水風船
くれは
水風船
「待って」
手を掴まれる。立ち止まって振り返り、そこに立つ男子を見る。確か、クラスメート。
立ち止まるわたしたちの隣を、別のクラスメートがちらりと視線を投げて通り過ぎていった。それで、教室にはわたしと彼だけが取り残される。
「何?」
警戒心を隠すつもりもなく、わたしはその男子の顔を見上げる。彼は、周囲を気にするように見回して、またわたしを見る。何か気にするならまず手を離したら良いのにと思いながら、わたしは彼の次の言葉を待った。
「死ぬつもりなら、俺も連れて行って欲しい」
一瞬だけ、息を止めてしまった。けれど、すぐに何事もなかったかのように、わたしは眉を寄せてみせる。
「何の話? ふざけてるなら離して」
「ごめん、でも、わかるんだ。死ぬつもりでしょ」
彼の声音はとても硬くて、視線もとても真っ直ぐで、とても大真面目にそれを言っているみたいだった。
意味がわからない振りを続けようと思って、でも、出てきた言葉は「どうして」だった。わたしの少し震えた声に、彼は眉を寄せて困ったように笑って「直観」と答えた。
「わかるんだ、昔から、死のうとしている人が」
昼下がり、どこに向かうのかもわからない電車に揺られながら、彼はそんな話をした。
「なんでかって、自分でもよくわからなくて。でも、確かに何か違うのがわかるんだよね。死のうとしている人に特有の……仕草なのか、ううん、でもそんなにはっきりしたものじゃないのかもしれないけど。だから、直観としか言えなくて。でも確かにわかるんだよ」
彼も、わたしと同じ普通の生徒だったと思う。普通の学生。教室の背景になるような。それはカラフルに一つ一つ違った模様を描かれた水風船のようなもので、みんなそれぞれ違う色で違う模様で、でも並んでしまえばどれも水風船でしかない。その内側に水を詰め込まれて膨らんで、その色とりどりの薄いゴムが何かの弾みで破れてしまえば、中身を撒き散らすことになる。
「母親が、自殺したんだ。小学校に上がってすぐ。その前日に、俺は確かに感じてた、何か違うって。でも、その時はそれがなんなのかわからなくて、それで朝起きたら母親が首を吊っていた。それを見て、昨日のあれはそういうことだったんだって理解した」
わたしは少しだけ、幼い日の彼とその母親のことを想像する。彼の母親が死んだ理由はわからない。けど、やっぱり普通の母親だったのだろうな、と思った。これはもしかしたら、少し失礼な想像なのかもしれない。
「それからずっと、人混みとかで、ああ、あの人死ぬんだなっていうのがわかるようになっちゃってさ。気にしないようにしてても、どうしても、気にはなっちゃうし……だって、本当に死ぬんだよ。それで今日、ちょうど目の前で死ぬつもりのクラスメートがいて、それがわかった瞬間に思っちゃったんだよね、一緒に死ねばちょうど良いやって」
「何それ」
わたしの言葉に、彼は苦笑する。
「ごめん、なんか、本当に自分でも意味がわからないけど、そう思ったんだ。ちょうど良いやって」
自分の気持ちが随分と軽く扱われたような気もしたけど、でも彼にとって死にたい気持ちというものは、そのくらいに身近でありふれたものなのだろうなと思う。だからか、そんなに嫌な気分にはならなかった。
それに、自分の気持ちがそのくらいありふれたものだという想像は、案外悪いものじゃなかった。ありふれた、カラフルだけど無個性な水風船は、どれだけぱんぱんに膨らんでも、やっぱり中身はみんな同じただの水なんだ。
「理由を聞いたり、止めたりはしないんだね」
彼は首を傾けた。
「話したいなら聞くけど」
わたしはそれに首を振って答える。
「話したくはないかな。ただ、てっきり何か、そういうことを言われるのかと思って警戒してたから」
彼は「ああ」と呟いた。
「警戒して当然だ、ごめん。俺はさ、止められるとは思ってないんだ。理由だって、聞いてどうにかなるものでもないし」
彼は、何かを思い出すように視線を彷徨わせる。わたしは彼の言葉を待って黙っていた。
「考えたことはあって、例えばさ、母親が死ぬ前の日に、それがそうだと気付いていたら、止められただろうかって。どう思う? 止められると思う?」
わたしは少し考えてから首を振る。
「わからない。止められるかもしれないし、無理かもしれない」
「そうなんだよね、止められるかなんてわかんないんだ。それに、もし止められたとしてもさ、その先ずっとそれと向き合って生きていかないといけないかもしれないって、考えてしまったんだ。いつかは、止められない時が来るんじゃないかって。その可能性の中で生きるのは、きっと、しんどいだろうなって思う」
彼の言葉に、わたしはひどく納得してしまった。仮に今ここで、彼に死ぬことを止められたとして、もしかして一度はそれを諦めたとして、明日のわたしはまたそれを選ぶかもしれない。明後日も、その先も。
「本当は、諦めちゃいけないのかもしれない。それにずっと向き合うのが、正しくて優しいことなのかもしれない。でも、俺にはそれはできないって思っちゃったから」
彼はちょっと笑うと「そういうこと考えるのも、疲れちゃったんだよね」と言った。
名前だけは聞いたことがあるけど、でも知らない駅で、二人で降りた。当たり前のような顔で、二人で歩く。二人でどれだけ話しても、わかることは、お互いの水風船がもう弾け飛びそうにぱんぱんに膨らんでいるってことだけだった。
ぱんぱんに膨らんだ水風船は、ゴムにぶら下げられて、きっともうじき、水を撒き散らしながら弾け飛ぶのだ。
水風船 くれは @kurehaa
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