月下

対峙

 深夜。晩餐も終わり、各々が床に入ってからしばらくのこと。手入れの行き届いた空き部屋を割り当ててもらったフィロは、暗闇の中でも眠りに落ちず、寝転んだままじっと窓から満月を眺めていた。草木も眠る深い時間、まるで静寂が音として感じられるようだった。

 これほど上質のリネンに体を横たえたのはいつぶりだろうか。フィロはその感触を惜しむようにして、ゆっくりと柔らかな至福から起き上がった。ベッドの脇に寄せている色褪せたキャメルのトランクケースに手をかける。中を開いて詰められた荷物を漁った。安物のシャツを二枚ほどめくると、下からダガーが出てきた。フィロはそれを上着の中に忍ばせ、さらに中身をひっくり返す。荷物の底には剣が一本、トランクの対角線上にしまわれている。フィロはそれを取り上げ半ばほど鞘から引き抜く。スティレット。刺突に特化した剣だ。フィロはそれを腰からぶら下げた。

 腰上の高さにある窓を開けて、フィロは月光のみが明かりとなった外の世界へ身を乗り出した。部屋は三階にあった。フィロはロートアイアンの花台を足場にすると、一切のためらいも見せずに、窓一つぶん向こうにある雨樋に飛び移り、それを伝ってするすると下まで降りていった。

 見上げると、たった今開け放された窓でレースのカーテンが揺れている。フィロは居心地のいい空間を惜しみながら、忍び足で屋敷の外周を歩き始めた。


「どちらに向かわれるおつもりですか?」


 屋敷の外を半周ほど歩いたところで、突然フィロは背後から声をかけられた。声の主はラミナだ。


「いえ、お手洗いにね。どうもワインを飲み過ぎたようだ。クレメンスさんが随分いいワインを出してくれるもんだから」


 動じる様子も見せずにフィロは背を向けたまま返答する。


「お手洗いは外にはございません。それとも別に何かご用事が?」


 ラミナには腰のスティレットも見えているはずだった。隠すこともなく堂々とぶら下げているのだから。

 フィロは一呼吸ぶんの時間をとってから言葉を返す。


「優秀なメイドさんだ。一家の護衛も任されているのか?」


 フィロは突然、独楽のように素早く回転し、振り向きざまに距離を詰めた。左手の袖からダガーが滑り出し弧を描く。狙いはラミナの首筋だ。しかし、ダガーは首筋に達する前に、硬質の音を立てて止まった。ラミナの前腕部から、エプロンドレスの袖を裂いて突き出た刃が、ダガーを受け止めていた。


「わかっていたぜ。おまえだけはおれをはなから警戒していたろう? 不穏な動きをしたら寄って来ると思っていたさ」


 ラミナと刃を重ねたまま、フィロはにやりと笑った。


「わたしが目当てだったのですね」


 ラミナは呟くように言った。


「そうさ。一家に悟られずにおまえを葬りたい。ここなら多少のことでは気付かれんだろう」


 フィロはそう言って、ラミナを押しやるように力を込めた。しかし、ラミナはびくともしなかった。見た目こそか弱いメイドだが、ラミナがただの家庭従事用オートマタではないことは、前腕から突き出たブレードが物語っている。しかもその刃の鋭利な輝きは、フィロの持つダガーに勝るとも劣らない。


「メイドに身をやつしているわりにはずいぶん手入れの行き届いた刃だな。いつでも人を斬れるようにか? さすがは殺人兵器だよ」

「野生を捨てた猫も、爪を研ぐことを忘れはしないでしょう」


 ラミナがダガーを弾いた。フィロは踊るように二歩、三歩と後退した。


「初めからわたしを狙ってやって来たのですか? フィロ・ラルス。あなたはシニスタン人ではありませんね」


 フィロは喉奥で笑った。


「ご明察、ラミナちゃん。驚くべきことに、おれはかのグレムリンの生き残りよ。戦争が終わってから壊し屋になったんだ。分かるかい? 壊し屋」

「オートマタを破壊することを生業としている人間でしょう。言わば、オートマタ専門の殺し屋です」

「メイドさんは何でも知ってるんだな。ラミナ、おまえたち機巧兵団のオートマタは、戦争が終結して間もなく、一体残らず廃棄処分になっているはずだ。それがどうだ? 廃棄になるどころか、ほとんどが民間用オートマタとして第二の人生を歩んでいるじゃないか。機械人形にもセカンドキャリアを用意する。さすがはオートマタ先進国だよ、シニスタンは」


 フィロは嘲るような笑みを浮かべて皮肉った。


「グレムリン」


 ラミナが人間の脳にあたる記憶装置から過去の記録を検索して呟いた。検索している間の素振りは、思案する人間がやるものとほとんど変わらない。


「フィロ。グレムリンは戦争終結二日前に、モビーディック号に搭載された我ら機巧空挺部隊によって全滅に追い込まれました。あなたがわたしたちオートマタ兵を憎む理由もわからなくはありません」


 フィロは細めた目で貫くようにラミナを見据え、ふんと鼻を鳴らした。


「壊し屋は別にオートマタ兵が憎くてやるわけじゃない。おまえたちは兵器だ。人を殺し、戦うために作られた人型の兵器。壊し屋はそんな人類にとっての脅威を排除するためにやるだけだ。もっとも、仲間をやられた恨みが全くないわけじゃないが」


 恨みという言葉がトリガーであるかのように、フィロの目に強い殺気が宿った。ダガーを持つ手が上がる。ラミナも迎え撃つため構えをとった。

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