第9話 エピローグ――鬼の胎動
病院に運ばれたとき、瀕死の重傷を負い、医者をして手遅れだと言わしめたわたしの体は、しかし今、順調に回復しつつあった。何でも、折れた骨が肺や脾臓に深く突き刺さり、多臓器不全を起こしていたらしい。普通ならとっくに息が絶えている状態だったと医者は言った。実際、どうしてあんな状態で命が保てていたのかまるで理解が及ばない、手術が成功して正常な生命活動を取り戻したのは奇跡も奇跡と言う他ない、と。わたしの不可思議な生還劇には誰もが首をひねるばかりだった。自分の体のことではあっても、専門家に分からない道理を、わたしが理解できるはずもない。
もうひとつ、まったく見当がつかないのは、わたしが重傷を負った経緯だった。事件なのか事故なのか、そもそも自分に何が起きたのか、まったく思い出せなかった。唯一分かっているのは、急患のわたしを壮年の男性が運んできて、すぐに去っていったという、その事実だけ。警察はその男を重要参考人として手配し、今も追っているが、未だ手がかりは何も掴めていない。
思い出せないことは他にもある。事件――仮に事件としておこう――の一週間くらい前までの記憶も、わたしの頭からすっぽりと抜け落ちていた。家族や医者は怪我のショックで記憶が欠落したのではと言ったが、なぜかしっくりこない。何か異常な出来事を忘れている――そんな気がしてならない。失われた記憶を呼び起こそうとするたび、自分と誰かの悲嘆が
幻聴だけでなく、自分の両の手が血塗れになっている幻覚も何度か見た。驚いたのは、そうした
変化はそれだけではなかった。あれほど激しい悲しみを覚えた祖母の死を、受け入れている自分がいる。根拠は皆無だが、欠落した記憶の中の出来事を通してそうなったのだという直感があった。頭に思い描けもしない、“あること”があったから、わたしは今、祖母の
透き通る青の空を仰げば、
もうひとつ、わたしには、予感がある。自分の中のこの鬼がいつか心を破り出て、暴れ回るかもしれないという、
だから、わたしはこの思いを――鬼を――抱えて生きていこう。おばあちゃんの希望や期待には添わないであろうこの方法はとても苦しいが、これのみが、鬼を宿してしまった人間ができる、唯一の嘘のない生き方だと思う。わたしはわたしの鬼を捨てはしない。それは、愛を捨てるということ、罪を捨てるということだから。
*
「
暗い蔵の中で
「そうか」
奈々美は無機質とも言える声で応える。
「本当に宜しかったのですか?」
佐伯が
「……珍しいな」
奈々美はそこで本をぱたんと閉じた。
「お前が私の行動に疑問を差し挟むなど」
「聡明なお嬢様のことですから、深い思慮の下で考え抜いた結論なのでしょう。無論、それを否定は致しません。しかし、個人的な疑問として、今ひとつ
「それは、自らの背中も斬られたという恨みも含んでの意見か?」
奈々美は悪戯っぽく微笑んだ。
「私はお嬢様のためなら命は惜しみません。悔やまれるのは、そのために命を落とせなかったばかりか、肉の壁にすらなれなかったことです」
あのとき、斬られた衝撃で地面に頭を打ち付け、気絶していなかったなら、殺されていたかもしれない――いや、ほぼ確実に殺されていただろうと佐伯は思う。幸いにも傷は致命傷ではなく、背中に大きな
「それは、いい。あの娘は私が潜在的に持っている力を身に宿していた。それに加えて不意打たれたということならば、まず対処は不可能だろう。死ななかっただけでも最大の幸運だ。お前にとっても、私にとっても」
「畏れ入ります」
「翻って、あの娘のことだが――」
奈々美は燈會の灯りを微かに調整しながら、言った。
かたんかたんと器具が音を鳴らし、
「たしかに、私はあの娘を殺そうとした。だが、幸志郎の死と共にその殺意も一気に霧散したんだ。怒りも、悲しみも、憎しみも、幸志郎と一緒に逝ってしまった……。
虚無という冷水を掛けられて、私は思い直した。この娘もまた、被害者だと。私の憎悪を取り込み、一時的にではあるが半人半鬼の修羅と化してしまった。それも、私が
奈々美はそう言い終えると、燈會から手を離し、次の本を山積みの文献から取り出して、
「それに、幸志郎がもう戻らないと決まったわけでもない」
「と、仰いますと?」
「〈
関口が死んだあと、奈々美は長い間
「『かもしれない』ではないな。必ず黄泉返らせてみせる。この命に替えてでも」
明確な決意を胸に秘め、奈々美はそう言い切った。
「お嬢様」
本から目を離さない主に向かい、佐伯が呼びかける。
「止めてくれるなよ、佐伯」
「逆です。
それを聞いて、奈々美は誠実な忠臣に顔を向けた。
「無論だ。……いつもすまないな」
「とんでもありません。お嬢様の従僕として支えることこそ我が務め、私の幸福でございます」
「ああ。ありがとう」
「それでは、私はこれで失礼致します。お邪魔になるといけませんので。文献の解読にご専心なさって下さい」
「分かった」
奈々美がそう言い終えるや否や、佐伯は蝋燭の炎がかき消えるときのように、彼女の前からふっと姿を消した。
〈蠱術・魂招び〉は複雑怪奇な呪法である上、それに触れた文献も難解を極める。加えて、そもそも、資料の数自体が少ないと説明されたことを佐伯は記憶していた。だから、〈術〉が完成するかどうかは、果たして、誰にも分からない。奈々美が抱いているのは、
それが故に、それでいい、と佐伯は思った。
いつか、それは失敗という名の絶望に姿を堕とすかもしれない。しかし、それまでは命を繋ぐ
佐伯は、土蔵から外に出る前に、奈々美の横顔を見た。
彼女は一心に古書の
憂慮に足を砕かれそうになりながらも、必死で
本に
生という物語を読む手を止めないことが、我々をどこかに進めてくれる。
そう信じて、佐伯はわずかに開かれた蔵の戸を、そっと閉じた。
――了――
孤独《ひと》りの鬼たち 橘楓 @k6VgDYkyGI
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