第6話 真相の片側

 於爾おに神社は「高橋」の家から車で三十分の場所にあった。境内けいだいに足を踏み入れると、神官の常装を着た中年の男がいて、曇天どんてんと同じ色の石畳をほうきで掃除をしていた。関口が話しかけると、男は顔を上げた。禿頭とくとういかつい表情をした小太りの神官は、彼を見るなり糸目を丸く見開いた。が、その刹那の驚きに関口は気づかない。拝殿の木札に描かれた鬼。不意に目に入ったそれに、関口の視線は釘付けになっていた。視覚から入った不思議な刺激が、頭にかかったかすみをゆらゆらとゆらめかせる。


 おに――赤い鬼――。


 記憶のふちにある何かを思い出せそうで、どうしても思い出せない。原因があるのに結果がすっぽり抜け落ちた感覚。一向に成立しない因果関係に、関口は歯がゆい思いをつのらせゆく。


「何か、御用でしょうか?」


 禿頭の男が慇懃いんぎんに質問したところで、彼ははっと我に返った。まだどこかざわついている胸を抑え、改まって尋ねる。


「ここの神主様ですか?」


「はい。小松と申します」


「関口です。実は、穂積紀香さんのことで伺いたいことがあるのですが――」


「穂積さん、ですか?」


「ご存知ですね?」


「え、ええ、はい。……関口さん、私、ちょうど掃除が終わったところで、これから社務所に戻るのですが、お話はそこでいかがでしょうか? ここではちょっと……」


 神主の挙動は疑惑の念を倍化させるに十分だった。参拝客が来るかもしれない場所では話しがたいというのもせないし、それ以上に、神主は不自然なほど無表情だった。秘匿された事実を伝える顔にしては、妙に能面で、感情を意図的に抑えているだろうことが推察できるほどに。やはりこの神社には何かある。第一にそれを聞き出さなければと思い、関口は素直に提案を受け入れる。


「お連れします。こちらです、どうぞ」


 神主が関口を先導する。その怪しげな背中を、彼は祈るように見つめた。穂積紀香が最期にここで〈巫女〉として働いていたのは間違いない。しかし、それが彼女の死とどう繋がるか、もう手がかりはこの神社しかない。自分の譫妄を説明し、失われた記憶を補完する手立ても他に存在しないように見える。崖っ淵に立たされているという事実に、関口は思わず身震いした。


 鳥居の方向からは分からないが、於爾神社の境内は末広がりになっており、奥に進むにつれ太い木々が林になって神社を周囲の家々から隠している。一箇所だけ近代化に取り残されたようなその場所は、住宅街に突然現れた密林というおもむきだった。その中でもひときわ巨大な樹が、注連縄しめなわを纏い天に向かって聳立しょうりつしている。御神木らしきその樹を通り過ぎて北側に少し歩くと、小さな社務所がぽつんと建っていた。平屋の和風建築が、木の葉の中に溶けている。


 社務所の中に入ると、関口は客間に通された。神主は、お飲み物をお持ちしますので、と奥に引っ込んでいった。和風な意匠いしょうに相応しくないソファーに座って待っている間、関口は先程の心のざわめきについて思いを巡らせていた。あの赤い鬼を見て、たしかに自分は何かを思い出そうとした。しかし、鬼などという伝説上の化物が、自分に何の関係があるのだろうか? もっと仔細しさいに思い出せば何か分かるかもしれない。頭の中に、さっき見た木札の鬼を正確に思い描こうとしたとき、神主がお盆に湯呑ゆのみを乗せて現れた。


「お待たせしました、どうぞ」


 熱いお茶の入った湯呑がローテーブルにことんと置かれる。関口が礼を述べると、神主は思いも寄らない発言を口にした。その衝撃的な内容に、彼は茫然ぼうぜんとなる。


「大変申し訳ありませんが、ここで、一時間ほどお待ちいただけないでしょうか」


「え?」


「あなたにお会いしたいという方がいらっしゃるんです」


「ぼくに?」


「その方は仰っていました。穂積さんのこと――そしてあなた自身のことを知りたいのなら、ここで自分の到着を待つようにと」


 次の一時間は混乱の内に過ぎ去った。いったい誰だ? どうして自分のことを、こうして穂積紀香を調べていることを知っている? 何を、どこまで把握しているのだ? 於爾神社と何か関係があるのか? ありとあらゆる疑問が関口の頭に渦巻く。当然それらを神主にぶつけてみたが、私からは申せませんとかわされるだけだった。


 そのすべての解答は、黒のスーツに白い手袋をはめた白髪の男性とともにやって来た。年齢は六十代後半くらい、背が高く、体型はほっそりしているというよりも痩せぎす。顔には縦横無尽にしわ走っているが、その老いのしるしが容姿に一層渋い印象を与えている。その鋭い目鼻立ちは、強い意志を感じさせた。


「関口様」


 突如現れた男は、おごそかな口調で関口に話しかけた。


わたくしのことは憶えておいでですか? 私です、佐伯さえきです」


「さえき……?」


 関口は独りごちるが、その名に聞き覚えはない。それを看取かんしゅした佐伯が、急ぐように彼を促した。


「関口様、表に車が停めてあります。すぐに参りましょう」


「どこへ?」


「あなたにとって、もっとも重要な場所に、です。お嬢様がお待ちです」


「お嬢様?」


「説明は道すがらさせて頂きます。さあ、お早く」


 佐伯に半ば強制的に連れられて関口は社務所を出た。そのまま来た道を戻ると、路肩に停まっていた黒塗りの車の後部座席に押し込められる。すぐに運転席についた佐伯はキーを回すと、エンジンがかかるやいなやアクセルを思い切り踏み込んだ。車は急発進して、ここまでの急展開を絵にしたように凄まじい速度で道を驀進ばくしんしてゆく。状況に置き去りにされた関口を残したまま。


「これから、加賀山の奥にある、小綱こづな家の屋敷に向かいます」


「小綱……?」


 佐伯の発したその名前は突風となって、関口の心にさざなみを立てた。しかし、どこでその名を聞いたのか、それが自分にとって何を指し示すのか、どうしても思い出せない。於爾神社の拝殿で鬼の姿を見たときに感じたもどかしさに似たそれは、記憶にぽっかり開いた深く暗い穴にひとつの確信を投げこんだ。自分が忘れているのは、この一週間の出来事だけではない。他にもっと大切な何かをも失念している――。僅かでもヒントを得ようと考え、関口は佐伯に問いただした。


「小綱というのは誰――いや、何者なんですか?」


 突然、車がきいっと急停止した。関口の体が反動で助手席に押し付けられる。何事かと前方を目を遣ると、親子連れが会釈しながら横断歩道をゆっくりと横切ってゆくのが見えた。


「この周辺の地に、政治経済ともに莫大な影響力を持つお方です。しかし、関口様にとっては、また違った別の意味のある方でもあります。それは、小綱お嬢様に直接会ってご自身で確認されるのが宜しいでしょう。むしろ、私が今ご説明すべきは、穂積紀香に関わることです」


「穂積紀香? じゃあ、あなたは――」


 親子連れが横断歩道を渡り切ったと同時に、再び車は急発進した。


「私は、彼女が殺害された理由を知っています。そして、その顛末てんまつ、一部始終も」


 関口の心臓がどくんと跳ねた。佐伯と名乗るこの初老の男は、自分の探し求めていた真実の一端を知っている。喉から手が出る思いで、関口は解答を欲した。


「彼女を殺したのは、誰なんですか!?」


「それを申し上げるには、少し説明が必要になります」


 佐伯はそう前置きして、静かに事件の真相を語りだした。


「まず、この土地には、〈巫女〉を生牲いけにえとして、鬼に捧げる人身御供ひとみごくうの制度があるということを知らなければなりません。木附根町とその周囲の町々は、共同体を繁栄させるために、千年以上もの間絶え間なく〈巫女〉を犠牲にしつづけてきたのです。それは慣習として、明治の近代化以降も残りつづけました。形を変えて、より巧妙なやり方で、〈巫女〉を選定し、殺害してきたのです」


 まさか、と関口はいぶかしんだ。佐伯の話を信じるなら、佐木透法律事務所で話を聞いたときに仮定した人身御供が、実際に存在しているということになる。しかし、あれはあくまでひとつの想像としての当て推量に過ぎない。まさか、警察組織の発達した現代に人身御供など――。その疑念をバックミラーごしに見透かしたように、佐伯は話を続けた。


「表向き生牲を捧呈ほうていするおきてはなくなり、その代わり、『鬼に仕える〈巫女〉を探す』ということになりました。ただ、そこにはいくつかの条件が追加された。三十年に一度、親族と疎遠で、一人暮らしで恋人がおらず、人付き合いの少ない女性を、三年程度の任期で選ぶ。そういうルールが設けられました。つまり、三十年経てば担当する世代は交替し、〈巫女〉が死に続ける法則は露見しない。その上、条件に合致するような孤独な人間であれば、町内会との繋がりもありませんし、そんな〈巫女〉が三年ほど経ってほとんど誰も気に留めません。事件にすらならないのです」


 関口は無言で息を呑んだ。ただ〈巫女〉を殺害するためだけに作られた、非人道的な仕組み。同じ殺人にしても、関口のそれとはまた違った、無機質で機械的な虐殺。今まで隣町であるという認識くらいしかなかった木附根町に、陰惨な影が差すのを感じる。


「まず、その年の立秋の日、誰か――数多くいる木附根の人間の内『誰か』が気づけばそれでいいのです――が、情報網に〈巫女〉を選定する時期が来たと知らせを流す。それを受けた誰かが、〈巫女〉の条件に当てはまる女性を探す。もし見つけられなければ、その情報を別の誰かに伝え、その誰かは、また〈巫女〉に相応しい人間を探して、いなければまた別の誰かに連絡する――その繰り返しです。


 そうしたネットワークの中で、もし条件を満たす者が現れたなら、それをもってして〈巫女〉が決定します。そして、〈巫女〉を選びだした者は、今度はそれが決まったことを、探したときと全く同じように誰かに連絡する。連絡網は輪になっていますから、やがて、町内の全員が〈巫女〉が選定された事実を知るのです。ここで大事なのは、この方式を取れば、〈巫女〉を個人的に知る者が限られるということです。これも、真実を覆い隠すのに一役買っています」


 関口は、「佐藤」と「高橋」とのやり取りを思い出す。彼らはたしかに、それぞれ〈巫女〉を探していた。そして、見合った女性を見つけられずに、同じ町内会の会員に申し送りしている。〈巫女〉が決定していたことを知らなかったのは、情報が連絡網の途中にあり、まだ届いていなかったからか。


「そして、ここからがもっとも巧緻こうちな部分ですが、〈巫女〉を殺害する方法も、そのネットワークを介して用意されるのです」


 今まで佐伯が語ったのは〈巫女〉の真実を隠す手段で、具体的な殺害方法にまでは言及されていない――そこが、関口にとってもっとも分からないところでもあった。生贄を選別する手口は巧妙でも、実行犯がいる以上、彼または彼女が捕まればすべては水泡に帰してしまう。しかし、佐伯が口にした殺害方法は、関口の想像を遥かに超えていた。


「いったん〈巫女〉が決まると、ある人たちが、それだけでは法に触れない薬物を用意します。そして、それを慣例で決められた、それぞれの場所に供える。すると、別の誰かがその薬物を運び、また別の誰かに送る。その運搬の途中のどこかで、それらの薬が調合されて有害な毒物になる。そして、そうした運搬が何度も繰り返され、最後に、何も知らない人間が毒物の入った飲料や食物を〈巫女〉の家に届ける。


 〈巫女〉を選定する場合と同じです。全ては、そういう『慣習』なのです。、〈。これは、そういうひとつのシステムなのです」


 穂積紀香の携帯電話の履歴には配送の運転手の番号があった。彼らなら、自分が運ぶ商品の中に毒物の入った食品を混ぜることは比較的簡単なはずだと関口は思い至った。たとえば、サービス品ですとでも言って手渡して。死体を損壊したのも、「そういう役割の人物」がいたのだろう。部屋の鍵を開ける役、鈍器を置く役、顔の半分を叩き潰す役、その鈍器を片付ける役、足を折る役、そして再び鍵を閉める役――ぞっとしない、嫌な役回りだ。


 そこまで明らかになって、穂積紀香を殺したのが自分ではないと証明されても、関口は安堵の念を覚えなかった。犯人としてではないとしても、自分が事件に関わっていることは疑いようのない事実だったからだ。


「ぼくは、穂積紀香が死体となっていた部屋で気を失っていました。しかも、記憶をくして。今の話からすると、彼らがぼくに罪を着せるために、ぼくを部屋に放置したということですか? でも、なぜ? どうやって?」


「今わたくしが申し上げたのは、真実の断片。もう半分は、私には答える権限がないのです。すべてを知るには、小綱お嬢様からこの世界のことわりを聞かねばならない。それは、関口様に課せられた義務でもあります」


 それまで雄弁に話していた佐伯は、そう言ったきり口を閉ざした。車が深山幽谷しんざんゆうこくに入り、やがて視界が開け大きな屋敷が関口の目に入るまで、佐伯は無言を貫いた。


 小綱の家は山中にあるとは思えないほど豪壮な構えをした邸宅だった。切妻造きりつまづくり本瓦葺ほんがわらぶき棟門むねもんを中央に構え、生子板塀なまこべいの高いへいが左右に広がっている。その表門を抜け、いくつかある漆喰しっくい塗り大壁から成る土倉つちくらの横を通り過ぎると、二階建ての数寄屋すきや造りの母屋おもやが、大名だいみょう庭園に臨んで鎮座していた。建物自体古色蒼然こしょくそうぜんとしていて、色褪いろあせて焦茶色になった木目が百年以上の歴史の重みを感じさせる。関口を乗せた車は、その武家屋敷ぶけやしき然とした家屋の前で停まった。


 佐伯の言うとおりなら、すべての真相がここにはある。屋敷のおごそかな意匠に若干気後れしていた関口は、意を決して車の扉を開いた。陽の光が一歩を踏み出した足に影を垂らす。ふと空を見上げると、先のどんよりとした雲間は去り、不気味なほどの碧天へきてんがどこまでも広がっていた。山中のせいか空気も澄んでいる。だが、静かだ。木々のざわめきも、風の音も、生物の息吹も聞こえない。まるで、周囲のものすべてが何かに怯えているような、そんな静寂。張り詰めた空気がぴりぴりと肌を焼き、否が応にも緊張感が高まってくる。関口は重厚な片引戸に閉ざされた玄関の正面に立ち、取っ手に手をかけた。大きく深呼吸をしてから思い切って引き戸を開けると、ちょうどそこに彼女はたたずんでいた。


 烏の濡羽色ぬればいろの髪を腰まで垂らした、端正な顔立ちの、年端もいかない娘。体つきは細く背も高くないが、どこか不思議な、しかし威圧的で厳粛げんしゅくとした雰囲気を放っている。まるで、神話に出てくる仙女のような面持ち。片足が悪いのか杖をついていたが、それよりも印象深いのは、その瞳だった。虹彩異色症オッドアイ――片目は変哲のない黒茶だが、もう片方は燃え上がる緋色ひいろに染まっていた。その不均等な双眸そうぼうが、まっすぐに関口を捉え、


「幸志郎!」

 とその名前を呼んだ。

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