金屋根の寺に眠る

kanegon

金屋根の寺に眠る

【起】


 アフマドジャンの右肩に木の棒の重みが食い込む。

 収穫した葡萄を籠に詰め込み、二個の籠を木の棒を使って肩に担いで年老いた馬が引くオンボロの二輪馬車まで運ぶ。20世紀半ばだというのに、自動車は無いのか。

「アフマドジャンさん、明日、雨、降りそうですね」

 一緒に強制労働に従事しているデブ猫が話しかけてきた。顔が太った猫のように見えるのが渾名の由来だ。強制労働者は栄養不良なので痩せて体の状態が悪いのが普通だ。アフマドジャンは三十歳の誕生日を過ぎてから、急速に額の生え際が後退し始めてしまった。デブ猫も体は痩せているけど、顔だけは何故かデブな猫に見える。

「降らないでしょう。根拠はありますか」

「無いです。直感です」

 ここは中央アジアのウルムチだ。内陸で雨が少なく、降っても月に一回か二回程度だ。だから乾燥に強い葡萄を育てている。

 空気は乾いているが今は無風で砂埃も舞っていない。北東彼方にはボゴダ峰が天に向かって三本ほどの白い牙を剥いている姿が窺えた。

「それよりもアイツ、近いうちに失脚しますよ」

 アフマドジャンは囁くように声を潜めた。

「えっ、失脚」

「声が大きいですよ」

 アイツとは盛世才という中華民国の軍人だ。ウルムチを含む新疆地域一帯の実権を握っている独裁者だ。アフマドジャンもデブ猫も中華民国からの新疆の独立を目論む革命運動家として、盛世才に逮捕されていた。

「アイツが失脚って、根拠あるんですか」

 デブ猫も囁き声になった。

「根拠はあります。アイツは何かと敵を作り過ぎます。自分の弟も、策略のために暗殺したって噂です。ああいうヤツは遅かれ早かれ失脚するでしょうが、近い内にその日が来そうに思うのです」

「なんで近い内にって分かるんですか」

「そこは根拠は無いです。言うなれば直観、ですね」

 二人は運んできた籠を馬車に積み込み、代わりに空の籠を二つずつ持って葡萄の木の元に戻る。

 翌日。雨は降らなかった。昼過ぎになってから、盛世才が国民政府の命令で重慶に異動になるという情報が届いた。実質、独裁者失脚である。

「アフマドジャンさんの言ったこと、本当になりましたね」

 デブ猫は葡萄の入った籠を一つだけ担ぎ、昼前よりゆっくり歩いていた。

「我々も多分一カ月以内くらいに釈放されるでしょ。強制労働も終わりです」

 アフマドジャンは袖で額の汗を拭った。釈放されても不健康な生活で失った頭髪は戻ってこないだろう、という遠い感慨に浸った。


【承】


 強制労働者が釈放されて程無く、アルタイ地区で武装蜂起が発生した。カザフ族のダリール・ハーンが中心人物だった。

 それと時を同じくして西方のグルジャでも武装蜂起が発生した。指導者はウズベク人イスラム宗教学者のアリー・ハーン・トラで、中華民国からの独立と東トルキスタン共和国成立を宣言した。1944年11月のことだった。

 グルジャは、南を天山山脈、北をコキルチャン山脈と北東のボロホロ山脈に挟まれたイリ地方の中心だ。中央アジアの中では比較的雨量が多く緑豊かな街であり、何よりアフマドジャンにとっては生まれ故郷だ。

「アフマドジャンさん、共和国政府に参加したらどうです。ソ連からも協力を受けているようだし、この国なら上手く行きそう。アフマドジャンさんなら政府で活躍するって、俺の直感が告げています」

 アフマドジャンは整えられた口髭を撫でながら渋い表情をした。髪は抜けても髭は生えてくるのが理不尽に思えた。

「逆です。ソ連と中華民国の間で渡り合う必要があるので共和国の行く手は難しそうです。それ以上に臨時主席に就任したアリー・ハーン・トラという人が不安です。元々学者らしいですが、学者は自説にこだわって柔軟性に欠ける場合が往々にしてあります」

「じゃあ共和国に参加しないんですか。このまま俺と一緒に新聞の編集の仕事を続けますか」

 腕を組んで、アフマドジャンはしばし黙考した。

「いや、危ういからこそ誰かが支える必要があります」

 かくしてアフマドジャンは東トルキスタン共和国政府に参加した。モスクワの大学で学んだ博識さと誰に対しても丁重な態度で接する人柄、革命運動家として鍛えられた雄弁さを遺憾なく発揮して、あっという間に頭角を現した。デブ猫の直感通りだった。

 力をつけて15000人の民族軍を編成した共和国は、タルバガダイ地区、ダリール・ハーンのいるアルタイ地区の革命勢力とも合流した。ウルムチ西方まで進撃し、マナス川で中華民国政府軍と対峙した。

 中華民国政府から派遣された将軍はスターリン政権のソ連総領事に調停を要請した。ソ連総領事は三区勢力に対して、新疆民衆代表と名乗るよう斡旋した。

 共和国主席アリー・ハーン・トラは激怒した。

「我々は東トルキスタン共和国だ。あくまでも中華民国との国家同士の交渉だぞ。そもそも俺は和平交渉には反対だ」

 逆にアフマドジャンは冷静になった。スターリン政権を真っ向から敵に回すのは得策ではない。そう直観が告げていた。

 結局アフマドジャンの尽力で和平合意が成立した。その直後にアリー・ハーン・トラはソ連に拉致されてしまった。歴史は何が起こるか分からない。


【転】


 東トルキスタン共和国は自主的な解散を決議した。ソ連と中華民国、双方の大国の圧力に負けた格好だ。

 だがアフマドジャンは諦めてはいなかった。確かに東トルキスタン共和国の解散は後退だ。だがこれは最終的な真の独立のための必要な過程だ。助走をつけるために後ろに下っただけだ。

 新疆省連合政府が発足し、かつてスターリン政権のソ連に調停を要請した中華民国の将軍が主席になった。アフマドジャンは副主席に就任した。そして最初の武装蜂起の時にアリー・ハーン・トラと並ぶ指導者だった知識人の実力者アッバーソフが副秘書長になった。

 とはいえ、こんな中途半端な政府に満足するはずがない。連合政府は一年で崩壊し、アフマドジャンを含む旧東トルキスタン共和国の首脳はグルジャに戻った。イリ地区ならば、まだ実力で実効支配することができていた。

 デブ猫とアフマドジャンが再会したのは、ボロホロ山脈の一端にある布隆温泉だった。

「アフマドジャンさん、相変わらず直観は冴えていますか」

 お湯に浸かったデブ猫は、痩身が液面下に隠れているため本当に単なる太った猫に見えた。

「直観は間違っていません。だけどそのために相手に譲歩を強いられては面白くありませんね。グルジャ、アルタイ、タルバガダイの三地区の連携も途絶えがちになってしまいましたし。そうだ、あなた。まだ新聞編集を続けているのですよね。ならばアルタイに行って、そちらの情報を発信してくれませんか」

「それがアフマドジャンさんの直観ですか。だったら行ってもいいけど、アルタイってグルジャからどれくらい遠いんですか。さすがに馬に乗って行くわけにはいかないから自動車で」

「自動車でも相当時間がかかりますよ。それに、各地の治安が悪化していて途中で野盗に襲われる危険も高いと聞きます。行くのなら飛行機がいいでしょう」

 国共内戦が激化していて、国民党中華民国政府も辺境の地の事情にまでかまけていられなくなっていた。だからこそアフマドジャン達がイリ地区支配を継続できている一面もある。

「俺、飛行機なんて乗ったこと無いんですけど、大丈夫なんですかアレ」

「そりゃ戦争中は、日本の隼とかゼロ戦とかの攻撃を受けて撃墜される飛行機もあったでしょうけど、そもそも飛行機は攻撃されなければ普通は落ちませんよ」

「分かりました。行きますよ。俺、アルタイで良い出会いがあって結婚できるように思うんですよ。直感です」


【結】


 1949年になって、国共内戦は毛沢東が率いる共産党軍が勝利に向かって前進していた。国民党軍の方が圧倒的に優勢だったにもかかわらず、大逆転が起きた。歴史は何が起こるか分からない。

 となると、アフマドジャンたちイリ地区の独立勢力の交渉相手は、国民党から共産党に変わることになる。

 毛沢東からグルジャへ書簡が届いた。

『北京で政治協商会議を行うので、出席してほしい。諸君の多年来の奮闘は、わが全中国の人民民主革命運動の一部分である』

 この表現は、三区が中華民国国民党政府に対して闘ってきた革命運動に共感するものである。と同時に、共産党の革命運動の一部として取り込まれてしまうことでもある。

「気に入りませんな」

 と述べたのは元アルタイの指導者だったダリール・ハーンだった。

 しかし、ソ連の仲介があったため会議への出席を断るわけにもいかず、アフマドジャン、アッバーソフ、ダリール・ハーン、その数名の首脳で北京に赴くこととなった。

 しかし、ソ連領内シベリアを経由して北京に向かった飛行機がバイカル湖近くで墜落してしまった。乗っていた東トルキスタン首脳部は全員死亡してしまった。歴史は何が起こるか分からない。

 この状況だと当然何者かの陰謀が疑われるが、事故が起きたのがソ連領内で明確な証拠が残されておらず、公式記録はあくまでも事故ということになった。

 三カ月以上経って、新疆が共産党軍によって制圧され、ようやく事故が公式に発表された。アフマドジャンの死を知ったデブ猫は、新婚であるにもかかわらず激しく落ち込んだ。

「アフマドジャンさん、直観はどうなったんだよ」

 最後の時に限って頼みの綱の直観が働かなかったのか、あるいは、直観で怪しいことに気づいていても立場に縛られて避けることができなかったのか。そこまではデブ猫には分かりようもなかった。

 後年になってから、アフマドジャンの遺体がソ連から返還され、グルジャに墓が建てられた。それからデブ猫は一度だけ、アフマドジャンの墓参りのためにグルジャを訪れた。しかし、ウイグル語で金屋根の寺という意味の雅な名前を持つ歴史の街を、デブ猫はそれ以降二度と訪れることは無かった。

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