第7話 悠久へのいざない
「幸志郎!」
気づけば、私は彼の名を大声で呼んでいた。
「私のことは、本当に何も憶えていないのか?」
惜しむ気持ちだけをそこに置き去りにして、私はゆっくりと体を離した。座りこむように床に落ちた杖を拾い上げ、その無機質な棒に体を預けて立ち上がる。
「いきなり抱きついたりして、すまなかった」
ぽつりと詫びの言葉が口をついて出た。
幸志郎はやはり何も言わない。
「少し、外に出て話そうか」
私は
「体調はどうだ?」
前を向いたままで尋ねる。記憶を失っているのなら、身体に何か影響が出ていてもおかしくはない。
「……悪くはありません」
「そうか」
それを聞いて少し安堵する。
「あの、あなたこそ、その脚は……?」
「ん? ああ、これか」
自分の体の不全を指摘されて改めて思う。
今の幸志郎にとって、私とはこれが初対面なのだ。
「私の家の血筋でな。この家に生まれてくる者は必ず片目片足が不自由なんだ。
「そう、なんですか。すみません」
「気にしなくていい」
私は少し思案し、次の言葉を紡いだ。
「そうか、自己紹介をしなければならないのだろうな。私は、
「小綱――奈々美」
幸志郎が小さく独りごちる。
「何か、思い出したか?」
「いいえ、何も……」
「……そうか」
「あの、小綱さん」
「奈々美でいい」
「じゃあ、奈々美さん、佐伯さんから聞きました。あなたは、なぜ、ぼくが穂積紀香の部屋で気を失っていたかを知っている、と。教えてくれませんか。ぼくはその真実を知りに、ここまで来たんです」
「佐伯からはどこまで聞いている?」
「彼女は〈巫女〉として生贄になり、町そのものに殺された――そう聞いています」
「馬鹿げたしきたりだ。だが、それなしには私は力を振るえない」
「力?」
「幸志郎、今のお前にはにわかに信じがたいかもしれないが、これから私が告げることは全て本当の話だ」
私たちふたりは、
「お前は一度、死んだのだ、幸志郎。先週の満月の晩、車に
幸志郎の足が止まったのが音で分かった。
私もまた歩みを止め、彼の方に振り向く。
「お前を殺した奴はすぐに見つかった。
仇はあっけなく死に、お前も死んだ。もう何も残ってはいない――そう考えたとき、私の頭に閃くものがあった。死んだなら、生き返らせればいい。かつて蔵で読んだ文献のことを私は思い出した。死者を生者に戻す秘術、〈
そんな馬鹿なと
「〈反魂の術〉にはお前の骨と
即ち、月明かりの晩、人骨を頭のてっぺんから爪先まできちんと並べ、
ただ、〈反魂の術〉は、それが不完全な場合、被術者の記憶の欠如が発生する怖れがあった。かつては〈術〉を使って人間を創造し、彼らが
そこまで話しても、幸志郎に得心したような様子はなかった。
「もし、それが真実だったとして――あなたはどうして、そうまでしてぼくを生き返らせたんですか?」
「かつて、人間にも同じように〈反魂の術〉を使った者がいる。『
「『友』? あなたにとってのぼくがそうだったと?」
「お前は――」
幸志郎は、真実を知りたい、と言った。
ならば、
「お前は、友である以上の情愛を私に抱かせた唯一の存在だ。だから、私は秘儀とされた術を使ってでもお前を生き返らせたかった。もう一度、お前に逢って、その胸に抱かれたかった」
私は素直に本心を吐露した。
気恥ずかしさで顔が紅くなるのが分かる。
「お前に初めて遭ったのは、お前が初めて人を手に掛けた――未遂だったようだが――あとだ。警察に捕まると思い、お前はこの山奥まで逃げて来た。まだ中学生の足で、どこをどうやって進んだらたどり着けるのか、私には分からない。しかし、ともかくお前はこの屋敷にやって来た。夕暮れの陽光を背に浴び、肩を上下させ、両目を興奮で
失われた日のことを、私は思い出す。
「私にはすぐに分かった。この男の本質は殺人者なのだと。たとえ、今はそうでなくとも、人を殺さずには生きていけない人間だと。事実、それはそのとおりだった」
「ぼくのことは……すべて知っているんですね」
私は静かに
「殺人鬼――いくら『普通』を求めても、けっしてそれを得られない、哀れな男。生き方を否定され、周囲から迫害され続ける存在。何より
私もまた、お前と同じように、
そんな私の前に、人間の形をした『鬼』がやって来たのはもしかしたら偶然ではないのかもしれない。人里から逃走してまで必死に生き抜こうとする姿に惹かれたのも、あるいは必然だったのだろうと思う。私は、一目見たときに、幸志郎、お前に惚れたのだ。その気持ちは今でも変わらない。そして、それはお前も変わらなかった。お前が記憶を失うまでは」
「そう、ですか……」
幸志郎は困惑した表情のまま、目を伏せている。
「気に病むな」
私は可能な限り柔らかい口調で
「
長い沈黙が流れた。
今の話を頭の中で
「幸志郎」
私はその名を呼んだ。
「私を見ろ、幸志郎」
幸志郎は、やはり戸惑ったようにこちらに目を向けた。私と彼の視線が交差する。私は、あるひとつの決意を胸に、彼の方に手を差し出して力強く言った。
「私と一緒に来い、幸志郎。もう人間の世界に戻ることはない。永遠に、ここでふたりで暮らそう」
私の突然の提案に、幸志郎はやや驚いたように目を丸くした。
「記憶が戻るかどうかは分からないが、少なくとも事実なのは、お前が『人間』にはなれないということだ。所詮、『鬼』は人の世――
今回の事件はその予兆なのだ、と私は付言した。
「私と
だから――
「私とともに悠久を生きないか、幸志郎」
少し間があって、幸志郎は口を開いた。
「〈巫女〉を犠牲にするのは、三十年に一度という大きな間が空いたから露見しなかったことです。そんなこと、できるわけがない。今回だって、通常の
「お前のためなら、何だってやるさ。この世界には、孤独な人間がたくさんいる。いなくなっても誰にも気にも留められないような、
「だとしても、ぼくは、あなたのことを何も憶えていないんですよ? 一緒にいると言っても、どうしたらいいか――」
「記憶を失っていても、お前はお前だ。お前とは十年以上共に
「……」
幸志郎は言葉を探している。
「夕暮まで待つ。答えはゆっくりと決めてくれ」
差し出した手を握りしめ、私は母屋に向かった。後に
私の言い放った言動は、独善的なものだろう。だが、十年以上も連れ添ってきた人間に、最大限の幸福を与えられるという自信が、私にはあった。かつては彼に求められもしたのだ。記憶が消え去っても、その事実まで欠損するわけではない。
普段よりも重たく感じる片脚を引きずって、私は母屋まで戻ってきた。
日没まではあと数時間ある。
しかし、今の幸志郎がどんな答えをするのか、私には分からなかった。ただ、私には真実を語る義務があったし、私は私自身の心に正直でありたかった。たとえ、私の話によって幸志郎を永遠に失ったとしても、私はそうしなければならなかったのだ。ありのままの気持ちを話し、幸志郎に全てを委ねる――ここが、私にとっての終着点だった。
私はふらふらと居間に赴くと、力なく座卓の傍にへたり込んだ。何も考えられずにそのままじっとしていると、ふと片手に暖かさがじんわり広がってゆくのを感じた。目をやると、濡れ縁から差し込んだ陽光が、そこに日溜まりを作っていた。
「お嬢様」
突然、低い落ち着いた声が居間に響いた。
「佐伯か」
「はい」
後ろを振り返ると、やせぎすの召使いが盆を持って立っていた。
「薬をお持ちしました」
「ああ……、悪いな」
私は薬液の入った容器を受け取ると、それを一気に飲み干した。独特の苦味が
「お前は、どう思う? 今の幸志郎のことを」
口元に付いた薬液を拭いながら、私は訊いた。
「記憶を失っているという自覚はあるようですが、それ以外は以前の幸志郎様そのままであるように見受けられます。自らの記憶喪失の原因を、ご自身の手で見つけようとしていたことも、幸志郎様らしいと言えばらしい」
「そうか」
「しかし、失われた記憶を取り戻すのは、あるいは難しいかもしれません。お嬢様が懸念なさっていたとおりです」
「そう、なのだろうな……」
私は力なくうなだれた。胸に広がっていた不安感が、わずかだが薬で
「幸志郎には私とともに暮らさないかと言ったよ」
「左様でございますか」
佐伯は静かに応えた。
「彼は私の提案を受けるだろうか?」
老いた奉公人は
「私にはその問いに答える権利はございません。あくまで、それはお二方だけの問題。第三者が安易に憶測を述べてはならないことだと考えます」
普通の使用人なら、ここで主人の欲するものを汲み取り、耳当たりの良い言葉を上奏するだろう。しかし、佐伯はそういった
私にはそれが分かっていた。
分かっていても尚、私は
私は弱くなったのだろうか?
そうだ、幸志郎が死んだあのときから、たしかに私の中の何かが壊れてしまった。その欠片を集めて見てくれを整えても、体中には
「幸志郎を客間で休ませてやってくれ。私は
「
それだけ言うと、佐伯は影のように居間から消えた。
私も片足に力を入れて立ち上がる。
これからの時間、私は猛烈な不安に襲われながら過ごすだろう。しかし、それが通り過ぎるのをただ待って、耐えるなどという愚挙は犯さない。土倉には膨大な数の文献が収められている。その中のひとつに、幸志郎の記憶を呼び覚ますための記述があるかもしれない。それさえ見つけられれば――。私は決意を胸に、杖をつきながら蔵への道を歩みだしていた。
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