直観
秋色
直観
絶対にあのマンションの五階に上れる気がした。俺は生計の手段として窃盗を十代の頃からやってきて、建物を見れば、すぐにある部屋までどうやって辿り着けるかシュミレーションが出来る。
直観とでもいうのだろうか。
身体能力は誰にも負けない。以前、道を歩いていて友人と勧誘されたボルダリングジムで、体験コースというのをやってみた。その時、上級者コースを達成しそうになってスタッフが思い切り引いていた。上級者コースを達成できなかった、というより敢えてしなかったのは、怪しまれないため。というか初心者コースでわざと失敗すれば良かった。プロのスタッフ達の気をくじいてしまったから。でもあいつら本当にプロと言えるのか?
プロと言えば最初に俺を捕まえたやつ、あれはプロだった。直観の優れたやつ。あれはちょうど十年前の十七才の時だった。
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明宏はその日、クリーニング店にワイシャツ等を取りに行っていた。非番の日で、その後、散髪に行って、それから婚約者とその両親に会う事になっていた。上司の紹介で決まった結婚話だ。
いつもと変わらない駐車場は、その辺りのいくつかの商店とファミリーレストランとの共同の駐車場となっている。
ある少年とすれ違った時、ふっと違和感を感じた。金色に近い茶髪の今時の少年でパーカーを着ているが、高級なセダン車の側で何か探すような仕草をしている。
「君、どうかしたの?」明宏は訊いた。
「ううん。お父さんから忘れ物を取りに行くように言われたの。でもカギもらうの、忘れたからファミレスに戻らなきゃ。パフェ、食べかけなんだ」
少年は幼い感じの話し方で、背は高いが中学生みたいだった。いや、そう見せているだけだ。
「君、ちょっといいかな。そのポケットの中の物を見せて」明宏は警察手帳を見せた。
少年はパーカーのポケットから古びた長財布を出した。
「それ、君のものじゃないね」
「一緒に来たおじいちゃんのだよ。もうファミレスに戻らなきゃ」
明宏は少年の腕を掴んで引き止めた。
「お巡りさんがそんな事していいの?」
ふと浮かんだ少年の反抗的な眼の色と先程とは正反対の声音に、自分のカンが当たっていた事を感じた。
「その話し方が地なんだ」
「るせーよ」
「君みたいなカッコの子は親とこんなお子ちゃま向けのファミレスに来たりしない。もっとモリモリ食べられる焼肉店とかなら別だろうけどな。また君のような子の親の年代が乗る車とこれは違う」
「るせー」
「さあ本名を言いなさい」
「前野希。希望の希と書いてノゾム」
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そこは総合病院の産婦人科の診察室だった。
「それでは人工妊娠中絶で、決断されているんですね、井川さん」
中年の女性医師が彩子に言った。
「ええ。お腹の中の子の父親は頼りなくて、彼との結婚は考えてませんし。自分自身、母親になる自信も意志もありませんから」
「では、中絶手術の同意書にサインを。ですが、その前にお話があります。この間、以前甲状腺疾患があったとの事で、念の為のスクリーニング検査をしました。他には何もなかったのですが、胸のレントゲンを念の為いつもの1方向でなく、2方向で撮りました。そうすると横向きの撮影で腫瘍状の影が見えました。それでCT等検査を追加したんです。それで疑いは濃くなりました」
「癌という事ですか?」
「まだ分かりません。良性かもしれないし、悪性かもしれません」
「悪性の場合、どうなりますか?」
「悪性の場合、治療を開始しなくてはなりません。でもまず中絶手術をしてからになります」
「あの……さっきの話ですが、胸のレントゲンをなぜ1方向でなく2方向で撮ったんですか?」
「隠れてると1方向で見逃す事があるからです。貴女を初めに診察した時、顔色の悪さが気になりました。煙草も十代から吸っていたと問診票にあるし」
「あの、私……やはり産みます。ここの病院で産ませて下さい。もし悪性となって死ぬような事になったら後悔するので。それにお腹の中の子の父親は優しくて、それに本当に私を愛してくれてるんです」
「でも九ヶ月以上、腫瘍の治療ができないと手遅れになるかもしれませんし、医師としてお勧め出来ません。それに先程まで中絶を考えていて方には特に。でも……」女医は続けた。「もし決意が固いようなら協力はします。貴女は産む事に決めると感じてはいました。ずっと煙草とアルコールを控えていらっしゃいますよね?」
********
夜の街を走る一台のタクシーがあった。後部座席にいるのは初老の男性医師で、医師と名が付くのはその日が最後だった。小児科医として総合病院に勤め、その日が定年退職であり、お別れパーティーが医局メンバーで店を貸し切り行われたばかりだ。パーティーとは言ってもアルコールを口にしてはいない。その日だけでなく、小児科医となってからアルコールを口にする事はなかった。いつ何時、急患の子どもが運ばれてくるか分からないからだ。
流石に今夜は周囲はアルコールを勧めた。もう大役から降りたのだから、と。それでも医師は何となく飲む気がしなくて断った。それは医師としての直観だった。もう大丈夫だろうと、そんなふうに思った時こそ何かが起きる。そんなもの。だからルーチンは崩さない方が良いし、決めた事は変えない方が良い。もちろんそれももう過ぎた話で、明日の朝の早い便で妻とのんびりとした旅行に出る。そしてその後は息子夫婦の住む長野に買ったマンションに住み、余生を過ごすのだから。
その時、何気なく見ている車窓からの風景に違和感を感じた。信号待ちしているタクシーから見える反対車線。そこに同じく信号待ちしている乗用車があった。運転しているのは、三十才になるかならないかの若い男で、何かオロオロした様子だ。赤信号待ちが待ちきれない様子で、時々ハンドルを握り締め、顔を両腕の中に埋めている。後部座席には五才くらいの小さな子が毛布に
「運転手さん、すみませんが今すぐUターンして、あの白い車を追って下さい」
「えっ、今からですか? いや、分かりました」
そのタクシーの運転手はある意味、お抱えの運転手のような所があった。普段から何処にいても急患がいればすぐに病院に戻らなくてはならないこの小児科医のために個人の携帯電話番号を教えていて、いつでも駆けつけて来てくれた。
信号が赤から青に変わると、適当な所でUターンし、どんどん前の車を追い抜いていった。そして父子の車のすぐ後ろにつくと、次の赤信号で、医師は降りて、車の窓をコンコンと叩いた。
「後ろのお子さんの具合が悪いのですか? 私は小児科の医師です。信号が青に変わったら、路肩に寄って停まって下さい。力になります」
二台の車が停まると、医師は具合の悪い息子を病院へ連れて行くという若い父親を落ち着かせ、救急車を呼び、大きな小児科のある自分の今日までいた総合病院に運ばせた。
父子家庭の親子で、少し前に息子は幼稚園から帰って遊んでいる時、どこかの川沿いで遊んでいて、古い釘を踏んでしまったらしい。適当に手当てをし、絆創膏を貼っていた。ところがそこから破傷風になりかけていたのだった。ICUに運ばれたものの、すぐに治療を始めたので大事にはならずに済み、二日目から一般病棟に移れそうだった。夜中を病院で過ごした初老の医師は朝方になって、窓の外に咲きほこる桜の花を見ながら呟いた。「今日は旅行に行けないな」
********
「オレみてーな悪人は……」と
「もうここに来るのはよせ。お前はこの世界でやってける程の能力はない」
「でも頑張ります。おれ、才能ありますよ」
「お前、才能ないよ」
「アニキ、何を言うんですか? 両親とも早くで亡くした俺にとって、アニキは唯一家族のように思える人なんですよ」
「オレにとっちゃ他人だから変に親近感持たれても困るし。とにかくもう、ここへは来ないでくれ」
光一には分かっていた。こいつは才能あるけど、いつかは離れていく、と。若い子が入ってきた時、この世界に向くかどうかは、黒社会で長い間生きてきた者の直観で分かる。
********
俺は必ず五階まで上ってみせる。まず雨樋を使って上り、あとはベランダの手摺と室外機を使う。
直観と言うのだろうか? 父さんは言っていた。母さんが俺を産む前に、母さんを診た医者が念の為にと撮った胸の写真で腫瘍が分かり、それで産む決断をしたと。その医者の直観で俺はこの世に生まれたんだ。五才の時、俺と父さんの乗った車を追いかけてきた年寄りの医者もそうだった。すれ違っただけで窮地を察し、追いかけて助けてくれた。
もう一度シュミレーションしてみる。刑期を終えて出てきたばかりで、ここは通りすがりの知らない町と建物、そして数年のブランクはあるけどだいじょうぶだ。場末を踏んでいるから。直観で分かる。
俺は必ずあの五階のベランダまで辿り着けるはず。いや辿り着いてみせる。燃えさかる炎の中からあの子を助けるため。そして群衆をかき分け、雨樋を上り始めた。
(終)
直観 秋色 @autumn-hue
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