ヤーセミンの瓶

尾八原ジュージ

ヤーセミンの瓶

 フリーターの頃、貯金をはたいてトルコに行ったことがある。飯がうまいとか親日国らしいとか、そんな理由で選んだ旅先だった。

 トルコには一ヵ月ほど滞在した。現地で年上の女性と出会って、家に住まわせてもらっていたのだ。ヤーセミンという、当時三十過ぎくらいの美人だった。独身で、シシカバブなんかを売る屋台をやっていたが、「うちは元々医者の家系なの」とよく言っていた。流暢な英語を話す人で、トルコ語ができない俺はずいぶん世話になった。

 ヤーセミンはそれまでに二度結婚し、どちらの夫とも死別していた。口さがない連中は彼女のことを「カマキリ女」と呼んだ。交尾した相手を食っちまうというのが真意だが、ヤーセミンは平気な顔で聞き流していた。

「ソウタ、私の夫が死ぬのは仕方ないことなの。呪いなのよ。二回結婚して、私にはそれがよくわかったの」

 最初にそう言われたとき、俺は何のことかわからなかった。


 俺は客間をあてがわれていたが、ヤーセミンはいつも自分の部屋で寝ていた。

 ある夜トイレに起きると、彼女の部屋に電気が点いていた。扉が少しだけ開いていて、中から仔猫の鳴き声みたいなものが聞こえた。ヒャーヒャーというような、何とも心もとない声だった。

 何か動物を飼っているのかと思って、俺はドアをノックした。

「あらソウタ、どうしたの?」

 顔を出したヤーセミンに、仔猫の声みたいなものが聞こえたと話すと、彼女は瞳を見開いてひどく驚いた。しかし「それが聞こえたならいいわ、紹介してあげる」と言って、俺を部屋に通した。

 室内はきれいに片付いていたが、奥にある机の引き出しが開いていた。彼女はそこから小さな瓶をひとつ取り出して、俺の掌にそっと載せた。

「これは私が、医者だった父から受け継いだ宝物なの」

 俺は液体で満たされた瓶の中を覗いた。

 最初、それは小さな魚に見えた。ポチンとした黒い目があって、俺はふと昔飼っていたメダカを連想した。しかし、透き通るようなピンク色をしたそれが何なのかわかったとき、俺は危うく瓶を落としそうになった。

 胎児だった。小さいながらもう手の指がある、人間の赤ん坊だ。

「私の子供はこの子たちだけ。この子たちが夫を嫌がって殺してきたの。でもソウタには声が聞こえたのだから……」

 ヤーセミンは引き出しを大きく開いた。そこには同じような瓶がぎっしりと並んでいた。

 俺の掌の瓶から、か細い泣き声が聞こえてきた。それにつられるように、引き出しの中身が一斉に泣き始めた。

「私と結婚しない? ソウタ」

 ヤーセミンが俺の耳に唇を近づけて囁いた。


 次の日、俺はヤーセミンの家を出た。

 言い訳をする俺を後目に、彼女はつまらなそうな顔で串に生肉を刺していた。肉のピンク色が妙に生々しく見えた。

 それ以来俺は、トルコ料理屋やケバブの屋台が苦手だ。ヤーセミンとあの瓶のことを、どうしても思い出してしまうのだ。

 あれから彼女は、結婚できる男を見つけただろうか。それが気がかりだ。

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