第7話 悠久へのいざない

「幸志郎!」


 気づけば、私は彼の名を大声で呼んでいた。足袋たびのまま彼のもとに歩いてゆき、杖を離すとその体に抱きつく。たった一週間っていないだけなのに、なぜかその匂いは懐かしい。その存在をはっきりと確かめるように、私は背中に腕を回して思い切り身を寄せた。幾度も私を抱いてくれたはずの体は、しかし、当惑した声以外に何の反応も示さない。その残酷な響きが、私の心をえぐる。


「私のことは、本当に何も憶えていないのか?」


 うようにその顔を見つめる。ああ、何も変わっていない――怜悧れいりに冴えた目も、すらりと伸びた高い鼻も、真一文字に結ばれた薄い唇も――かつての幸志郎そのままだ。だが、そんな私の真剣な眼差しに気後れしたのか、その瞳はこちらから視線を外した。そして、無言で首肯しゅこうする。あなたのことは記憶にありません、と。


 惜しむ気持ちだけをそこに置き去りにして、私はゆっくりと体を離した。座りこむように床に落ちた杖を拾い上げ、その無機質な棒に体を預けて立ち上がる。


「いきなり抱きついたりして、すまなかった」


 ぽつりと詫びの言葉が口をついて出た。

 幸志郎はやはり何も言わない。


「少し、外に出て話そうか」


 私は草履ぞうりを履くといつものようにびっこを引きながら歩いて、開け放たれた玄関から外に出た。後ろから幸志郎が静かに付いてくる。


「体調はどうだ?」


 前を向いたままで尋ねる。記憶を失っているのなら、身体に何か影響が出ていてもおかしくはない。


「……悪くはありません」


「そうか」


 それを聞いて少し安堵する。


「あの、あなたこそ、その脚は……?」


「ん? ああ、これか」


 自分の体の不全を指摘されて改めて思う。

 今の幸志郎にとって、私とはこれが初対面なのだ。


「私の家の血筋でな。この家に生まれてくる者は必ず片目片足が不自由なんだ。隻眼隻脚せきがんせききゃくの家系なんだよ。この赤目も、ほとんど見えていない」


「そう、なんですか。すみません」


「気にしなくていい」


 私は少し思案し、次の言葉を紡いだ。


「そうか、自己紹介をしなければならないのだろうな。私は、小綱奈々美こづなななみ。この小綱家の当主を任されている」


「小綱――奈々美」


 幸志郎が小さく独りごちる。


「何か、思い出したか?」


「いいえ、何も……」


「……そうか」


「あの、小綱さん」


「奈々美でいい」


「じゃあ、奈々美さん、佐伯さんから聞きました。あなたは、なぜ、ぼくが穂積紀香の部屋で気を失っていたかを知っている、と。教えてくれませんか。ぼくはその真実を知りに、ここまで来たんです」


「佐伯からはどこまで聞いている?」


「彼女は〈巫女〉として生贄になり、町そのものに殺された――そう聞いています」


「馬鹿げたしきたりだ。だが、それなしには私は力を振るえない」


「力?」


「幸志郎、今のお前にはにわかに信じがたいかもしれないが、これから私が告げることは全て本当の話だ」


 私たちふたりは、水琴窟すいきんくつの方にゆっくりと歩を進めながら、しかし確実に物語の核心へと迫っていた。そこに何ら幸福な終幕がないとしても、目指す場所は他には見つからなかった。だから、私ははっきりと真実を幸志郎に告げる。


「お前は一度、死んだのだ、幸志郎。先週の満月の晩、車に轢殺れきさつされて」


 幸志郎の足が止まったのが音で分かった。

 私もまた歩みを止め、彼の方に振り向く。


「お前を殺した奴はすぐに見つかった。けた老婆だった。かたきを討ってもお前は帰ってこないという理性が働く間もなく、気づけば私はそいつを手に掛けていた。お前が好んだのと同じ、扼殺やくさつというやり方で。


 仇はあっけなく死に、お前も死んだ。もう何も残ってはいない――そう考えたとき、私の頭に閃くものがあった。死んだなら、生き返らせればいい。かつて蔵で読んだ文献のことを私は思い出した。死者を生者に戻す秘術、〈反魂はんこんの術〉。易如反掌いじょはんしょうとはいかなかったが、私はそれを使い、お前をこの世に呼び戻したのだ」


 そんな馬鹿なとつぶやいて、幸志郎は呆気に取られたようにじっと私を見つめる。真っ直ぐな視線。生死の疆界きょうかいを越えても、それは変わらずに私を射抜く。


「〈反魂の術〉にはお前の骨とにえが必要だった。遺体を引き取り、荼毘だびすことで人骨は手に入れたが、ひとり黄泉返よみがえらせるためには、ひとり黄泉送りにしなければならない。それは、世界の平衡へいこうを保つ決まりごとなのだ。〈巫女〉は本来、への供物くもつであり、その魂は鬼の力の源となる。今回はそれを〈術〉に転用した形になる。


 即ち、月明かりの晩、人骨を頭のてっぺんから爪先まできちんと並べ、砒霜ひそうを塗り、加えて苺と繁縷はこべの葉をもみ合わせて得た汁をたっぷりとかける。そして、藤弦ふじつるや糸で骨を繋ぎ合わせる。それら骨骸こつがいを何度も水で清め、髪の生えているところにはさいかちの葉と木槿むくげの葉を焼いて取り付ける。最後に、骨の前に沈香じんこう乳香にゅうこうを焚いて、〈反魂の術〉を使う。


 ただ、〈反魂の術〉は、それが不完全な場合、被術者の記憶の欠如が発生する怖れがあった。かつては〈術〉を使って人間を創造し、彼らが政事まつりごとに関わるまでの完成度も誇ったそうだが、今はその技術も失われて久しい。そう、〈術〉は不完全だった。だから、私はお前が目覚める時間を見誤り、結果としてお前を見失うことになった。すぐに佐伯に命じて木附根きふねの情報網にお前のことを流させたが、あみにかかったのは幸いだったよ」


 そこまで話しても、幸志郎に得心したような様子はなかった。


「もし、それが真実だったとして――あなたはどうして、そうまでしてぼくを生き返らせたんですか?」


「かつて、人間にも同じように〈反魂の術〉を使った者がいる。『花鳥かちょうの情をもわきまへたらん友』を復活させようとして、な」


「『友』? あなたにとってのぼくがそうだったと?」


「お前は――」


 幸志郎は、真実を知りたい、と言った。

 ならば、もやのような言葉で誤魔化してはならない。


「お前は、友である以上の情愛を私に抱かせた唯一の存在だ。だから、私は秘儀とされた術を使ってでもお前を生き返らせたかった。もう一度、お前に逢って、その胸に抱かれたかった」


 私は素直に本心を吐露した。

 気恥ずかしさで顔が紅くなるのが分かる。


「お前に初めて遭ったのは、お前が初めて人を手に掛けた――未遂だったようだが――あとだ。警察に捕まると思い、お前はこの山奥まで逃げて来た。まだ中学生の足で、どこをどうやって進んだらたどり着けるのか、私には分からない。しかし、ともかくお前はこの屋敷にやって来た。夕暮れの陽光を背に浴び、肩を上下させ、両目を興奮でたぎらせながら、お前は、そう、そんな風に立っていた」


 失われた日のことを、私は思い出す。


「私にはすぐに分かった。この男の本質は殺人者なのだと。たとえ、今はそうでなくとも、人を殺さずには生きていけない人間だと。事実、それはそのとおりだった」


「ぼくのことは……すべて知っているんですね」


 私は静かにうなずき、続けた。


「殺人鬼――いくら『普通』を求めても、けっしてそれを得られない、哀れな男。生き方を否定され、周囲から迫害され続ける存在。何より心悲うらがなしいのは、将来、彼が自分をそういうものだと諦観するだろうことだ。絶対の孤独の肯定。それがこの人物を構成しているすべての要素になる。


 私もまた、お前と同じように、人間じんかんでは生きられない身だ。自分の属性を厭わしく思ったこともあった。『鬼』とは人間の合わせ鏡だ。ことごとく人間でないゆえに、逆に人間を規定する存在。本質的に私たちは孤独にしかなりえないのだ。しかも、人間の有り様が多様化した現代にあっては、『鬼』の力も散逸さんいつし弱体化する。数十年に一度、〈巫女〉の魂を喰らっていても、もう満足に力も使えない。


 そんな私の前に、人間の形をした『鬼』がやって来たのはもしかしたら偶然ではないのかもしれない。人里から逃走してまで必死に生き抜こうとする姿に惹かれたのも、あるいは必然だったのだろうと思う。私は、一目見たときに、幸志郎、お前に惚れたのだ。その気持ちは今でも変わらない。そして、それはお前も変わらなかった。お前が記憶を失うまでは」


「そう、ですか……」


 幸志郎は困惑した表情のまま、目を伏せている。


「気に病むな」


 私は可能な限り柔らかい口調でさとした。


狼狽ろうばいするのも当然のことだ。お前にとっては、見知らぬ相手に突然愛を告げられたも同然だからな。一度死んで黄泉返ったという話も、荒唐無稽こうとうむけいな、狂人の戯言たわごとに聞こえるだろう。だが、これがお前の求めていた真実だ。他には何もないのだ」


 長い沈黙が流れた。

 今の話を頭の中で咀嚼そしゃくしているのか、幸志郎は黙ったまま、じっと動かない。


「幸志郎」


 私はその名を呼んだ。


「私を見ろ、幸志郎」


 幸志郎は、やはり戸惑ったようにこちらに目を向けた。私と彼の視線が交差する。私は、あるひとつの決意を胸に、彼の方に手を差し出して力強く言った。


「私と一緒に来い、幸志郎。もう人間の世界に戻ることはない。永遠に、ここでふたりで暮らそう」


 私の突然の提案に、幸志郎はやや驚いたように目を丸くした。


「記憶が戻るかどうかは分からないが、少なくとも事実なのは、お前が『人間』にはなれないということだ。所詮、『鬼』は人の世――此岸しがんでは生きていけない。お前にだって分かっているのだろう? 人の間にあって、孤独を癒やす唯一の手段、他人と深い関係になるための無二の方法は、お前にとって殺人だけなのだ。そして、それはいつか必ず破滅をもたらす」


 今回の事件はその予兆なのだ、と私は付言した。


「私とちぎれ。さすればお前も『鬼』となり、半永久的に生きることができる。ヒトという不完全な殻から脱却することで、あるいは、人をあやめたくなる衝動も止まるかもしれない。もし殺人欲求が鎌首をもたげたとしても、そのときは、再び〈巫女〉を何人でも犠牲にすればいい。それは私が用意しよう。今回、お前を生き返らせるために、そうしたように」


 だから――


「私とともに悠久を生きないか、幸志郎」


 少し間があって、幸志郎は口を開いた。


「〈巫女〉を犠牲にするのは、三十年に一度という大きな間が空いたから露見しなかったことです。そんなこと、できるわけがない。今回だって、通常の間隙かんげきから外れた、突然の選別だったはずです。すべてが白日のもとに晒される危険だってある」


「お前のためなら、何だってやるさ。この世界には、孤独な人間がたくさんいる。いなくなっても誰にも気にも留められないような、かえりみられない者たちがやまほどいるんだ。彼らは人であっても、人間ひとのあいだには居ない。わば、私たちと同じ側にいる存在だ。此方こなたで生きる彼女らの苦悶を、私たちで取り去ってやる。ただ、それだけでいい。だから見つかるさ、〈巫女〉たちは。お前が考えているよりずっと簡単に、な」


「だとしても、ぼくは、あなたのことを何も憶えていないんですよ? 一緒にいると言っても、どうしたらいいか――」


「記憶を失っていても、お前はお前だ。お前とは十年以上共にむつみ合ってきた比翼連理ひよくれんりの仲だった。私なら、お前に安寧あんねいを提供してやれる。過去を取り戻すことはできなくても、未来ならこれから作ることができる。私と一緒に、それを作らないか」


「……」


 幸志郎は言葉を探している。


「夕暮まで待つ。答えはゆっくりと決めてくれ」


 差し出した手を握りしめ、私は母屋に向かった。後に沈思ちんししている幸志郎を残して。振り返りたい衝動を必死にこらえながら。


 私の言い放った言動は、独善的なものだろう。だが、十年以上も連れ添ってきた人間に、最大限の幸福を与えられるという自信が、私にはあった。かつては彼に求められもしたのだ。記憶が消え去っても、その事実まで欠損するわけではない。


 普段よりも重たく感じる片脚を引きずって、私は母屋まで戻ってきた。

 日没まではあと数時間ある。


 しかし、幸志郎がどんな答えをするのか、私には分からなかった。ただ、私には真実を語る義務があったし、私は私自身の心に正直でありたかった。たとえ、私の話によって幸志郎を永遠に失ったとしても、私はそうしなければならなかったのだ。ありのままの気持ちを話し、幸志郎に全てを委ねる――ここが、私にとっての終着点だった。


 私はふらふらと居間に赴くと、力なく座卓の傍にへたり込んだ。何も考えられずにそのままじっとしていると、ふと片手に暖かさがじんわり広がってゆくのを感じた。目をやると、濡れ縁から差し込んだ陽光が、そこに日溜まりを作っていた。


「お嬢様」


 突然、低い落ち着いた声が居間に響いた。


「佐伯か」


「はい」


 後ろを振り返ると、やせぎすの召使いが盆を持って立っていた。


「薬をお持ちしました」


「ああ……、悪いな」


 私は薬液の入った容器を受け取ると、それを一気に飲み干した。独特の苦味が口腔こうくうに広がる。


「お前は、どう思う? 今の幸志郎のことを」


 口元に付いた薬液を拭いながら、私は訊いた。


「記憶を失っているという自覚はあるようですが、それ以外は以前の幸志郎様そのままであるように見受けられます。自らの記憶喪失の原因を、ご自身の手で見つけようとしていたことも、幸志郎様らしいと言えばらしい」


「そうか」


「しかし、失われた記憶を取り戻すのは、あるいは難しいかもしれません。お嬢様が懸念なさっていたとおりです」


「そう、なのだろうな……」


 私は力なくうなだれた。胸に広がっていた不安感が、わずかだが薬でほだされてゆく。


「幸志郎には私とともに暮らさないかと言ったよ」


「左様でございますか」


 佐伯は静かに応えた。


「彼は私の提案を受けるだろうか?」


 老いた奉公人はかぶりを振った。


「私にはその問いに答える権利はございません。あくまで、それはお二方だけの問題。第三者が安易に憶測を述べてはならないことだと考えます」


 普通の使用人なら、ここで主人の欲するものを汲み取り、耳当たりの良い言葉を上奏するだろう。しかし、佐伯はそういったたぐいの召使いではなかった。彼は彼なりに、従者としての線引をしているのだ。その、冷徹とも言える振る舞いが、私は好きだった。なぜなら、それは私を一個の存在として尊重しており、私なら自分の決定を、自分の思考によって肯定できるという信頼の表れだったからだ。


 私にはそれが分かっていた。

 分かっていても尚、私はいてしまった。


 私は弱くなったのだろうか?


 そうだ、幸志郎が死んだあのときから、たしかに私の中の何かが壊れてしまった。その欠片を集めて見てくれを整えても、体中にはヒビが入ったままだ。しかし、そうだとしても、このままここで漫然と日向ぼっこをしているわけにもいかない。私には、少なくとも幸志郎を黄泉返らせた責任がある。壊れて砕け散るとしても、今ではないのだ。私は最後の力で、自身を奮い立たせた。


「幸志郎を客間で休ませてやってくれ。私は土倉つちくらに籠もる」


かしこまりました」


 それだけ言うと、佐伯は影のように居間から消えた。


 私も片足に力を入れて立ち上がる。


 これからの時間、私は猛烈な不安に襲われながら過ごすだろう。しかし、それが通り過ぎるのをただ待って、耐えるなどという愚挙は犯さない。土倉には膨大な数の文献が収められている。その中のひとつに、幸志郎の記憶を呼び覚ますための記述があるかもしれない。それさえ見つけられれば――。私は決意を胸に、杖をつきながら蔵への道を歩みだしていた。

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