【KAC20213】混合文芸論特論①~直観による創作

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

文章作成における直観

 文章を書くにあたって、直観的に表現や技法を選ぶ瞬間というのは往々にしてあるものである。

 混合文芸概論という創作論を書いているため、理論的な執筆をしているのではないかと言われそうなものであるが、執筆段階で理を詰める割合は高くはない。

 正しくは、全ての文章は書いた瞬間には直観の賜物でしかなく、そこから推敲を経て初めて論理的な存在になる。


 ここで、直観の本文中での意味を定義する。

 本来は哲学や数的論理上などの俎上による意味の差があるのであるが、その全てに触れていては冗長を防ぐことはできない。

 故に、ここでは直観を「過去の経験により生じた、即時的で論理的な表現」とする。

 なお、直感との差が付きにくいので、そちらを「感覚により生じた、論理を排した表現」と定義する。

 大きな差がないようにも見えるが、その実際は過去の経験に左右されるという点において直観は直感と大きく異なる。

 つまり、直感はその人の持つ天性の才能であるのに対し、直観はその人の鍛錬の賜物であり論理的に技術の向上を見込めるということである。

 残念ながら我々の多くは天才などではなく、故に我々は直観を鍛えていく方がより良い作品作りにおいて近道となる。


 では、この直観をどのようにして鍛えていくべきかを内容ごとに触れていくこととする。



①文章構成

 ここで本来の文章構成は、あくまでも「混合文芸論」としての文章構成である。

 そのため、序破急や起承転結などの形態については触れないことを予め断っておく。

 さて、この「混合文芸論」上の文章構成についてであるが、単純化するために拙著「徒然なるままに」を用いて話を進めていく。

 本作は基本的に、エッセイの途中で短歌または俳句を挿入する形式をとっており、その数と場所については大きな決まりを設けていない。

 おおよそは私の感動の中心に合わせて挿入するため、各話の最後に挿入することが多いが、時としてその位置をずらそうとしたり感動の中心とは別の内容を差し込んだりすることがある。

 例えば、先日上梓した「徒然なるままに~草青~陸奥・江戸の旅」の第七段においては、感動の中心と対になるものを並べることで、その瞬間の想いを強調した。

 正しくは、本話は初めに短歌ありきで描いたものであり、そこから直観的にスカイツリーと酒屋の店主の江戸訛りとを対比させることを思いついた。

 元々は別に覚えた感慨であったものを掛け合わせることにしたのであるが、時系列はさておき、文章構成は初めから次の形にしようと決めていた。


Ⅰ現代文明によって築かれた造形物

Ⅱ店主の話

Ⅲ「和を成せし 時代は過ぎて スカイツリー しょうもねぇやと れいをして去る」の短歌の挿入

Ⅳコンビニに立ち寄った時の話


 単純に文章の最後に挿入するという形式であれば、ⅢとⅣが逆になるのであるが、推敲の際にも直観を重視してそのままの形式に据え置いた。

 こうした文章構成の直観を鍛える上で重要となるのは、何よりも推敲と添削である。

 特に添削においては、自分では思いもよらなかった大胆な変化を期待することができ、その理由を確かめることで自分の中には存在しなかった構成を手にすることができる。

 それが叶わぬ場合でも、推敲において浮き立った形式の文章を変えてみることで確かめることが可能である。

 特に、現代のように電子データで作成する場合には、コピーを利用することで容易に試すことができ、複数準備をして比較をしながらなぜそこに挿入するべきかの理由付けが可能になる。

 理由付けがされるということは、自分の中に理論が一つ詰みあがるということであり、それによって得られた理論は頭に残され次の創作においては直観の元の一つとなる。

 ただし、この推敲や添削で比較をする際に気がけておきたいことは音読をするということである。

 朗読ではないため大きな声を出す必要はないが、黙読ではなく音読することで外部から音声として入ってくるため主観性を弱め論理性を強化することに繋がる。

 実際に例示した話では、挿入場所を変えながらの音読を試しており、その際の収まりの良さから現在の形に落ち着いている。

 文章の初めに置いたのではそれまでの雰囲気を断ち切る形となるためあまりに読者が置いてけぼりとなってしまい、ⅠとⅡの間では「れいをして去る」の感慨が弱くなってしまう。

 また、最後に置いたのでは文章が完結した印象を薄めてしまうと同時に、余韻の寂しさが損なわれてしまう。

 Ⅱの真中に挿入することも試みてみたが、江戸訛りの気風の良さを五七調が殺してしまう形となるため、これも無しとした。


 なお、この吟味を経た別の作品では、話の最初に短歌を持ってくることにより場面の大きな転換を印象付ける、という形式も直観的に用いている。



②表現技法・言葉

 文章を書く上で最も直観によるところが大きいのは、言葉の選択と表現方法である。

 特に、最初に出てくる言葉は場面に応じた直観そのものであり、故に出てくるまでに時間がかかることも多い。

 一方で、それがその場面を推敲していく上での礎となり、大幅な添削を受けぬ限りはその呪縛から離れることはできない。

 そのため言葉遣いや表現技法こそ直観を鍛える必要があるのだが、その最も単純で手軽な方法は音読である。

 一度自分で用いた言葉や表現は蓄積されやすいため、これを重ねていくことで自分のものにすることができる。

 ただ、それよりも効率的な手法としては書写であり、さらに習作の中で少しだけ形を変えて挿入してみることでより手早く身に着けることができる。

 例えば、拙著「文輪帝国興亡の歩み」は塩野七海氏の「ローマ人の物語」の語り口や表現方法を真似することで新たな表し方が得られぬか試してみた作品である。

 この習作を書くことで得られる経験値というのは、他の手法とは異なり自分なりにその使用を論理立てたということが非常に大きな価値を持つ。

 直観的な使用に至るにはそれまでの理論の集積が必要だが、その集積には理論の吸収だけではなく理論の使用が含まれる。

 拙著「辻杜先生の奴隷日記」も旧作が習作であったため、書き改めている公開中の作品でも様々な表現を試みに用いている。

 「苦しみの始まり」の第十四話「知恵の塔」での表現は知性の喪失を言葉遣いの幼児退行により表現するという技法を試用したものである。


「階段を踏みしめるたびに、身体に異物が侵入する。それを必死で受け入れる。精神がおかされてゆくような気がする。子どもが笑っているようなきがする。ふわふわとくもがながれてゆくようなきがする。どきん。ばたん。ぱふっ。とろり」


 引用した部分では、初めに漢字の使用を減らし、次いで用いる言葉を平易にし、最後は擬声語にすることで知性の喪失を描いている。

 この時に得た知見として、同様の方法もしくはそれを逆に用いることで、見ていくものや考えるものの視点を変換させられるというものがあった。

 それを直観的に使用したのがKAC20211にて上梓した「おうちですごそう」であり、最後の場面で擬声語を省き、漢字による表記を増やすことでSFとしての体裁を何とか整えられたと考えている。

 習うより慣れろではないが、実際に気に入った表現や言葉があれば自作の中で用いることをお勧めしたい。


 なお、この苛烈な例として故池波氏が述べていたのは、「毎日ショーに出かけ、そのステージを異なる表現や言葉を用いて表していく」というものであったことを追記しておく。



③人物作成

 ここから先は混合文芸論としては話が逸れるものであり、また、執筆する人によってやり方が異なるために絶対的なものではないことを予め断っておく。

 物語を書く際に人物を作成することになるが、私の場合にはその人物が自然に動き出すようになるまで想像できる状態にできなければ上手く書き進めることができない。

 これを憑依ひょうい状態と呼称しているが、このような状態で出てくる人物の言動は直観によるところが大きい。

 それというのも、それまでにあったことがないような人物を上手く描くことができぬからであり、故に、人物を作成する上で人物像の蓄積が非常に重要となってくる。

 そこで人物像の蓄積を行っていくことになるのだが、その手法としては人間観察が第一に来る。

 ただし、そこで重要になるのは単にその人物がどのような人間でどういった行動をとるのかということではなく、その背景に何があるのかを推論もしくは確認することで理論づけすることである。

 とはいえ、これを現実のみで行おうとすれば幅広く人を知る必要が出てくるため、現実的にはここに創作物中の人物を加えることとなる。

 この時に効果的であるのは映画であり、より限られた時間の中でその人物像を描き出すように工夫されているためそこに出てくる人物を論理的に分解するとよい。

 なお、その様子を自分なりの変化を加えつつ文章化することでその効果は最大となる。

 美術品の模写のように先述した理論の吸収と使用ができる手法であるのだが、その分だけ労力が大きいためあくまでも参考に留めておきたい。



 以上のように創作において直観を鍛える手法を紹介してきたが、必ずしもこれに限るものではない。

 ただし、いずれの手法においても実作による経験値を積むことは非常に重要であり、それによってより多くの理論を蓄積することができる。

 どうしても理論化と言うと分析ばかりに力を入れがちになってしまうが、直観で用いる上では過去の経験が必要になる。

 下手な時期や上手くいかない時期があるのは仕方がないものであり、それもまたこの経験に含まれる。

 もし、文章を書く上で上手く書き進められぬと悩まれているようであれば、思い切ってそれを書き上げて見られてはいかがだろうか。

 いずれ、それが直観となり、より自分の書きたい作品に繋がること請け合いである。









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