いた結論なのでしょう。無論、それを否定は致しません。しかし、個人的な疑問として、今ひとつせないのです。悠木凛は関口様を殺害した張本人。して、お嬢様が直接手をくださなくともあのまま死んでいた状態でした。それをわざわざ助けるなど――」


「それは、自らの背中も斬られたという恨みも含んでの意見か?」


 奈々美は悪戯っぽく微笑んだ。


「私はお嬢様のためなら命は惜しみません。悔やまれるのは、そのために命を落とせなかったばかりか、肉の壁にすらなれなかったことです」


 あのとき、斬られた衝撃で地面に頭を打ち付け、気絶していなかったなら、殺されていたかもしれない――いや、ほぼ確実に殺されていただろうと佐伯は思う。幸いにも傷は致命傷ではなく、背中に大きな切創きりきずは残ったものの命に別状はなかったが、護衛対象を守れなかった後悔は、傷痕よりもずっと深い痛みを彼の心に残している。


「それは、いい。あの娘は私が潜在的に持っている力を身に宿していた。それに加えて不意打たれたということならば、まず対処は不可能だろう。死ななかっただけでも最大の幸運だ。お前にとっても、私にとっても」


「畏れ入ります」


「翻って、あの娘のことだが――」


 奈々美は燈會の灯りを微かに調整しながら、言った。

 かたんかたんと器具が音を鳴らし、がゆらゆらと揺れる。


「たしかに、私はあの娘を殺そうとした。だが、幸志郎の死と共にその殺意も一気に霧散したんだ。怒りも、悲しみも、憎しみも、幸志郎と一緒に逝ってしまった……。

 虚無という冷水を掛けられて、私は思い直した。この娘もまた、被害者だと。私の憎悪を取り込み、一時的にではあるが半人半鬼の修羅と化してしまった。それも、私が怨嗟えんさの念にかれ、軽挙けいきょにも殺意に身を委ねてあの老婆を殺してしまったが故だ。幸志郎の死も、お前の傷も、すべてはこの私に責がある。だから、あの娘が無為なとがを受けて死ぬことはない――そう考えただけだ」


 奈々美はそう言い終えると、燈會から手を離し、次の本を山積みの文献から取り出して、ページをめくり始めた。本をめくるたびに明るく照らされる頁、そして、読み終わった厚みに重なる頁が、機械的に繰り返し閑寂かんじゃくな音を立てる。


「それに、幸志郎がもう戻らないと決まったわけでもない」


「と、仰いますと?」


「〈蠱術こじゅつ魂招たまよび〉。以前、少しだけ調べていたことがあるから、説明もしたかもしれないな……。古代中国で用いられていた外法中の外法だよ。これを使えば、幸志郎を再び黄泉返よみがえらせることができるかもしれない。もっとも、まだ詳細は研究中で、完成には遠く及ばないがな」


 関口が死んだあと、奈々美は長い間ふさぎこんでいた。自室から一歩も外に出ず、日課の散歩もしなくなった。食事も満足に取らず、ただでさえ華奢きゃしゃな体は日に日にせ細っていった。半人半妖の鬼と言っても、心の有様は人間のそれとほとんど変わらない。愛する者を失った激震は、地獄の業火となってその身を焼きつづけた。そんなある日、心慰みに読んだ古書で、蠱術に関する記述を発見するまでは。


「『かもしれない』ではないな。必ず黄泉返らせてみせる。この命に替えてでも」


 明確な決意を胸に秘め、奈々美はそう言い切った。


「お嬢様」


 本から目を離さない主に向かい、佐伯が呼びかける。


「止めてくれるなよ、佐伯」


「逆です。御心みこころのままに、どうぞやり遂げて下さい。お嬢様にとって最善のことを。この佐伯、陰ながら助力致します」


 それを聞いて、奈々美は誠実な忠臣に顔を向けた。


「無論だ。……いつもすまないな」


「とんでもありません。お嬢様の従僕として支えることこそ我が務め、私の幸福でございます」


「ああ。ありがとう」


「それでは、私はこれで失礼致します。お邪魔になるといけませんので。文献の解読にご専心なさって下さい」


「分かった」


 奈々美がそう言い終えるや否や、佐伯は蝋燭の炎がかき消えるときのように、彼女の前からふっと姿を消した。


 〈蠱術・魂招び〉は複雑怪奇な呪法である上、それに触れた文献も難解を極める。加えて、そもそも、資料の数自体が少ないと説明されたことを佐伯は記憶していた。だから、〈術〉が完成するかどうかは、果たして、誰にも分からない。奈々美が抱いているのは、燈會ランタンの灯りのようなほのかな――あるいはそれよりもずっとくらい――希望に過ぎなかった。しかし、どんな明るさのであれ、それが未来を照らす光であることに変わりはない。


 それが故に、それでいい、と佐伯は思った。

 いつか、それは失敗という名の絶望に姿を堕とすかもしれない。しかし、それまでは命を繋ぐひもとなる。一時凌ぎの弥縫策びぼうさくに過ぎないとしても、しかし、きっとそれをり合わせて、縒り合わせて、いつまでも切れ目のない連続体にしてゆくことが、生きていくという有りようなのではないか。そして、今の私にできるのは、お嬢様のその姑息を終日ひねもす助けること。


 佐伯は、土蔵から外に出る前に、奈々美の横顔を見た。

 彼女は一心に古書のページをめくっていた。いつか、愛する関口に、孤独な鬼の愛する孤独な鬼に再会する日を夢想しているであろうその顔からは、かすかな希望を手繰り寄せんとする意志がはっきりと看て取れた。

 憂慮に足を砕かれそうになりながらも、必死でこらえるかの姿こそ、この世でもっとも美しい――強いのではなく、強くあろうとすること、それこそが。

 本にすがるのではなく、その頁をめくること、それこそが。

 生という物語を読む手を止めないことが、我々をどこかに進めてくれる。

 そう信じて、佐伯はわずかに開かれた蔵の戸を、そっと閉じた。


 ――了――

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孤独《ひと》りの鬼たち 橘楓 @k6VgDYkyGI

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