第2話
「人間、やりたいことがある内が華だよな」
「なにが?」と僕は言った。ちょうど居間のダイニングテーブルに、レトルトカレーを置いた時だった。
遅く起きた土曜日。夜勤から帰ったばかりの父が、向こう側のTVの前で昼酒を始めていた。酒のせいか、風呂上がりだからか、少し痩けた横顔が機嫌良さそうに見えた。画面には録画していた深夜放送の洋画が流れている。
「なにが?」と僕はもう一度言った。映画はちょうど、初老の男性が白い橋の上に立つ女性をカメラに収めるところだった。
「……」
それきり父は何も話さず、僕は引きづられるようにその映画を見終えた。
父の昼酒は、気づいた時には習慣化していた。仕事がなくても飲むようになり、居間にいる時間も増える。だけど仕事までにはしゃんとして家を出ていく。車で片道1時間の工場勤めだったが、愚痴は聞いたことがない。
だから父は酒を楽しんでいたんだと、僕は言い切れる。素面の時は寡黙で良い人だし、意味ありげに話す言葉にも思慮深さがあると憧れていた。
僕が19歳の時に、父は仕事から戻ってこなかった。
戻ってこなくなって最初の土曜日。ふと僕は、父が最後に録画した洋画を再生してみた。無意識ではあったが、父が戻らなかった理由をどこにでも探していた時期だったのだろう。
今度はいつか見た初老の男性が老人になって、自宅のデッキで缶ビールを呷っていた。父が居間に飾ったポスターと同じ、グリーンのクラシックカーを愛しているようだった。
「やりたいことがある内が華、なのかな」
僕は隣の母に聞いてみた。
「……そうかもね」と母は何日も着たままの部屋着で、ただ画面をぼうっと見てる。また僕は映画を1本見終わってしまった。
* * *
酒を飲む理由は人それぞれだ。習慣的に飲むようになっても、元の人格を保って楽しんでる人もいる。だが、結果的には皆同じだ。
自然と飲む前に持っていた良識はどこかに置いてきてしまう。そのまま自分自身が2つになり、元々の方はどこかへ隠れてしまう。多くの人は皆そうなのだ。それでも多くの人は、自分自身は1つに戻る。しかし父はそうではなかった。彼が向かった先が仕事ではないことは、自ずと僕にもわかってきていた。ただ、どちらが本当の父だったのかは、ついぞわからなかった。
いつからか昼酒を飲むことが、僕のやりたいことの1つになった。
* * *
「品川ナンバー……2289……。9-8/2で5、2を掛けて10……。川崎ナンバー……」
夜の蒸し暑さがまだ抜けきっていない。朝日を浴びた空気は中途半端に温められて、また気だるさを増していた。ここはまだ昨日の冷たさが残っているが、下の道路は月曜の朝を忙しく始めている。幾重のタイヤに切られた水たまりの音が、ここまで撥ねてきた。そういえば、朝の雰囲気とはこんな風だった。
僕は陸橋の上から見える車のナンバーを捉えてから10を作って、上手く頭が働けるか確認する。少しだけ飲んでから早寝をしたのだが、手すりに載せた腕の節々はキシキシと痛んでいた。骨の髄まで酒が滲みて、身体が溶けているようだ。このまま立っていれば、履いている黒のオールスターから体液とアルコールが抜けていくかもしれない。
3分で41台分を計算し終えてから、僕は下に降りてアーケード商店街に入る。居酒屋の前には、白いゴミ袋の山があちこちにできていた。スーツの人々と通り過ぎる度に、あの山の方がまだ活力が残っているように見えてくる。夜のバカ騒ぎの残滓とでも言うべきか。
商店街を抜けて、線路沿いを何ブロックか進む。パチンコ屋の角を曲がると、この辺りでは珍しいが、さして立派でもないオフィスビルが見えてきた。僕はコンクリート製の非常階段を上がって、財布に入れたカードキーを探しながら3Fの裏口を目指す。
「……はい。はい、ええ。そちらについては改めてご連絡をしまして」
2Fの踊り場に足を掛けた時、上から保険会社の営業の声がした。たまにエレベーターで会うが、どの職員も皆一様に髪とスーツだけは整っていた憶えがある。何故か全員サイドを綺麗に刈り上げて、ストライプ柄のシングルスーツで統一していた。そしてなぜかシトラスのオーデコロンを皆使っていた。空っぽのエレベーターで彼らの残り香が漂っていた記憶が、にわかに鼻に蘇った。顔と身長が違うだけの人々だったが、まっとうな仕事というのは、ああいうものなのだなと常々思う。
裏口にカードキーを差し込む。期待通り扉は開いてくれた。どうにか、まだ僕はこの会社をクビになっていないようだ。ゆっくりと広げて、半身がぎりぎり通れるだけの隙間を作って中に滑り込んでいった。昔作ったスパイゲームの主人公に、こんなモーションを実装したのを思い出した。
そのまま暗いオフィスを見渡して、僕は自席へと向かっていった。50にも満たないデスクがどうにか会社の振りをして並んでいる。埃っぽいフロアマットは相変わらず汚い。飲み物の染みがあちこちにこびりついていた。
非常口から最も離れた西側の窓際に、まだ僕の席は用意されていた。クリーム色のヘッドホン、積まれたゲーム雑誌の山とサプリメントの空き瓶。ようやく自分がいた場所に座ると、まだ時計は9時を回ったところだった。
「少し早かったか…」
ゲームづくりは、死ぬほどツラい! おとき @otk05
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