『あぜ道のエウアンゲリオン』

龍宝

「あぜ道のエウアンゲリオン」




 横から、いきなり衝撃を受けた。


 青空。


 遠くに、真白い雲が見える。


 次の瞬間、狗巻いぬまき夏子なつこは自分の身体が宙を舞っているのだと理解した。




いった……!」




 どさり、と背中から畦道あぜみちに落ちた。


 僅かに遅れて、すぐ隣にもう一人の少女が落着してくる。




「受け身――‼」


「倒れ込んでから叩いても意味ないやけ」


「うっさい! ナツの運転荒いんやら、こんなっとるね!」




 立ち上がって声を上げたのは、三坂舞子だ。


 サイドアップの髪がトレードマークな、夏子の幼馴染である。




「あほか。あたしのせいちゃう」




 夏子は、腕についた砂を払いながら、畦道の端に眼を遣った。


 つられて、舞子もそちらに顔を向ける。


 鼻息。


 たった今まで自分たちが乗っていた原動機付自転車よりも、一回りは大きいのではないかと思うほどの、堂々たるイノシシである。


 山刀のような薄汚れた牙に、後ろで舞子が息を呑んだのが分かった。


 夏子も、こっそりと落ちていた大きめの石を握り込んでいる。


 睨み合いは、束の間のことだった。


 見逃してやる、とばかりに鼻を鳴らしたイノシシが、二人から顔を背けて走り去っていった。




「ありゃ、西の山に居るっちゅう山のぬしやぜ、ナツ」


「うわさ話ちゃうかったんか」


「あんなんに体当たり食らって、よん生き残ったや、うちら」


「ほんまやけ」




 安堵の息を吐いてから、夏子はイノシシが居たのとは反対側の端に近寄っていった。




「あー、こりゃあかん。前輪がぶん曲がっとる。兄ちゃんのやのに」


「うそやん?」




 田んぼの中に滑落している原付を確かめて、夏子は頭を振った。


 せめてもの幸運は、互いに荷物は背負っていたということぐらいだろうか。


 泥だらけになった鞄を前に途方に暮れている自分たち、というのは、あまりに情けなさ過ぎる。




「どーするね、ナツ?」


「これは、ここに捨てていく。引き上げても、どうせ乗れん」


「ほんな、出直すん?」




 水筒をあおっていた舞子が、後ろを振り返った。


 見渡すばかりの田園風景だが、一時間ほど歩けば、自分たちの町が見えてくるはずだ。




「……いや、このまま行く」


「はあ? ――アホなん?」


「マイは、好きにせェ。どこも怪我してへんやろ?」


「いやいや! こんなとこにってかれて、そりゃないやけ! 絶対二十分くらい歩いたら、うち泣いてまう!」


「運が良かったら、山田んとこのおっちゃんが軽トラで通り掛かるやもしれんね」




 腕にしがみ付いてきた舞子をそのままに、夏子は歩き出した。




「落着きや、ナツ! 大体、行くってどうやって⁉」


「烈風号が大破したんやけ、走ってくしかない」


「正気⁉ 香織の住んどった町まで、何十キロあると思ってるん……⁉ あと名前だっさ!」


「せいぜい、山が二つ三つ――四つ五つあるだけやけ。香織に会いに行くまで、帰らん。はなから、そういう話やったはず」


「そりゃ、うちもそのつもりで付いてきたけど、この真夏日に誰が走っていくと思う⁉ 熱中症で倒れてまうって!」




 ぎゃんぎゃんとわめく舞子に向き直る。


 生まれてこの方、十四年の付き合いになるが、舞子は肝心な時にへたれて思い切りのよくないところがある。


 時々じれったくも思うが、夏子はそういった舞子の性格が嫌いではなかった。


 それはそれで、果断であり無謀と評されがちな夏子と二人合わせて、具合がいいともいえた。


 今回ばかりは、圧倒的に舞子の方が正しいのだが――。




「あたしは、何が何でも、香織のやつに会いに行かなあかん」


「うちだって――あの娘は、大事な友達や。ナツ以外に、初めてできた友達やけ。うちだって、会えるもんなら、すぐに会いたい」




 夏子の低い声に、舞子の説得にも真剣みが出た。


 我が半身のような、幼馴染である。


 夏子がただの意地や思い付きで、こんな無茶を通そうとしているわけではないと気付いているのだろう。




「ナツ」


「……あいつは、都会でいじめられたから、この町に逃げてきた」




 譲る気のない舞子の声に、夏子も観念して口を開いた。




「表向きは、療養やら何やら言うとったけど――とにかく、あいつは逃げてきたんや。こんなくそ田舎に」


「……うん。あん時はびっくりした。都会のもんに会うんも初めてやったし……町の人間と違い過ぎて、外人でも来たんちゃうかって」


「ほんで、案の定あいつは浮きまくっとった。当然や。ここやって、余所者にはきちがいみたいに辛く当たりよる」


「――何が言いたいん、ナツ?」




 はぐらかしている、と思われただろうか。


 夏子は、疑いの眼を向けてくる舞子に、いささか慌てて続けた。




「同じみ出し者どうし、あたしらだけが、あいつの友達になれた。あいつだけが、あたしらのことを受け入れてくれた。それやのに――」


「ナツ?」


「今思えば、あいつなりのサインやったんやけ」


「……サイン? なんの話?」


「あいつが、またこの町を出ていくって、都会に戻るってなって……引っ越しの前の夜や。マイが買い出しに行ってる間に、あいつと話した」




 一週間前のことだった。


 舞子が席を外してからしばらくして、香織――斎藤香織――が、どこかわざとらしく、夏子に切り出したのだ。




「『この町を離れても、私たちなら、きっとまたいつでも会えるよね?』なんて、震えながら言いよった。あの時は気付かんかったけど、震えとったんや。……それやのに、あたしは――へらへら笑って、『電車も通ってへん田舎と都会や、いつでもは無理やぜ』やと。あたしは、あいつが必死に伸ばしてくれた手を、取らんかったんや」




 握り込んでいた拳に、夏子は一層強く力を込めた。




「やから、会いに行く。あたしらは、いつだって一緒やけ。あいつが参ってるってんなら、どんなことしてでも駆けつけてやらんと」




 顔を上げて、舞子を見据える。


 自分がこれから何を言うか、分かっている顔だ。


 まっすぐに見返してくる舞子に、夏子はふとそう思った。






「あたしは、どうしようもないあほや。……いつだって会いに行けるんや。たとえ、走ってでも。――行って、あいつは一人になんかなっとらんのやって、眼の前で証明してやらんとあかん」






 この程度の障害。


 原付が大破したと分かった時、夏子が思ったのはそれだけだった。


 足がもげても、行かねばならない。


 たった一人、見知らぬ土地で頑張っている香織を思えば、何故か行けそうな気もしていた。




「……分かった。ほんな、うちも一言」




 ややあってから、腕を組んだ舞子が言った。




「うちは、ナツの姉貴分やけ。――妹分のケツは、うちがいたらんとね」


「ほんな!」


「うちも行く! 行かいでか!」




 笑みを浮かべて頷いた舞子に、夏子は身体中に力の充足するのを感じた。


 やはり、自分たちはこうでなくては。




「韋駄天マイちゃん、舐めたらあかんね」


「ははァ、体力ならあたしの方があるやけ」


「はい、うそー! 去年のマラソン大会うちの方が余裕やったし!」


「あれは、途中から香織が掴まってきたからやけ! 最後なんて、あたしがほとんど背負ってたし!」


「まァ、今日はナツがへばったらうちが肩貸したるや」


「要らん世話やぜ。……あと、何が姉貴分や。あたしの方が早生まれやけ」


「うちの方が、数えで十五や!」


「あたしもそうやけど⁉」




 ごまかすように笑って、舞子が走り出した。


 夏子も、鞄を背負いなおしてから、その後を追う。


 夏の風が、二人を追い越していった。









 昼過ぎの駅前に、ぼろぼろの格好をした中学生の二人組がいた。


 膝が笑って、今にも倒れ込みそうな、夏子と舞子である。




「つ、着いた……!」


「うち、今まったく眠くないし、しんどくないんやけど、これ大丈夫なやつ? どっかおかしくなってない?」


「分からん……夢かも……」




 道行く学生やサラリーマンたちが、二人を不審な眼で見てくる。


 交番の近くだったら、声を掛けられていたかもしれない。




「――な、夏子ちゃん⁉ それに、舞子ちゃんも……⁉」




 そろそろ香織の家を探しに移動しようかと思っていたところへ、聞き覚えのある声が掛かった。




「おー、香織や……」


「えっ本物?」


「なんでここに……⁉ どうやって来たの⁉」


「走って」


「走って⁉」




 駆け寄ってきた香織から漂ってきた柔軟剤の匂いに、この三日、風呂どころか着替えすらしていない自分たちがどんな状態か一瞬だけ考えを巡らせて、すぐにやめた。




「なんでそんな無茶を……⁉」


「香織」


「あァ、どうしよ……とにかくタクシー呼んで――」


「――香織。……離れたって、いつでも会える。あたしらが、いつだって駆けつける。こんな風に。やから、もう何も心配ない」


「――ッ! 夏子ちゃん……‼」




 飛び込んできた香織を受け止め――られずにへたり込んで、夏子は抱きしめ返した。



「あほ、汚れるやけ」


「夏子ちゃん! ありがとう……! 私、ずっと――」


「香織……済まん。遅なったな」




 胸に頭を押し付けてくる香織を、夏子と舞子はひたすら撫でてやった。




「――あれ? 斎藤さん?」




 どれくらいそうしていたのか、つと、手前から声がした。


 同い年くらいだろう、学生の一団がこちらを見ている。


 制服が、香織のものと同じだった。




「その人たちはお友達? ずいぶん――汚れてるけど」




 見下したような眼が、かんに障った。


 香織を追いつめていたのは、この連中に違いない。


 夏子は、直感に従って、勢いよく立ち上がった。


 隣では、舞子が同じく香織の手を握って立っている。




「お前ら――っと?」


「香織?」




 庇おうとした二人を遮って、香織が大声で言った。




「――えェ。私の、最高のお友達です……!」




 涙を残した満面の笑みの香織と、拍子抜けといった感じの学生たち。


 この顔が見られただけで、会いに来た甲斐があった。


 そう思って舞子に笑いかけた夏子の頭には、借り物の原付のことなどまったく残っていなかった。




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『あぜ道のエウアンゲリオン』 龍宝 @longbao

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