あの日 (3月11日)

宙音(そら)

第1話

 あの日、高校生だった同僚が「仕事を始めてから、大きな災害にあったことがないので実際あった時にどう対応したらよいのか不安で悩んでしまう」という話を聞き、もしも災害があった時に役立てて欲しいと思い、あの日の経験を書くことにしました。

 3月11日、それぞれ違う職場で働いていました。私の経験が主ですが同僚の話やまた体験談で聞いた避難の話を書こうと思います。


 お昼寝から起き始める頃に地震が起こった。幼児の子ども達は起きている子どもが多く、大きな揺れに慄き、怖くて子ども達がすぐに私の周りに集まってきたので安心できるように話しかけ避難した。

その時、自然に体が震えていて、震える中を

自分を鼓舞してみんなの命を守るには、次は

どうやったら良いか考えながら避難した。


 別の保育園で働いていた私は卒園児のコサージュ作りをしている時に地震は起きた。

2階から慌てて走って、1歳児クラスの子ども達がいる1階ところに行き、お昼寝を見ていた同僚と寝ている子ども達に危なくないよう掛け布団をかけ直し揺れが治るまで待った。


 3月だけど、まだ外は寒くて。

パジャマのままで、外に避難すると風邪をひいてしまう。『いつ着替えさせて』、『いつ園庭に避難するか』タイミングが大事。揺れが治ったらしようと隣のクラスの先生達と話し合って決めた。


 夢の中にいた1歳児の子ども達に不安を感じさせないように、いつものように起こし、

揺れが治った時に着替えをしながらトイレに誘い、もしもの時に備えて布パンツの子どももみんな紙パンツに履き替えてもらった。

紙パンツを嫌がる子にはお願いして、布パンツの上に紙パンツを履いてもらった気がする。

 いつも寝起き機嫌が悪い子がいて、あの日も機嫌が悪くて抱っこしながら、彼女の好きな歌を歌いあやしたのを覚えている。

そしていつもと変わらない姿にホッとしたことも…。


 園庭までの道、物が落ちてないか、落ちてこないか確認を1人の職員がし、安全が確認できてから、おんぶをしたり避難車に乗せて避難した。園庭までの道のりがいつもの倍に感じた。みんな無事だった。


 3月11日のあの日、東北より離れた場所だったけどあの地震で保育園の周辺は停電になっていて、近所に住んでいた非常勤さんが応援に来てくれた時に教えてくれた。それと団地の5階に住んでいてすごく揺れて食器棚から食器が落ちて散乱した話もしてくれて、いつもと違う地震だとみんなが感じていた。

 みんなの無事が分かると今度はお迎えに来るまでに、帰りの荷物の準備をした方が良いという話になり、揺れが治っている時間を見計らって、クラス毎に職員1人が荷物を取りに行った。

 「無理はしないで、揺れたら安全な場所に避難して」と声をかけ合いながら、荷物を用意する人、保育する人と別れた。


 そして、全ての準備ができた頃にいつもよりだいぶ遅くなってしまったけど青空の中でみんなでおやつを食べたこと覚えている。

 大変だったのはミルクつくり。

停電していたので 電気ポットは使えず

安全が確認できないうちにガスを使うのは危ないので炊き出しして、お湯を沸かしミルクを作った。


 夕方になり、停電のため街に灯りがともらないことに気づき、日が暮れて暗くなる前に発電機を使って園庭に灯りをつけた。


 そしてお迎えを待った。

家族に会えた時の子ども達の笑顔。

保護者の無事で良かったというホッとした表情。鮮明に残っている。


 あの日のうちに家族に会えて家に帰った子もいれば、保護者が地震のため帰宅困難になり、保育園で寝泊まりして家族を待った子もいた。


 あの日から地震後の揺れに不安になりながら、すぐに避難できるように服を着たままお昼寝するようになったり、災害時、水が止まるかもしれない事を考えて水筒を持ってくるようになった。それと大きな水筒にお湯を入れて、災害時に赤ちゃんがお腹が空いてもすぐにミルクが作れる体制を作った。


 災害が起こる度に地震や台風、火災などの災害時、職場や住んでいる所ではどんな災害が起こりやすいか調べ、避難の仕方を考えた。みんなが発電機の使い方の講習や救急蘇生法の講習を受けたりもした。

 毎月行う避難訓練も様々な時間帯で散歩先やプールに入っいる時など、様々な想定で避難訓練をする中、潜んでいる危険はどこか、次はどうしたら良いか話し合い改善しながら過ごしている。

 災害が来ないことを願いながらも、もしもの時に備えてる。

お迎えがくるまでの避難生活では、どのようなことを注意したら良いのかも話し合ったりもした。


あの日、高校生だった同僚の一言から

自分達が経験したことを語り伝えて行くことが大事なんだと気づいた。



………………………………………

災害にあわれ、被災された方、辛い思いをされた方達にお見舞い申し上げます。そして亡くなられた方々にご冥福をお祈り申し上げます。


東日本大震災から10年。

震源地から遠く津波などの災害がなかった保育園での避難の状況を経験談として書いてみました。


 災害があった時に自分が住んでいる場所、学校や働いている場所ではどんな災害が起こりやすいか知り、こういう時はどこが危険で自分はどうするか疑似体験しながら考えておくことが、命を守る行動につながると思います。


 あの当時、日本では粉ミルクが主でしたが海外ではミルクのパックがあり、災害の時にあると良いなと思っていました。震災後に日本の会社でも開発して常温で飲めるミルクパックなどが売られるようになりました。赤ちゃんの舌はとても敏感で、そして繊細なためミルクならどれでも良いわけではなく、普段でもお好みのミルク以外は飲んでくれない時があります。

 特に災害時はいつもと違う環境で敏感になっていると思うので、避難リュックの中に赤ちゃんのお好みのミルクと慣れた哺乳瓶を入れて置くことをお勧めします。

または防災倉庫に。

 私が前に働いていた職場ではお家で使っているミルクを聞き、同じミルクを購入していました。そして避難リュックにも常備していました。避難時に水の使用を控える中、哺乳瓶を衛生的に保つにはどうしたら良いか、避難訓練の時に試したこともありました。


これからの日々、被災された方達、大切な人を失った人達に心癒されることや少しでも笑顔になれる出来事がありますよう願っています。

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あの日 (3月11日) 宙音(そら) @ktonoha-sorane

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