第28話 宿命
「あれ……紫月鬼さん?」
目を開けると部屋の明かりに照らされた紫月鬼がぼんやりと見えた。
次第にはっきりと映し出されてゆくその体は、今日の彪鬼と同じように白い光を放っているように見える。それでも相変わらず紫月鬼は美しい。
「私がわかるのね」
「……え?あ、ありがとうございます起こしてくれて。髪も乾かさないで寝ちゃってた」
「ごめんなさいね、こんな時間に。脅かすつもりはなかったの」
「いえ嬉しいです」
栞那はベッドから降りるとカーディガンを羽織り、ボサボサの髪を軽く整えた。部屋がよい香りに包まれほんのり暖かく感じる。
すると紫月鬼が、すっと目の前に近づいてきたかと思うと、体を引き寄せられ強く抱きしめられた。
「怖かったでしょう?無事で良かったわ」
一瞬何のことだろうと思ったけれど、あの不審者事件のことかと栞那は思う。
それくらいもうだいぶ忘れられたけれど、まだふとした拍子にあの時の掴まれた腕の痛みが蘇る時がある。
暗闇に誰かが居てこちらを見ているような気がして、あれからなんとなく夕暮れ時に土手や神社に行けなくなってしまった。
でもそんな事を説明するより今は、背の高い紫月鬼のちょうど胸元あたりに栞那の頭が包まれ、嗅いだことのないような華やかな香りに脳みそが溶けてしまうような心地よさに溺れる。
着物の上からでも伝わってくるこの温かさはまるで天国にいるようだ。
女の人の体ってこんなに柔らかいんだ……。
紫月鬼が体を離れると、すぐ間近に美しい顔があって吸い込まれそうな瞳に見つめられ、思わず栞那は頬を赤らめる。
「……あ、えと、怖かったけど彪鬼達がいてくれたからもう大丈夫です。あ、叉羅鬼は元気ですか?最近全然来てくれないからどうしたのかなって思ってたんです」
「相変わらずよ」
「そっかぁ、会いたいなぁ。叉羅鬼もだけど、彪鬼とも1ヵ月以上会ってなかったんです。でも今日ようやく来てくれて。なのに私予定があったからそっちを優先しちゃって……」
「そう」
「彪鬼何か言ってませんでしたか?すごく悲しそうな顔してたから、謝りたくて」
「栞那は本当に彪鬼に優しいのね」
「いえ、全然優しくなんかないです。だって彪鬼より別の事を優先しちゃった。彪鬼はいつだって私の話を聞いてくれたのに」
「自分の生活の方を大切にする事は当たり前の事よ。それでいいの。彪鬼だってそれを望んでいるはずよ。ねえ栞那、もう遅いけれど少し話をしてもいいかしら」
「もちろんです」
紫月鬼は少しだけ微笑んで見せた。
部屋の座布団に紫月鬼が腰を下ろす。その横に栞那も座り紫月鬼の赤い唇を見つめる。
「栞那は、彪鬼の左目を見た事ある?」
「え……?あ、はい」
「怖かったでしょう?」
「怖いっていうか、すごくびっくりしました。けど今は平気。とても綺麗だから」
「見えないということも?」
「うん、話してくれた」
「それ以外にも、彪鬼には私達とは違う所がいろいろあるの。それには理由があってね」
「理由?」
紫月鬼は頬にかかったおくれ毛を、そっと耳にかける。
「彪鬼は、人の心を持つ鬼なの」
「……人の、心?彪鬼が?」
「ええ。不自由なのはそのせいだと言われているわ」
「……人の心を持っているせいで?」
「人の心には邪気が眠っている。邪気を浄化しなければならないものに、邪気が生まれたらどうなると思う?」
うまく想像できないけれど、それが相反したものだと言う事は理解できる。
「……良くないって事?」
「そうね、自らの力で自らを浄化しなくてはならないの」
「それでどうなるの?」
「この世界から消えてしまうでしょうね」
その一言に栞那は息をのみ言葉を失う。
淡々と紫月鬼は話を続ける。
「鬼はね」
「人を傷つけてはならないし人は鬼を傷つけてはならない。けれど、人は人を傷つけることができる。つまり、彪鬼は人を傷つけてしまう」
「もし、目の前で傷つけている人を見たら、怒りを覚え、憎い、許せないと思うでしょう。傷つけられた者、弱い者を守ろうとするでしょう。それが、人の心なのでしょうね」
「行き過ぎた思いは邪気にもなる。だから長い間、彪鬼は人と関わる事を禁じられたの」
栞那は彪鬼の言葉を思い出す。
人と関わるな、と言われていたこと。
彪鬼は、もしかしたら人を傷つけてしまうかもしれない。だから人と距離を置かなければならなかった。
周りと自分は違うという疎外感。どうして自分だけが、という葛藤や自分を未熟者だと思ってしまうような出来事もたくさんあったのだろう。
きっと想像できないくらい、彪鬼も孤独や苦しみを抱えて生きてきたんだ。
「だから私は反対したの。あなたと彪鬼が親しくなることを。本当にごめんなさいね」
「そんなこと……」
「それにね、もともと鬼は人に姿を見せていいものではないの。なぜなら人は必ず鬼に惹かれてしまうから」
「それは、わかります」
「人にとって邪気のない存在は憧れでしかないのでしょうね。本当は自分もそうでありたいはずなのにどうやってもなれないのですから。でもそれは仕方のないこと。それが人なのだから」
叉羅鬼もそんな事を言っていた。
邪気と戦っている人の姿を可愛いし愛おしく思うとも言ってくれた。
彪鬼も叉羅鬼も紫月鬼も憧れの存在だ。
自分が欲しいと思うものを全て持っている人達。同じようになりたいときっと誰しもが思うだろう。
「彪鬼は……消えちゃうの?」
栞那はおそるおそる紫月鬼に問いかける。
「きっともう大丈夫よ。さ、栞那、もう少しこちらへいらっしゃい」
肩に手をかけられ、栞那は紫月鬼の前に背中を向けて座らされる。
すると紫月鬼は櫛のようなもので栞那の髪をとかし始めた。ひんやりとした手が首筋に触れるたびにゾクゾクと鳥肌が立つ。でもそれが変に気持ち良い。
「きれいな黒い髪」
「紫月鬼さんのほうが、ずっと綺麗」
「いいえ、栞那には栞那の美しさがあるの」
「うん……ありがとう紫月鬼さん」
ずっと髪が短かったから親に髪をとかしてもらったり、ましてや結んでもらった記憶などほぼない。毎朝綺麗に編み込まれたクラスメイトの子を見て羨ましいと思った事があったなぁと栞那は思い出す。
そんな些細な事を沢山比べてばかりいたせいか、ある時から他人に関心を持つ事を辞めた。
一人の場所をいつも探していた。
置かれている状況は全く違うけれど、きっと彪鬼と自分は似た存在だったのかもしれない。
「ねぇ、栞那」
「私たちの言葉は綺麗事に聞こえるかもしれない。そして、人にとって見えないものはないものと同じなのかもしれない。けれど、それでも私たちは存在する。人以外の生き物や、その存在がお互いの世界を、同じ場所に持ち、関わりを持っている。それは、この世界が続く限り終わりなく続くものよ」
「常に目に見えるところにいて、声をかけ、かけられている事が大切にする事ではないわ。近くにいられなくても言葉が通じなくても想いはちゃんとあるし届くの。栞那がこんなにも彪鬼の事を想っているように、ね」
「うん……」
「思い出すだけでいい。私や叉羅鬼、そして彪鬼の言葉を。共に見た景色を、一緒に感じた気持ちを。そのために私達は出会い、あなた達は許されてきたのだから。そしてこれからも」
「……うん。ありがとう紫月鬼さ……」
栞那が振り返ると、今の今まで髪をとかしながら話をしてくれていた紫月鬼の姿はなかった。
さらさらと揺れる髪のこめかみ部分が気になって触れると、少しだけ編み込まれていて、そこには花のついた枝がかんざしのように挿されていて、優しい香りを残していた。
ひゅうきの風 濱 ひろみ @hama_hiro
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