ピクトさんのように

砂田計々

ピクトさんのように非情に

 非常口マークのピクトさんの後ろ姿が、辞めてしまった池長さんに重なってしまう。


 昨晩、職場のグループラインから池長さんが退出した。あまりに突然のことだったので、なんとなく直接本人に連絡を取って確認することができなくて、今日、店につくなり事務所の机に伏せている店長を起こして問いただした。

 すると池長さんは先週いっぱいで辞めてしまっていて、とにかく急だったのでみんなには連絡ができなかった、と店長もショックを受けているようだった。

 

 池長さんは一年ほど前に入ってきた。独身で私より一回り若いフリーターで、朝晩シフトの入れる貴重な人員として活躍していた。あまり社交的ではなかったけれど、仕事はしっかりとこなし、年数が長いだけの学生バイトよりもよほど戦力になったから先輩からも後輩からも慕われていた。職場だけの仲だったけど、私もそれなりに関係を築けていたと思っていた。だから、辞めることについて事前になにも言ってくれなかったことがまだ信じられないし、とにかく寂しくてしかたがない。

 もう次の仕事は決まっているらしいと店長が肩を落として言って、私も上の空で持ち場についた。


 1番レジの前の通路にぶら下がる非常口マークの、どこか気の抜けたポーズで走るピクトさんは、頭部は完全な〇形をしていて、緑色で、特徴のない無性別な外見なのに、どうしても池長さんを思わせるところがあって、しばらく呆然と眺めてしまった。


 私も、転職しようと思うことはこれまで幾度となくあった。今でも、どこかでいい話があればそうしたいと思っている。でも、だからといって何か行動に移したかというと、そんなことは一度もなかった。このままで良いと思っているわけではない。毎日の繰り返しに嫌気がさしているにもかかわらず、行動に移せない理由が自分でもよく理解できないのだ。

 十五年以上ここで、同じ職場で働き続けて、今年で四十になる。

 正社員採用の求人を見てみることはあったけれど、実際に応募してみるとか、転職サイトに登録だけでもしておこうとか、そんなことすらもしてこなかった。

 婚活を考えたこともあった。それが始める時期を窺っている間は「まだ急ぐほどでもない」と結論付けてしまい、いつも先送りにしてしまうのだった。いつの間に機を逸したのか、そのことに気付いたときにはもう、出会いの場に出向くことにも今更感があり、再び楽観とも諦念ともつかない状態に落ち着き始めた。

 パートタイマーとしてはいつの間にか一番の古株で、店長が年下だというのにも驚いた。

 数えきれないほどの退職者を見送ってきたけれど、何度経験してもこればかりは慣れなかった。直接に告げられるにしても、間接的に知るにしても、人が去っていくことにどうしても慣れることができない。その度に、気持ちは一度どん底まで落ちてしまう。


 私はどうしてここにいるのだろう。やりたかったことでは決してないはずなのに。求人情報に応募したことが、今ここにいる決定的なきっかけであることは間違いない。けどそれが何だというのか。そんなことで、こんなに重要なことが簡単に決まってしまってよいのか。そして、それがなぜ本屋でなければならなかったのか。隣のパン屋ではいけなかったのか。レジ打ち以外にも、たくさん仕事はあったはずだ。私はそれらをどうして見逃したのか。学生時代に必死にしたテスト勉強はなんだったのか。数学の公式や歴史の年号が今の生活とどう関係しているのか。これはもう宿命なのか。振り返って、解答用紙に〇がついても×がついても、私は結局ここにいることになったと思うと、その途轍もない馬鹿馬鹿しさに絶望してしまう。


 ちょっとしたピーク時間を過ぎて、レジも落ち着くと、気分は簡単にどん底まで落ちていた。それでも私は断続的にやってくるお客さんを無意識に造作もなくさばいている自信があった。


 更衣室に置かれた休憩用のせまい机にコンビニ弁当を広げた。あまりにも形成され過ぎただし巻き卵をお箸でふたつに割って食べ、私はもう一度グループラインを開いて、〈池長晴美がグループを退会しました。〉という文章を目に焼き付けた。とても冷たい一文だった。冷たくて、強かな意思が満ちていて、どうしても池長さんのイメージとは結びつかなかった。私は池長さんをそれほど知らなかったのかもしれないとも思った。自分から去っていく人はいつも強かったから。


 休憩から戻ると、店長が電話対応で苦戦しているようだった。

 赤を通り越して黒っぽく変色した耳に受話器を押し当てて、謝罪の言葉を繰り返している。机に額が着くくらい何度も頭を下げていた。ドアのところに立つ私の耳にも届くほど、強い語気が受話器から漏れ聞こえていて、カードの返却ミスがあったと理解できた。そして、その担当が私であることもわかった。

 カードの返却ミスはこれが初めてのことではなかった。過去に私がまだ不慣れだったときのこと。その時は前の店長で、気づいた店長があとを追いかけ、なんとか返却することができた。今回はこちらが動く前に、クレームが入ってしまった。


 預かったカードは決済が完了したら真っ先に返却するように言われていたし、実際そうするようにしていたのに。午前中、よりによって新人指導にあたっている最中に私自身がミスするなんて。新人の飯田さんがレジ側のタッチパネルで「クレジット払い」を選択せずに「現金払い」のまま確定してしまって、クレジット端末を操作していた私がそっちに気を取られたのが原因とも言えるけど、そんなことは言い訳でしかなく、クレジットカード処理が初めての飯田さんは何も悪くないし、全部私の注意力の問題だ。

 結局、この件は店長が本日中にお客様の自宅までカードを届けるということで決着した。


 私は店長に頭を下げてお願いした。

 気にしなくていいですよ、と店長は言ってくれた。

 でもどうしてもふとした折に過ぎってしまい、そのあとのレジではどのお客さんにも申し訳ない気持ちでカードやレシートやおつりを手渡した。ひたひたの濡れ雑巾が丸めたまま干してあるみたいに、この日はいつまでもウジウジとして、最後まで晴れてはくれなかった。それもこれも自業自得ではあるのだけど。


 夕方の学生アルバイトがぞくぞくと現れ、私は逃げるようにレジカウンターを出た。

 タイムカードを押したときにふと、店長のPCの傍らにたまたま置いてあった池長さんの名札が目について唐突に、激しい寄る辺なさが押し寄せてきた。


 ――きっかけさえあれば。私は思った。

 きっかけさえあれば、いつか私も池長さんのように逃げ出せるだろうか。冷たく強かに、忽然とただ次の世界に向かって。何も恐れず、残されるほかの誰に構うことなく。安心感と焦燥感で身動きが取れなくなってしまうこんな場所から。


 その場に立ち尽くしていることにも吐き気がして事務所を飛び出し、慌てて通用口を抜けようとすると、ふいな緑色の乾いた光を視界に捉えてしまいまた動けなくなってしまう。

 暗闇から光の方へ駆けていく非常口のピクトグラムは冷酷、非情で、思わず見とれてしまい、私はその先へどうしても行ってみたくて仕方がなかった。

 




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