夜。一人。荒らされた部屋。
λμ
暗闇に潜むもの
リビングが荒らされていた。まるで家に竜巻が上がりこんだような――いや、もっとひどい。棚の置物はひとつ残らず床に落ち、買ったばかりのテレビは倒れ、ソファーやクッションまで切り裂く念の入れよう。
窓の外で、部屋に投げ込むかのように、激しい雷鳴が轟いた。
ぽつん
と、足元に落ちた。
嵐が来そうだというのは、スマートフォンの通知で知っていた。冷蔵庫が空っぽだと気づいたときには、夜だった。
しかたない。今日はコンビニ弁当で済ませてしまおう。
十五分前、そう考えた自分を、渚は内心で罵った。
会計を済ませ店を出たところで、雨が降りだした。慌てて駆け出すと、逃さぬとばかりに雨脚が強まった。マンションのエントランスに逃げ込んだときには濡れ鼠になっていた。
ポーン
と、ちょうど到着したエレベータから、他の住民が降りてきた。右手にくたびれたビニール傘を持っていた。向けられた奇異の視線に背中を丸め、渚はエレベータに乗り込むとすぐにボタンを押し、隅っこに顔を向けた。
唸るような音を立てながらエレベータが上昇していく。お願いだから誰も乗ってきませんようにと、必要のない祈りを捧げながら、扉が開くのを待った。
金属質な擦過音とともに冷たい空気が流れ込み、閃光が吊籠を照らした。驚き、振り向くと、耳を劈く轟音がつづいた。
雷だ。雷は嫌いだ。
廊下に出ると、蛍光灯が不規則に点滅していた。行きはそんなことなかったのに。きっと雷のせいだ。だから嫌いだ。
鍵を開け、ぐしょ濡れになった靴を脱ぎつつ鍵を閉め、チェーンもかけて、裸足で上がった。
雷鳴。閃光に照らされる荒らされた部屋。渚は慌てて電気をつける。
「……なんで?」
ぽつん、と声が漏れた。
たった十五分の間に、なにがあった?
鍵は間違いなくかけて出た。さっき開けたのだから。
さっき、開けたのだから。
真っ白いジグザグが空を裂き、雷鳴が窓ガラスを震わせた。ぶつん、と部屋が真っ暗になった。停電だ。悲鳴をあげる余裕すらない。家に入るときも鍵をあけた。ついさっき鍵を閉めドアチェーンもかけた。背後で鍵を開ける音がしてくれていれば、こんな思いはしないですんだ。
部屋を荒らした奴が、まだ家の中にいる。
手に力が入らなくなり、渚はエコバッグを取り落した。その音にすら背筋が跳ねた。袋からこぼれた低量アルコールの缶サワーがごろごろと揺れている。膝が笑う。
「だ、誰ですかー……?」
声は雷鳴にかき消され、暗闇に吸い込まれた。渚自身バカなことをしていると分かっていた。返事があったとしてどうする気なのだ。恐ろしさに正常な判断ができないでいる。その自覚すらある。
いつ? 誰が? どうやって?
脳内で繰り返しながら、渚は記憶を
渚は寒さと恐怖に震える手でスマートフォンを出し、気づいた。
「まさか……?」
声にする。無音をこれほど恐れたことはない。思い当たったのは、数週間前に警告を与えた、同じゼミだった男だ。人当たりがいいというか軽薄というか、信用できない男だった。ゼミの飲み会で付き合ってほしいと言われ、即座に断り、以後しつこく誘われつづけていた。
同じ講義を取り、同じ学食を使い、常に視界の隅にいた。
はじめは負けてたまるかと我慢していた。帰り道に後をつけられ、たまらず交番に駆け込んだ。効果はあった。数週間前、もう一度、最後のチャンスと告白されるまでの間は。渚はいい加減にしてくれと叫んだ。次はないと。
じっ
と、こちらを見る目が思い出される。怒る渚の姿を愉しんでいるような、薄笑いを浮かべる双眸。曲がった瞳の奥に黒が滲んでいた。
心臓が痛いほど強く打ちだした。
いつ、どうやって、鍵を盗んだのだろう。
なんで私なんだろう。
私がなにをしたというんだ。
ふっ、とスマートフォンのバックライトが消えた。慌てて液晶を叩く。点いた。
人ならざる声が聞こえた。
甲高くもあり、低く唸るようでもある声。
あの男じゃ、ない。
声に確信する。
人ではない。
新たな恐怖が一息に膨らんだ。
部屋を荒らしたのは――
それが足元を這い回る。
ずるり、ずるり、
と、脛にまとわりついてくる。
激しい雨が窓を叩く。風が吹き込み、カーテンが大きくたなびいた。
「あ、あぁぁぁぁ……」
喉から声にもならない音を絞る。
窓。そうか。窓が開いていたのか。
そこから、お前は、入ってきたのか。
渚は、首を軋ませながら俯き、スマートフォンのバックライトで足元を照らした。
にああああぁぁぁぁぁ
一匹の茶色い猫。
渚は落雷もかくやという悲鳴をあげた。
猫は苦手だった。
すぐに、隣人の飼い猫だと分かった。やはり、窓を閉め忘れており、ベランダ伝いに入り込んだのだろうということだった。飼い主は平身低頭、弁償を約束し、ひとまず帰った。
「――っはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
渚は、部屋の惨状を見つめ、疲労と安堵のまじる息を吐き、ほろ酔いサワーを開けた。揺すぶられたせいで、盛大に吹いた。ボタボタと床に垂れるが気にしない。あとで拭けばいいのだ。まずは一口。甘くて美味しい。疲れた。テレビ――は起こすのがダルい。明日にしたい。飲んだら寝るか。
ぐびり
渚は喉を鳴らす。しかし、猫というのはやはり怖い。このパワー。まるで台風じゃないかと思う。
――あれ?
「でもなんで、」
かさり
「暴れ……」
かさり、かさり、
「たん……」
渚は戦慄した。
ソファーの陰から、黒い影。ほろ酔いサワーの缶が床で弾んだ。甘ったるい液体が噴出した。静かに、存在を主張し続ける、黒い影。
渚の口から絶叫が迸る。
夜。一人。荒らされた部屋。 λμ @ramdomyu
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