第8話 人鬼と鬼

 雲ひとつない空は一面が朱色に染まり、真っ赤な太陽が地平線に下りようとしていた。陽光を浴びた木々も、草々も、皆等しくあかく燃え上がっている。その赫灼かくしゃくとした大地に、ふたつの人影が黒く長い墨汁を垂らしている。一方の片方の影が、びっこを引きながらもうひとつの影に近づいて、やがて止まった。


「待たせたな、幸志郎」


 小綱奈々美は、酷くおごそかな声でそう語りかけた。目鼻立ちの整った顔に飾り付けられた緋色の眼が夕日に溶け、腰まである漆黒の長髪が片側だけ影と重なり合っている。着替えてきたのか、体にはくれない色をした花丸文はなまるもんの和服を纏っていたが、それが陽のあかと濃淡を描いて、彼女の幻想的な容姿をいっそう際立たせていた。その端麗であると同時に面妖とも言える風貌から張り詰めた空気が伝わってくるのを感じ、関口幸志郎は喉をごくりと鳴らす。


「残酷なほどに美しい夕焼けだ」


 奈々美は流し目に夕日を見やると、目を細めた。長い睫毛まつげくうに流れる。


「『かどを出て故人にひぬ秋の暮』、か。まさしく微言大義びげんたいぎだな」


 悲しげな声音を響かせながらそう独りごちる。その物寂しい情調じょうちょうは、関口の記憶を取り戻す手段を奈々美がとうとう見つけられなかったことを暗に示していた。二度と、かつての彼を取り戻すことはできないし、ともすれば自分の前から去ってしまうかもしれない――その悲観が、自己憐憫じこれんびんの念を発露していた。その重々しい雰囲気を、唐突に関口が破る。


「奈々美さん、ふたつ分からないことがあります」


 静かに燃える緋色に向かって、関口は疑問を口にする。


「どうして、ぼくは貴女あなたを殺さなかったんでしょうか。ぼくは気に入った女性を選んではこの手で殺してきた。貴女もまたそうだというなら、なぜ貴女だけは生きているんですか?」


 奈々美にとっては意想外の言葉だったが、彼女は努めて平静を装い、答えた。


「私もまったく同じ問いをお前に投げかけたことがある。お前は私を殺そうとは思わないのか、とな」


「ぼくは何と?」


「考えたこともないと言われたよ。殺さなくとも側にいてくれるから、と。それから、殺しても死なないだろうとも言われた。事実、その通りではあるが……。淑女しゅくじょに向かってそれは、少し失礼ではないか?」


 せない様子で真面目に考える奈々美を見て、関口は自然と口がほころぶのを感じた。


「かつてのぼくは諧謔心ユーモアがあったんですね」


「そうだな」


 奈々美も唇の端に遅咲きの微笑みを浮かべる。今日、ずっとふたりの間に滞留たいりゅうしていた息苦しい空気が、初めてかすかにやわらぐ。よそよそしかった旧知の間柄に、かすかな親しみが取り戻され始めたかのように。


「厳密に言えば、私は不死ではない。一度に大量に出血すれば死ぬし、長いが寿命もある。純粋な鬼ではなく、鬼と人間の間に生まれた半人半妖の存在であるが故の宿命だ。だから昔話にあるような角もないし、姿もヒトと変わらない」


 こころよい、さらさらとした一陣の風が彼らの足元を吹き抜けていったのを最後に、逢魔おうまが時の空気が静止した。時間まで止まってしまったかのようなその刹那、関口が静かに口を開いた。ずっと気になっていたもうひとつのこと――それを知らなければ、何も決定できない謎を彼は問う。


「ぼくは、なぜ、貴女という女性ひとがありながら、殺人を繰り返したんでしょうか」


「それがお前の性質だったからだ。生まれながらに持った嗜好を変えることはできない。愛情と別次元にある趣味は自分を自分たらしめてくれる。それは、不自然なことではない。愛は人間にとって根源的な欲求だが、それだけでは充分ではないのだ。タンパク質だけでは生命活動が立ち行かないのと同様に。現に、妻子を持ちながら殺人を繰り返した、ゲイシーやチカチロの例もある」


 奈々美は淡々と説明した。殺人もまた、ひとつの趣味に過ぎないとでも言うような口調で。それは今日初めて見せる、奈々美の物ノ怪としての側面だった。人間の命を奪うことを何とも思っていない冷酷な言い回しに、関口は異質なものを感じる。自分は少なくとも、罪の意識を覚えずにはいられない――。


 しかし一方で、それとは真反対に、奈々美という存在に親近感を覚える自分がいた。照れたり、笑ったりする、不安がったりする、鬼にして鬼にあらざる、ひとりの娘らしい態度に好感を持っている自分も確かにいる。鬼とヒト、天秤が傾くようにどちらにも振れるのが小綱奈々美なのだ。だとしたら、自分は何を選ぶべきか。一心に熟考じゅくこうして、関口はひとつの結論を見出す。


「ぼくは決めました。ここで暮らすか、それとも去るか、どちらかを」


 奈々美の表情がはっと固くなり、その体がこわばる。その結論を聞くのを恐れてか、彼女の声は震えていた。


「聞こう。そして、私はお前の決定を尊重する」


 関口は意を決して、それを口にする。


「ぼくは――」


「お前!」


 場違いな怒声が静寂しじま只中ただなかに響いて、関口の言葉をさえぎった。


「片目、片足――お前が『鬼』か!」


 母屋のちょうど手前に、悠木凛ゆうきりんが感情をあらわにして屹立きつりつしていた。逆立てたまゆの下にある両目は血走り、乱れた髪のかかった額には青筋が走っている。あかい陽光に照らされたその姿は、怒りの炎を纏っているかのようにも、真っ赤な鮮血にまみれているかのようにも見えた。凛が大声を張り上げながら、抜き身の刀を奈々美に向ける。その刃には、紅色のしずくしたたっていた。


「お前がおばあちゃんを殺したんだな!」


 怒髪天どはつてんを衝いたかの如き尋常ではない殺気に、奈々美は一瞬戦慄せんりつした。


「お前は――一体何者だ!?」


「問答無用!」


 凛が大きく刀を振りかぶり、叫び声を上げながら奈々美に向かって突進する。刀光剣影の妖気を放つその姿が、奈々美の感覚を刺激する。凛の強烈な意識が濁流となって頭に流れこみ、奈々美はくらい目眩めまいを覚えた。その脳裡のうりで結実した凛の思いを看取かんしゅして、彼女は気づく。


 ――間違いない。この憤怒の念は、。幸志郎を奪われたという憎悪の黒炎に焼かれた私の感情、あの日、あの老婆を殺したときに私の心にたぎっていた怒りそのもの。理由は分からないが、この少女は、私の――鬼の邪念をそのまま取り込んでしまっている。激しい怒気と、鮮烈せんれつな殺意に当てられて、自我を失ってしまう程に。これではまるで――。


「危ない!」


 弧を描いた刃がその首に振り下ろされる刹那に、奈々美の体に覆いかぶさってくるものが見えた。関口が自分をかばったのだと理解したのと同時に、彼女の体は地面に打ち付けられた。守られるという文脈で感じた相手の体の重み。奈々美が、状況に到底相応しくない多幸感を覚えたのも束の間、関口の背中に回した手に、生ぬるい、どろりとした液体が触れた。


「幸志郎!」


「う……」


 関口がうめき声を上げながら苦悶の表情を浮かべる。


「大丈夫か、幸志郎!」


 悲痛な声を上げる奈々美を後目しりめに、勢い余って地面に突き刺した刀を、凛がゆっくりと抜く。


 ――狙いが、外れた。あの男が邪魔をしたのか。

 ならば、ふたりとも殺すまでだ。


 骨をくぐり抜けて臓器まで刃を貫き通すために、凛はそれを地面に突き立てるようにして再び刀を構えた。折り重なって倒れている今の体勢なら、両方まとめて串刺しにできる。全体重を乗せて男の背中にやいばを押し付ければいい。簡単だ――さっきの壮年の男を後ろから斬り倒したくらい簡単――。凛は思い切り振りかぶり、勢いをつけて刀を振り下ろす。


「死ね!」


 しかし、その刹那、奈々美が関口を服を掴んで彼を横倒しにした。殺意を持って振り下ろされた刃は、関口の背中ではなく奈々美の正中線上に掲げられた、そのてのひらを貫通する。一瞬置いて、着物と同じ色のあかい血がどくどくと流れ出る。予想外の結果に驚いた凛は刀を引き抜こうとしたが、いくら力を込めてもぴくりとも動かない。その異常性を感知したと同時に、底知れない殺気を感じ取った凛の肌が一斉に粟立あわだった。刀が貫通した手で奈々美は刃を握りしめ、そのままゆらりと起き上がる。どろり、どろり、手から鮮血をしたたらせながら。


 普通の人間なら、恐怖という本能に従って、そこから逃げただろう。しかし、そこにあったのはヒトではあってもヒトではなかった。鬼の瘴気しょうきをその身に宿した、怨嗟えんさ激憤げきふんの修羅――それが今の彼女だった。だから、刀が奈々美の手の中で砕き折られたのを見ても、殺そうとする意志はまったく衰えない。凛は折られた刀のつかを再び握りしめて振りかぶった。だが、その瞬間、凄まじい衝撃が凛の胸部に走った。骨がめきめきとへし折れる音が聞こえたかと思うと、そのまま数メートル後方に吹き飛び、石段にしたたかに体を打ち付ける。


 今、一体何が――と思う間もなく、凛は喉の奥からこみ上げてきた大量の血液を一気に吐き出した。びしゃっという音を立てて足元に血溜まりができる。と同時に、赤熱化した鉄球を胸の中に入れられたかのような凄まじい痛みが襲ってきた。激痛で息ができない。かすれる目で「鬼」の方に視線を向けると、こちらに手のひらを向けている姿が確認できた。押したのだ。児戯じぎにも等しいその動きで、わたしの体は数メートル吹き飛んだ。胸骨も折られ、恐らくその骨が内臓に突き刺さっている。殺される――確信めいた思いが頭をよぎる。


 だが、不思議と怖くはなかった。その代わり、腹の中のどす黒い欲望が全身に行き渡り、猛烈な勢いで増す痛みに反して力が湧き上がるのを感じる。憎い、憎い、憎い、憎い――! 血反吐ちへどを吐きながら、七分で折れた刀を支えにして凛は立ち上がった。よろける足を大地に踏みしめ、肩で息をしながら、刀を中段に構える。切先で突くことはできない。骨の防御がない、腹部をぐ。刹那そう思考すると、今度こそ殺す――その声は、血の泡沫うたかたに変わる。


 凛の姿を真正面に見据えつつ、一方で、奈々美は関口の身を案じた。斬られた傷口の様子までは分からなかったが、血がおびただしく流れていた。早く止血をしなければ――。しかし、愛情から生まれたそんな心配を抱くのと同時に、目の前の少女に対する憎悪と殺意も止めどなく溢れ出てくる。相克そうこくする感情がもつれ合い、奈々美の判断力をわずかに鈍らせる。凛が刀を地面に水平にして腰の辺りで振りかぶっているを見て、胴を狙う気だろうと察した奈々美は、刀を腹に迎えるように半身になった。刀が横薙ぎに払われた瞬間、杖でそれを受け止め、手刀で首をねてやると思い定めて。


 悪鬼と化した凛が、奈々美に猛進する。手負いの獣とは思えない速さで距離を詰め、あっという間に肉薄する凛。刀の間合いまであと三歩――切っ先の欠けたその刃が朱い陽光を受けて不気味に輝く。あと二歩――奈々美が刀の動きに意識を集中させる。あと一歩――凛の顔におぞましい笑みが浮かぶ。あと半歩――凛が突然、横に飛んだ。虚を突かれた奈々美が目で凛の動きを追うと、凛が仰向けに倒れている関口の傍らで刀を構えていた。幸志郎!と絶叫する奈々美を尻目に、凛は彼の腹に刃を突き立て、一文字に斬り裂く。


 それが最期の一撃だった。血しぶきを浴びながら、凛は両膝からその場に崩れ落ちる。全身から力が急速に抜けてゆく。お前はわたしの最愛の人を奪った。だから、わたしも奪ってやった――その声も肺の奥でごぼごぼと泡立つ血にかき消される。おのれ臓腑ぞうふに満ちていた憎悪が散逸さんいつしてゆくのを感じる。薄れゆく意識の中、凛は最愛の祖母の姿を思い描いた。あの笑顔は、もう二度と戻らない。最早何のためか分からない赤涙せきるいが頬を伝う。そして、もう一度激しく喀血かっけつすると、凛はそのまま気を失った。


 凛が倒れたそのすぐ側で、奈々美は関口の血まみれの腹部を圧迫し、懸命に止血していた。しかし、いくら押さえつけても、刀傷から溢れる血が止まらない。その命を繋ぎ止めるために、なりふり構わず関口に呼びかける。


「幸志郎! 死ぬな、幸志郎!」


 悲痛な叫びが、半分闇に染まった空に響く。


「奈々美……さん……」


 涙でくしゃくしゃになっても、なおその顔立ちは美しいと関口は思った。そして、健気に手当を続ける奈々美をいさめるように言う。


「いつか……こんな日が来ると思っていました……。これでいいんです……」


「いいわけがあるか! 今佐伯に救急車の手配をさせる! 佐伯! どこにいる佐伯!」


「その必要は……ありません……」


 ごほっと咳をしたその口から、血がほとばしる。


「貴女の言う通り……鬼は人の世では生きていけない……。これは罰なんです……。鬼がそこで生きた罰……」


「何を馬鹿なことを……! 罪があるというなら、私がゆるしてやる。だから、死なないでくれ……。頼む……!」


 〈反魂の術〉が使えるのは、一度きり。つまり、「死」は今度こそ永久の離別になる。彼が一度死んだとき、この身は引き裂かれるような悲しみにつつまれた。あれが永久に続くのだ。しかも、一度は〈反魂の術〉という希望を見出しただけ、今度はより一層絶望が増すことになる。耐えられない――奈々美が消え入るように懇願する。


「お前に死なれたら……私は……」


 大粒の涙が、その頬を流れ落ちる。


「貴女は……生きて下さい、奈々美さん……。貴女まで死ぬ……なんて……悲しすぎる……」


 そう、自分の後を追うような真似だけはしないでほしい、と関口は思った。悲劇は一幕だけでいい。いや、この死は悲劇ですらないのだろう。多くの他人の死を積み重ねたことによる当然の結末。そこに感情を差し挟む余地はない。


「分かった……。分かったから……もうしゃべるな……」


 ましてや、運命を呪って自死を選ぶことなど、あまりにも馬鹿馬鹿しい。しかし、それを伝えようとしてももう言葉にならない。さっきまで焼けるように痛んでいた傷口が急激に冷えてゆくのを感じる。


「手を……」


 関口は最期にそのぬくもりを求め片手を伸ばした。奈々美が震える両手で彼の手のひらを包む。


「幸志郎……」


「最期が……貴女の腕の中で……よかっ……た……」


 関口がそう言い終えると、地平線にかすかに残っていた日は完全に没した。木々も草葉も燃え尽きたように黒く染まる。その粛殺しゅくさつとした常闇とこやみに、奈々美の絶叫だけが虚しくこだました。

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