インテュイ
名取
IntuI
何をどう悩んだところで、結局は直観がいつも正しくて、それで僕たちは人生をずいぶん無駄にしてきたのだ。だからもう間違えたくない僕たちは、直観を信仰することにした。異教は要らない。理屈は要らない。この世の全ての誤りは、直観に背いたことから為る。もっともらしく聞こえる理屈に、心を殺して従ったことから為る。
——と、いうのは。
まあ、建前だ。経典を丸暗記しただけの。
僕がこのインテュイという宗教団体に入った本当の理由は、「自分の家よりもよく眠れるから」という、ただそれだけだった。細かいことを、ここの人たちは気にしない。僕が寝ていようが、起きていようが、生きていようが、死んでいようが、みんなニコニコと穏やかで、だから物事を少しだって考えたくない僕には、ここはとても居心地が良かった。会員の証として与えられる白いローブも、寝るときにふわふわの毛布代わりになって気持ちいいし、分厚い経典は枕にちょうどいい。約束や取り決めをしたわけでもないのに、僕専用のものとして空けられている窓際のダブルソファは、日当たりが良くてとろけそうに柔らかい。僕は学校が終わると、同級生には用事だと言い、親には部活だと言って、毎日のようにここに来る。
もう何も、考えたくない。
考えないで、寝ていたい。
それだけが叶うなら、場所なんてどこだって良かったのだ。けれど、このささやかな願いが許されるのは、方方探しても、結局ここだけだった。
「
今日も眠るため、僕は学校からインテュイの「広い部屋」へと帰る。拠点、アジト、総本山……呼び名はいろいろあるのだろうけれど、僕にとっては「部屋」が一番しっくりくる。
ソファのある「広い部屋」と、キッチンのある「狭い部屋」。そして細い通路を奥へ進んだ先にある「秘密の部屋」。
その三部屋で、インテュイはできている。
「眠るのは好きだよ。でも眠りすぎると、寝られなくなる。それだけは不便」
以前から時々見かける大学生のお兄さんが、今日は広い部屋に来ていた。全体的に優しげで、メガネをかけていて、たぶん結構いい大学に通っているのだろう。言葉選びや物腰からして、すごく頭が良いのが僕でもわかる。あまりに頭が良すぎるので、たまに言ってることがわからないのけれど、だからといってこっちを馬鹿にしたりは絶対しない。なので、悪い人ではない。
メガネのお兄さんは、僕の答えを聞いて、子供のようにふにゃりと笑う。
「深雪くんが眠っているのを見ると、なんだか穏やかな気持ちになるよ」
お兄さんの名前は知らない。聞く必要もないと思って、今まで聞いたことはない。僕はいつものようにローブにくるまり、ソファに丸まって眠った。一時間経って起きた時、お兄さんはいなくなっていたが、テーブルの上にアイスティーのグラスが置いてあって、その横にはメモがあった。「先に帰ります。お茶を余分に作ってしまったので、よかったら飲んでください」と書いてある。僕はゴクゴクとそれを飲む。寝た後はとても喉が乾くのだということを、いつだか彼に話した記憶があった。
グラスに結露した水の雫に、部屋の内装の青が映り込んで、海の色みたいに美しかった。
「夏休み、どこかに行かないか?」
家に帰ると、父が、そんなことを言った。玄関先でのことだった。
「いや、いいよ」
「いいよ、とはなんだ。せっかく誘っているんだから、少しは悩むそぶりくらい見せたらどうだ」
「いいよ、僕は。疲れるから」
だらだら靴を脱いでいた僕に、父が詰め寄ってきた。片足立ちだったので、案の定、よろけてこける。
「お前、何かの病気なのか? 元気がないじゃないか」
「いや、違うんだ。ただ、少し疲れてるだけ」
「ただ疲れてるって感じじゃないぞ。何か、深刻な悩みでもあるのか」
たとえ悩みがあったとしても、それについて考えるのが僕は本当に嫌だった。それに話しても、この感覚が理解されないことは、過去のことからすでにわかりきっている。
「そうだ、海はどうだ? お前、好きだったろう。気分も晴れると思うぞ」
「……」
僕は笑った。答えるのに疲れた。この雑然とした笑顔を見て、向こうで適当に肯定か否定かを判断してくれたらと思った。それでも父は、答えを求めた。言質を求めた。面倒くさくなって、「いいよ」と言う。全然良くはなかったけど。
翌日、土曜だったので海に行った。
そして月曜の夕方には、僕はいつものソファで、いつもより深く、長めに眠った。土曜の記憶を、眠りによって、意識の底に
目を開けたとき、やっぱり時間はいつもより遅い時刻になっていて、でもそんなことを考えるのすら億劫な気分だった。窓の向こう側は暗く、とうに門限を過ぎていることだけはわかった。
喉が乾いたな、とぼんやり考えていると、聴き慣れないドタドタという足音が近づいてくる。部屋のドアが開いて、現れたのは、慌てた様子の父親だった。
「ああ、よかった。こんなところにいたのか」
驚くことさえ、面倒に感じた。
「さあ帰ろう、深雪。早く」
僕は全然動けなかった。このソファから一度離れたら、もう二度と戻れないと思った。父がこちらを睨む。僕は反射的に目を逸らす。その途端、父は突然叫び出し、僕の腕を力任せに掴んだ。
「いい加減にしろ! ここの連中は狂ってる。お前はこんなところにいるべきじゃない!」
痛みに思わず歯を食いしばる。騒ぎを聞きつけてか、大勢の信者たちが広い部屋に集まってくる。突然の来客に狼狽えて、呆然とする白いローブの人々に、父は懐から大きな包丁を取り出して振り回した。穏やかな信者たちはさらに怯えて、あとずさる。その中には、あの大学生のお兄さんもいた。
「俺の息子がいつもあんなに疲弊しきってるのは、お前らのせいだ! お前らが、怪しい薬を飲ませたり、気色の悪い儀式に巻き込んだせいだ。ふざけやがって。こんな……こんなことが許されてたまるか!」
誰かが助けを呼んだのか、やがて青いローブを着た、とても落ち着いた様子の男が現れた。祖師様。開祖様。信者たちの囁きが聞こえる。
「どうか、刃物を下ろしてください。皆が怯えています」
「黙れ。俺の息子を返してもらう」
「彼が帰るかどうかは、彼自身が決めること。あなたの所有物ではないのですから」
父は猛虎の如く突進した。上がる悲鳴。肉の千切れる音。海色のローブの脇腹から、赤い液体がぱたぱたと落ちる。父はおぼつかない足取りで数歩下がる。教祖はそれでも微笑みを絶やさなかった。ぐっと堪えて息を整え、刺さった包丁を迷いなく引き抜くと、刃先を愛おしむようにゆっくり撫でる。生温かな血の滴る指で。
「直観は、たとえどんな形であれ、神からの賜り物だということです。母なる自然が、雷や地震を与えると同時に、太陽の恵みや風の心地よさを与えるのと同じこと。善悪、陰陽。すべて表裏一体なのですよ」
取り囲んでいた信者たちの数人が、父の頭に袋をかぶせた。暴れる体を押さえつけ、手足を縛る。こちらに助けを求めて足掻く父を、じっと見る。日本語の『直観』は、仏教用語の直観智に由来する言葉である。そんな一節を、僕はなぜか今になって思い出す。なんとなく読んだ経典には、難しいことばかり書かれていた。
拘束した父を四人がかりで抱え、皆で広い部屋を出る。
青ローブの祖師が先頭となって、細い通路を歩いていく間中ずっと、父はもごもごと何か叫び続けていた。僕の名前と、あとはよくわからない涙声。僕はじっと息を殺し、静かに歩く。
「直心をもって観る時に、人は苦から厭い離れる」
そんな文句を唱えてから、祖師は秘密の部屋を開け、父をそこへ入れた。中は真っ暗だったけれど、通路の明かりに照らされて、ほんの少しだけ中が見える。2メートルくらいの長細い箱のようなものが、ずらりとたくさん並んでいる。父はひときわ激しく暴れた。祖師は「外から鍵をかけてください。私は彼とお話をする必要がありますので」と言い、僕の手に鍵を握らせて、数人の信者を連れ中に入る。
バタン。
大きな音を立ててドアが閉まり、やがて、内側から激しく扉を叩かれる。僕はとっさにドアに体重をかけて押さえつける。周りの信者も手伝ってくれた。赤子のように咽び泣く声がドアの向こうから聞こえる。だん、だん、だん。体全体でタックルしてくる。僕たちはさらに強くドアを押さえつけた。
「……知らないだろうけどね。僕も頑張ってたよ」
震えの止まらない指で、もらった鍵を鍵穴に差し込みながら、僕はドアの向こう側に語りかける。咽び泣く声は止まない。いつもとまるで同じこと。鍵穴に鍵が吸い込まれる。
「頑張って、わかろうとしたんだよ。父さんのこと。全部優しさだと思おうとした。疲れた。もう疲れた。でも父さんなら、わかってくれるよね。ごめんね」
ブツリ。
鍵を回したその瞬間、声は突然聞こえなくなり、僕たちはようやくドアから体を離す。大学生のお兄さんが、励ますように僕の肩を叩いた。「ごめんなさい」と呟くと、信者たちは僕を包み込む。
「直観を信じなさい」
誰かがあたたかくそう言った。
「そうすればきっと、全てがわかるから」
インテュイ 名取 @sweepblack3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます