神の手

四葉ゆい

第1話

 神の手を持つと言われるその人は、生涯弟子を取ることはないのだという。

その人の輝かしい功績を知る人は、そんな馬鹿な、というに違いない。けれどその本人を知る人はきっとあぁ、あの人らしいときっとそういうに違いない。


 ある晴れた日の昼下がり、気がかりだった原稿を無事に編集者に引き渡した私はその日までの自分を一度脱ぎ捨てたいという欲求に駆られペットボトルのお茶と水をそれぞれ一本カバンに放り込むと特に行き先を決めることもなく家を出た。

これは締切明けの私の儀式のような、恒例のお楽しみでもある。

街を歩きながらああ、あの店は新商品を出したんだな、とか

こんな平日の昼間でもこのカフェは人で混んでるな、とかぼんやりとそんなことを考える。

そんな時間が好きだし、きっと私には必要なのだと思う。


他の人はどう思っているのかはわからないが、私は作家という仕事は人を観るということで概ねが成立するのだと思っている。かつて通った大学でも心理学を学んだくらいだから元々関心はあったのだが、作家になってからはその傾向が強まった気がする。

あまりにも人を観すぎたそのストックは既にオーバーフローして私を侵食しているのかもしれないな、とふと思うことがある。

書くというだけならいくらでも書けそうな、それらの波はもう私を揺らすことをしなくなってしまった。

それなのに書き始めると途端に精彩を放ち人を魅了するのだ。知識と経験の賜物かもしれない。

それに反比例するかのように私の毎日はモノクローム化してゆくばかりな気がする。

それでも仕事だから、と見続けてこうなのだと結論付ける、という片手落ちのような行為を惰性のように続けてしまうのだ。

私はそんな自分を最近は少し持て余し、諦め、日々に流されて生きている。


 思いつくまま足を動かし、歩いているうちに街外れの小高い丘の上にある公園に着いてしまった。

公園といっても芝生と花壇とベンチがいくつか。まだ花が咲き始める手前の季節だからほとんど人もいない。ましてや授業中のこの時間は子供は1人も見当たらない。

あぁここは公園だ、と気づいた瞬間から軽い疲労感と喉の渇きを覚えた。

少し休憩をしようと丘から街を眺められるベンチ3つに向かって歩き始めた。

一つ目のベンチには赤ちゃん連れの若い母親、二つ目のベンチには70代位と思われる老人、最後のベンチには営業中のサラリーマンと思しき2人連れが腰掛けている。

相席を頼むのにはきっと老人の席がいいだろう。

「こちらにご一緒しても?」

老人はにっこり笑って私を見ると

「どうぞ、どうぞ」

手で隣を指し示しながら頷いた。

気難しそうにも見えたけれど案外気さくな人なのかもしれない。

この老人は一体どんな人なんだろう。

私は極力老人を不躾な目で見ないように街を眺めるふりをしながら考えを巡らせ始めた。

乾燥した空気のせいだろうかコホンコホンと老人が軽く咳き込む。そういえば私も喉が渇いていたのだった。

「あの…よかったらこれ」

私はカバンからペットボトルのお茶を取り出すと老人に差し出した。

「いやいや、それは申し訳ない…」

遠慮しようとする老人に、

「いえ、私もちょうど一息つこうかと思っていたところなんです」

自分用にこれがありますから、という意味を込めてペットボトルのお水を取り出して見せた。

老人は

「それではご親切に甘えてしまおう。ありがとう」

人懐こい笑顔を浮かべるとペットボトルのお茶を手にした。

「長居をするつもりじゃなかったから、手ぶらででてしまってねぇ」

「そうなんですね。お近くなんですか?」

「私はちょうどここをくだって少し東に寄ったところに住んでいるよ。君は近くにすんでいるのかね?

あまり見かける顔ではない気がするが」

心地よい声の調子で老人は言葉を返してくれる。

「私は街の中心の方に住んでいるんです。普段はあまり外に出ないのですが今日はたまたま仕事が終わって気分が良かったもので、なんとはなしに歩いているうちにここまで来てしまいました」

老人はじっと見つめながら私の話を興味深そうに聞いてくれている。

“聞いてくれている”。私は少しドキッとした。どうやら私はこの老人に話を聞いてもらいたいと思っているらしい。

「私は物書きをしていまして、仕事柄…」

うんうん、と頷きながら

「なるほどねぇ、目が、“観る眼”だと思ってたよ。作家さんでしたか」

「お分かりになるんですか?」

私は予想のつかない老人の言葉に驚きながら問いかけた。

「私もねぇ、人を観るのが生業でねぇ」

およそ物書きのようには見えない老人が人を観ることをしているという事実に私は急に好奇心を掻き立てられた。

「…占い師、とか?」

私は推し測って出した答えを遠慮がちに伝えてみた。

はっはっは

朗らかに笑い声を上げて老人は首を横に振る。

「残念ながら、僕はもう少し生身に近い仕事だね」

老人はお茶を一口飲むと話を続けた。

「僕は人の身体と心を整える仕事をしています」

私の目をまっすぐ見て老人がそう口にした時には、もうわかっているようだった。

「あなたは、滞りを感じているようだねぇ」

「……」

老人の言葉に私は答えることができなかった。

口を開いたら堰を切ったように何かが溢れ出してしまいそうで何もいえずにいた。

「なぁに、無理して何か話そうとさることはないんだよ。僕は無理にそれを聞く必要はないからね。僕には経験上、今君がそういう状態にあるということとそれを解放する鍵がどこにあるかがわかるだけなんだ」

私は自分自身の今の状態をしんどいなんて思ったことはなかった。多少の違和感、締切前のゴタゴタで疲れているな、くらいの感覚だったのだ。

老人の言葉を聞くまでは。

かすかに震えている私の肩を老人は優しくとんっとたたくと

「君の身体に少しの間触れてもいいかな?」

と尋ねた。

どうしてそれを断れるだろう?私は小さく頷いた。

どこをどういう順番に触れたのかは覚えていないが

あっという間だった。

痛くもなければ無理矢理な感じもなくその時間はあまりに短かったので

「さぁ、いいだろう」

と老人が言った時には逆に拍子抜けして

「え?」

と、うっかり言葉に出てしまったくらいだ。

私は自分、に目を向けてみた。

確かに、身体の方は何かスッキリしている、背筋がシャンとしたというか。

そんな私の様子を眺めていた老人は

はっはっは

朗らかに笑う。

「もう大丈夫だよ。

身体の要求と心の要求は一致しているからね。

こうありたいという君の身体の方の声に従っただけだ」

「身体の声…」

「本当に聴こえるわけじゃないんだよ?」

いたずらっ子のような目で老人はまた笑うと街を眺めながら話し始めた。

「子供の頃の親の肩たたきから始まって、喜んでもらえるのが嬉しくてなぁ。10になる前から身体の仕組みの図鑑を眺めたり、近所の人たちの体を触ることで何かが積み重なってきたんだろうなぁ。いつのまにかその人を見ればどうすればいいのかわかるようにもなってきて、まぁそれだけじゃいかんと思って大人になってからはそれなりに勉強もしたが。僕のやってることはほとんど経験の積み重ねだなぁ」

「そうしたいと思ってやってきたのですか?自分の道について悩んだりは?」

「そうだなぁ、これが本当にやりたかったことなのか、考える前に積み重ねで道がついた。それが僕にとっては自然だったということかもしれないなぁ」

「そうでしたか…」

そのまま私と老人は肩を並べて街を見ながら、お互いのことをポツポツと話し続けた。


 どれだけ話していただろうか。

「先生!!せんせーーーいっ!」

遠くから先生と呼ぶ声がする。

私も先生と呼ばれる事があるので一瞬ドキリとしたがどうやら私の方ではなく老人を呼ぶ声だったらしい。

「あぁいかん」

30代半ばくらいの男性が丘を駆け上がってきた。

「せ、先生っ何も持たずに出かけるのはあれほどやめてくださいって言ったじゃないですかー!大臣がお見えですよ!」

仕方がない戻るとするか、と立ち上がると

老人は

「どうやら僕はもういかなきゃいけないらしい。

でも、僕はもう少し君と話したいし、君の書いた本を読んでみたいと思うんだ。どうだろう、また来週、ここで会うことはできないだろうか?」

私もまた別れの時間を惜しむ気持ちになっていたので私と老人は、早く早くと急がせる若者を尻目にまた会う約束をした。


 これが私と神の手を持つ男と言われた老人の出会いだ。

それからの私はというと、編集者曰く何か一皮剥けたようになった。そんな作品を書くようになったのだという。

私はいつか、彼をモデルに何か話を書いてみたいと思っている。

そうだ、彼にももっと自分の話をしよう。

手始めに私が書いている本をプレゼントするのも良いだろう。

これから先が楽しみだな、そんな気持ちで足取り軽く私は彼の待つ公園へ向かうのだった。









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神の手 四葉ゆい @yotsuhayui

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