ボクの尊き楽園の終わる日
無月兄
第1話
『尊い』って言葉、みんな知ってるかな? 崇高、神聖、高貴なんていう意味らしいけど、それなら、僕が今お昼寝しているこの場所こそ、世界で一番尊い空間に違いない。
「食パンー、食パンー、どこー?」
そんなことを思っていると、この家の一人娘、ナナミちゃんの声が聞こえてきた。どうやら、小学校から帰ってきたみたいだ。
「食パンー、食パンー」
さっきから何度も『食パン』って言ってるけど、これはなにも、彼女がすっごく食いしん坊ってわけじゃない。
食パンって言うのは、この家で飼ってる猫の名前。全身が白くて、だけど耳だけが茶色いことからこんな名前をつけたんだってさ。とってもラブリーな、この家のアイドル。ボクのことさ。
ナナミちゃん、ボクはここだよ。
バア、と顔を出すと、ナナミちゃんもすぐに気づいてくれた。
「なんだ、またコタツに入ってたの。食パンは本当にコタツが好きだね」
そう。さっき言ってた尊い場所ってのは、コタツのこと。ボクは今の今まで、ずーっと、この茶の間にあるコタツの中に入ってたんだ。だって気持ちいいもん。
暖かくてフカフカしてて、これはまさに聖域と言っていい。ボクの尊き楽園、一日中、いや一生この中にいたいくらいだ。
いああ、尊きかな、尊きかな。
だけど、この時ボクはまだ知らなかった。コタツという尊きボクの楽園が、もうすぐ終わりの時を迎えようとしていることを。
「そろそろ、このコタツも片付けるか」
ある日の夜。ボクを含めた家族みんなでご飯を食べていると、お父さんが急にそんなことを言い出した。
えっ、片付けるって、コタツがなくなっちゃうの?
ボクはイヤだよ。コタツはボクの楽園なんだ。片付けるなんて、絶対ダメだからね。
だけど、猫の言葉は人間にはわからない。ボクのあげた声はスルーされ、さらにお母さんが続けた。
「そうね、だいぶ温かくなってきたし、もう頃合いかもね。ちょうど、明日は休みだし、片付けちゃいましょうか」
そ、そんなー。
そうだ。ナナミちゃんなら、ボクの気持ちわかってくれるよね。ボクがコタツ大好きだって知ってるもの。片付けのはダメだって、言ってくれるよね。信じているよ。
「ナナミもそれでいいか?」
「いいよ。わたしも片付けるのお手伝いするね」
ガーン。ナナミちゃんまで。信じていたのに。ヤダヤダヤダ。コタツは片付けるちゃダメーっ! ニャーニャーニャーッ!
「どうしたの食パン。そっか、コタツを片付けるのが嫌なんだね」
よかった、ようやくわかってくれた。だけど、そう思って安心したのも束の間だった。
「でもね食パン。もうとっくに春になって、すっかり温かくなってきたんだよ。それなのにいつまでもコタツに入り続けたら、食パンだって焦げてトーストになっちゃうよ」
いいもん。トーストだっておいしいもん。
だけどボクがいくら声をあげてもナナミちゃんの、それにお父さんとお母さんの気を変えることはできなかった。
「それじゃ、明日はコタツを片付けよう。みんな、いいね」
よくなーい! コタツはボクの楽園なのにー。
こうなったら、明日はボク一人でも徹底抗戦してやる。なんとしても楽園を守るんだーっ!
そうしてやって来た翌日。もしかすると、コタツという楽園がなくなってしまうかもしれない日。
だけど、そんなことボクがさせない。朝からコタツの中に陣取って、一歩も動かないでいるんだ。どうだ、これならボクが邪魔で簡単には片付けられまい。
思惑通り、お父さんもお母さんもナナミちゃんも、コタツには手を出すことができなくなった。ハッハッハ、どうだ参ったか。
「ああ、やっぱり今年も食パンはこうするか」
「毎年そうだものね。もはやこの季節の風物詩よ」
えっ?
それを聞いて思い出す。確かにボクは、去年も一昨年もこの季節になると、コタツをしまおうとする家族のみんなに対してこんな風に抵抗していた。だけど結局片付けられてしまったんだ。なんでだっけ?
まあいいや。今年こそは、なんとしてもコタツを死守するぞ。
決意を新たにするけど、ちょうどそこで、相談を終えた三人がやって来た。
「じゃあ、いつものフォーメーションでいくか。ナナミ、食パンのことはよろしくな」
「わかった。任せてよ」
そんなやり取りの後、ナナミちゃんが一歩前に出る。何をする気か知らないけど、ボクは絶対に負けないぞ。全身の毛を逆立てて威嚇するけど、そこでナナミちゃんはあるものを取り出した。
そっ、それは、ボクの大好きな猫じゃらしのオモチャ!
「ほらー、食パン。猫じゃらしだよー」
そう言ってナナミちゃんは、ボクの目の前で猫じゃらしをブンブン振ってくる。
だ、だけどボクは見向きもしないぞ。今はコタツを守るっていう大事な使命があるんだからね。
「一緒に遊ぼうよー」
ブンブンブンブン!
「ほらほらー」
ブンブンブンブン!
目の前を、ブンブン揺れる猫じゃらし。うぅ、ボクの中に眠る、狩猟本能が刺激されるー。
ボクには、コタツを守るっていう大事な使命があるよ。あるけど……少しくらいなら、本能に正直になってもいいよね。えいっ!
「わぁーっ。食パンの猫パンチ、カッコいいー。もっとやってー」
えっ、カッコいい? そんなこと言われると照れちゃうなー。よーし、それならもう一発。猫パーンチ!
「おぉーっ、凄い凄い。今度はもっと広いところで見せて。こっちだよー」
猫じゃらしをブンブンさせたまま、ナナミちゃんは茶の間の外へと出ていく。そして、狩猟本能とサービス精神が全開になったボクは、もちろんその後を追っていく。まてまてー。
そうしてボクは、猫じゃらしにたくさんパンチをして、ナナミちゃんにカッコいいところをいっぱい見せてあげたんだ。楽しかったー。
あれ? だけど何か、大事なことを忘れている気がするぞ。なんだろう?
まっ、いいか。たっぷり遊んだ後は、コタツに入ってのんびりしよっと。
そう思って、茶の間に入る。だけどそこには、衝撃の光景が広がっていた。
ない! コタツがない!
なんと少し前まであったはずのコタツが、いつの間にか影も形もなくなっていた。
「ナナミ、食パンを引き付けてくれてありがとね」
一仕事終えた感のあるお父さんとお母さんが、ナナミちゃんにそんなことを言う。
えっ? ナナミちゃん、そのためにボクと遊んでたの?
さらに、ここでようやくボクは思い出す。去年も一昨年も、コタツを守るろうと抵抗した時、全く同じ猫じゃらし作戦にやられたことを。
こんなのひどいよ。
「騙すみたいなことしてゴメンね。でも、もう温かくなってきたんだし、コタツはもういらないでしょ」
いらなくないもん。コタツはボクの楽園なんだよ。もっともっと、たくさんヌクヌクしたかったのに。
えーんえーん。
「あらら。食パン、すっかり拗ねちゃった。」
そうだよ。すっごく拗ねてるよ。ボクの楽園を返してよ。
そんな恨み言を込めてニャーと鳴くけど、何を思ったのか、そこでお父さんがボクをヒョイと抱えあげた。
「まあまあ。ちょっとこっちに来なさい」
そう言ってお父さんは、それにお母さんもナナミちゃんも、歩き出す。 なに? どこに連れていこうとしてるの?
そうしてやって来たのはこのおうちの軒下にある縁側だった。そこで、お父さんがボクを下ろし、言う。
「外はもう温かくなったんだ。ここだって、コタツに負けないくらい良い場所だと思うけどな」
えっ? 言われてみれば確かに、外から差し込む光がボクの体を包み、ポカポカとした温かさが伝わってくる。
うーん、これはこれで、気持ちいい。
さらに、ナナミちゃんも言う。
「コタツはもうなくなっちゃったけど、これからはここでのんびりすればいいじゃない。わたしも、食パンと一緒に日向ぼっこしたいな」
う、うーん、どうしよう。コタツもいいけど、ここだっていいよね。
さらにさらに、お母さんもそれに続く。
「食パンがそれでいいって言うなら、ご褒美に、今日の晩御飯は高級猫缶をあげちゃうわよ」
えっ、高級猫缶!?
そ、そこまで言われちゃ仕方ない。わかったよ。これからは、この縁側をボクの楽園にしよう。
そうと決まれば、早速ゴロンと横になってヘソ天し、思い切りこの温かさを堪能しよう。
「よかった。食パン、機嫌なおったみたい」
ふふん。ボクは大物だから、いつまでも過ぎたことには拘らないんだよ。
こうして、コタツというボクの楽園は失われてしまったけど、変わりに縁側という新しい楽園ができたんだ。とっても温かくて気持ちいいんだよ。今度みーんなで、仲良く日向ぼっこしようね。
するとそんなボクを、お母さんが持っていたスマホでパシャリと写真に撮った。
「丸くなってひなたぼっこしている食パン、ほんと可愛いわね。Twitterにあげよ。コメントは……『うちの猫が尊すぎる』」
そう言えば、尊いって言葉には、すっごくいい、みたいな意味もあったっけ。そっか、この世で一番尊いのは、コタツじゃなくてボクだったんだ。
ボクの尊き楽園の終わる日 無月兄 @tukuyomimutuki
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