あなたの肩の向こう側
鹿島 茜
欲望の扉
「あ、とんぼ」
私は思わず呟いた。それは、あなたにぎゅっと抱きしめられているときのことで。
「とんぼ?」
「そこに、とんぼが飛んでる」
初めてのハグ。そして初めてのキス。あのときのあなたは、心底、きょとんとした表情で私を見た。
「今、言うこと?」
「ごめん、つい」
笑いあって、私たちはまた抱きしめあった。まだ夏の暑さが残る夕方、どこかで蝉の声の名残がありそうな空気の中で、私たちは初めての甘酸っぱいラブシーンを体験した。
それなのに私は、あなたの肩の向こう側に広がる景色を眺めずにはいられなかった。大きな目を開いて。
私の癖だった。抱きしめられるとき、目を閉じない。目を開いて、思い切り開いて、あなたの肩の向こうに広がる何かを見る。それは空だったり、月だったり、太陽の光だったり、まばらな電線の形だったりした。
たくさんの人に抱きしめられた。
それは、夜であっても。
あなたに抱きしめられると、あなたの肩を感じる。硬くて柔らかい肩に口づけると、少しだけ震える。その向こうに私は、いろいろなものを見る。部屋の中の風景だとか、灯りの色だとか、私の欲望の形だとか。
あなたの肩の震えを感じて、私自身の身体が震えていることを感じ取る。身体が遠く離れたような、ひとつになったような、不思議な感覚を持つ。あたたかい、熱すぎるくらいの体温と、ほんの少しの汗。指でなぞると吸いつくような、しっとりとした肌ざわり。とてもきれいな、肌。
「あなた」は、たったひとりのあなたではないけれど。私にとって、たくさんのあなたなのだけれど。
私はいつも、あなたの肩の向こう側を見つめている。
「なに見てるの?」
ときどき、聞かれてしまう。答えられない。
「俺だけ見てて」
そんな台詞は、聞き飽きていた。
あなたの肩はブラックホールの入り口。いつも私を異次元に連れて行く。そして抜け出すときは、心も身体もバラバラに崩れて、ほどよくゆったりと溶けている。
服を着ていても、裸であっても、私はあなたの肩の向こう側を見つめないでいることはできない。あなたの肩は、私の欲望のすべてに繋がる扉のよう。その扉を開くことが怖くて、開きたくて、開くことが快くて、扉を開いたら私はそっと手を伸ばす。手を伸ばして、そっとつかんで、ゆっくりと握る。快楽を手離さないように、感触を確かめる。大丈夫。そう思ったら、ようやく目を閉じる。あなたの肩の向こう側へ、渡ることができる。
目を閉じると、とんぼが見える気がする。
目を開いてしまえば、そこにあるのは白い天井や壁なのに、目を閉じると。
ふわふわと、とんぼ。
あの日から、きっと、ずっと飛んでいる。
私の目の奥に、ずっと。
あなたの肩の向こう側 鹿島 茜 @yuiiwashiro
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