通過儀礼

眞壁 暁大

第1話

「上か下か、どっちに行くのか決めた?」

 母が私に尋ねてきた。

「さあ」

「さあ、って……さすがにもう決めなさいな」

「まだ時間はあるよ」

 母の少し呆れたような小言を軽くいなして朝食のシリアルキューブを口に放り込むと、私は玄関を出る。

「それじゃ、行ってきます」


 いつものように真っ白な壁と天井と廊下。

 誰ともすれ違うことなく教室についた。

 教室には先についている同級生が何人かいたが目配せを交わすだけですぐ席に着く。見たかぎりでは、友達はまだ来てないようだった。


 席について端末を起こして、ぼんやりと画面を眺める。

 社会見学の参考に、とずいぶん前に渡された資料をダラダラと再生し続けた。


 上の生活と、下の生活。


 どっちに進むべきだろうか。

 直観は、上に進むべきだと言っていた。

 いろんなことを学んできたけれども、それがいいというのは自分でもわかっている。

 分かっているのだけれども、それでも。

 下のことも気になった。

 三年前の社会見学の時にたった一度だけ、特別に昇降機でみんなで下りてみた光景。まだ目に焼き付いて離れない。

 あそこにもう一度行くには、下に行くしかない。



 外のシリンダーでは広くはないが、途方もなく長い通路が印象的だった。カートで回ったのに、一周できずに途中で切り上げて引き返してきたほどだ。

 ふだん暮らしている中のシリンダーなら、カートを使えば同じ時間で一周できたのに、その外周の大きさにまず驚かされた。


 そもそもこの自分たちの暮らす「シリンダー」がウィルスから人類を保護するために作られた巨大な人工環境だということは学んでいた。

 外周のシリンダーは外気を取り入れると同時に、数段階のフィルターをろ過することでウィルスを除去し、空気を清浄化する機能があるということ。

 内部のシリンダーは、そうして清浄化された空気をとりいれて、外周に暮らす人々よりもウィルスへの抵抗力の低い人たちを守る機能を持っていること。

 外と中では人々の暮らしの基準もまったく異なっているということも、少し長じてから学んだ。


 外の人たちは家族を持たないということ。

 外の人たちはウィルスの残留する空気の中でも暮らすために肉体改造を続けているということ。


 自身で自身のカラダを品種改良しているのだ、と教師は言っていた。――そもそも、こうやって対面で授業するということじたい、外のシリンダーではありえないことなのですよ、とも。

 


 そうした生態の違いをあらかじめ学んでいたから、外の世界にはじめて触れた時にも驚きはほとんどなかったが、一瞬だけカートの窓越し、防護服のヘルメット越しに見た「外の人」のことが忘れられずにいる。

 ほんの一瞬だけしか見えなかったけれども、彼らは明らかに自分たちと同じ形をしていた。

 どの人物も代り映えのない同じ服を着て同じような背格好だったものの、間違いなく自分たちと同じ人間だった。

 生態の違いにより、中と外では人間に差異が生じている、という文字情報はあらかじめ知識として得ていたが、イメージとしては知らされていなかった。

 外の人のプライヴァシーに配慮する必要性、と教師が言っていたから、よほど風貌、外見に差があるんだろうと思い込んでいた私は衝撃を受けた。

 

 外の人が、まったく同じ人間だったから。


 外の人たちが歩き去った方向に向かう前に、カートはUターンする。

 彼らはどこへ向かったのか?

 尋ねた私に教師は彼らは彼らの居住区に戻る途中だと答え、我々が見学できるのは生産区画だけだと答えた。


 生産区画は自動化の困難なあらゆる種類の生産活動を担う、このシリンダーの中では相応に重要な場所だった。

 とはいえ外からは真っ白な壁が見えているだけで、何が作られているのかは窺い知れない。教師の言うところによれば、その殆どは食糧生産施設であり、主に植物工場だという。中には入れない。

 外から眺め、壁に投影される予め撮影された内部の様子を眺め、その巨大さに圧倒されるだけだ。

 だがそうした機能面は私にとってはもうどうでもよかった。

 すれ違った彼らとなんとか話をする方法はないか、そのことについて教師に立て続けに質問をぶつけた。


 教師は困ったような顔をして

「それなら、針路は下の労働を志望するしかないですね。今いる階の彼らとの会話は無理ですが、これより下の階の人々であれば、交流も可能かと思います」

 と言った。


 以来、私は外のシリンダーを調べ続けている。

 私が外のシリンダーを垣間見ることができるとすれば、それはやはり下の生活を選ぶしかなさそうだった。

 下の生活、外周の最下層と内周の最下層の接続部であれば、外気への耐性の薄い自分でも務まる仕事がある。

 じじつ外周の人間、子供たちの世話をしている自動機械のオペレーターの募集があり、それに対しての適性は、前もって調べたところ充分という結果も得ている。


 務まらないことはない。

 だから、何の問題もないはずだった。


 しかし、直観が踏み出すことを押しとどめている。

 下に行くよりは上の方がずっと良い、という知識がある。

 興味をもって調べてみても、下の仕事についての情報はかなり少なかった。

 上の仕事は調べなくても次々に向こうからやってくるのに。

 それでも調べられるだけ調べてみたものの、直観から来る警戒感・嫌悪感はまだ拭いきれていない。まずこれだけ情報量の差があるということが、直観から言えば「危ない」と考えたほうが自然だった。


 だがそれでも、同じくらいの重さで外の世界は面白そうだ、という直感があった。


 それを後ろ立てする何の知識もない。

 ないけれども。


 ただすれ違ったあの時、マスクだけで素顔のまま外を歩いていた外の住人たちの目顔にいずれも笑みが浮かび、楽しげに喋りあっていたのが強く心に残っている。

 ただそれだけで「下が、外が良い」という気持ちを抑えきれずにいる。


 母も父も、どちらでも良いと口では言いながら、私が上に行くことを望んでいるのも知っている。

 それでも下を見たいという欲求が抑えきれずにいる。


 私は感じ慣れた直観と、初めて感じる直感の間で悩む。

 今日も答えは出そうにないが、今なら勢いで下を選びそうな予感がしている。


 そろそろ授業が始まる。この授業が終わればいよいよ進路相談。

 その前に友人に会って相談がしたかった。

 思えばこの時、私は直感に押し流されそうな直観の正しさを誰かに補強してほしかったのだと思う。

 けっきょくタイミングが合わず、友人とは一人も会わないまま進路相談になる。



「どうするんだ?」

 教師は尋ねる。

 私は答える。


 上か、下か。


 どちらに転んでも後悔するんだろうな、という、ただそれだけはたしかな予感を抱えたまま。














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通過儀礼 眞壁 暁大 @afumai

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