姉は一回もレギュラーになれなかった

猿川西瓜

お題 走る


 病院のベッドで寝ていたはずなのに、私は走っていた。

 バカ弟の顔がはっきりと思い出せないでいた。

 母は、大丈夫大丈夫といって、頭を撫でてくれていた。

 その記憶を最後に、私は走っていた。




 走るときに、走る。

 走っている時に、走ることを考える。


 階段の前では脚は慎重に。

 下り坂は激しく。汗をおさえるように風を浴びる。呼吸を落ち着けて。


 グラウンドには、巻かれた水の痕跡。髪を濡らして欲しい。

 私は、走りたいわけじゃない。

 走るしかなかったから。

 吐く息にリズムをつける。つけた理由は、お腹の深いところのせい。走らせまいとする、内臓からの甘い誘惑だった。

 頭の中に、麻酔代わりの思い出を注入する。

 その思い出も、自分が走り続けている姿だった。

 スパイクの踵からつま先までを意識下に入れて、乾燥したグラウンドを掘り起こすように蹴る。土は、空に舞う。


 前に……前に進まなきゃいけない。


 息を止める。

 痺れがだんだんとその範囲を広げる。

 私の二本の足は、それでもまだ動き続けるのだった。

 走りながら、お腹を撫でる。まつ毛の上を、髪が左右に揺れているのが視界に入る。

 空気が重い透明のようにつきまとう。

 腕を空に伸ばす。汗が垂れてくる。

 口の端にやってきた一滴をそっと舐める。

 舌先の小さな震え。


 白線はどこにもない。

 ゴールがない。

 そもそも、どこからスタートしたのだろう。


 どこからだろう?




 喉が渇いてくる。汗を嘗めても潤わない。

 喉。喉の強い渇き。

 空気を何度も飲む。唾を飲み込む。

 足を動かしながら、長いホースが伸びた銀色の蛇口を見つけた。

 ハンドルをひねると、ホースの先から、透明な煌めくものが飛び出し、地面を濃く染めていく。

 私は走る速度を極限まで緩めて、水道蛇口のまわりをぐるぐる回った。

 身をかがめてホースを手に取って、それを顔にかけた。

 懐かしいほどの水の味だった。

 大きな食べ物みたいに、お腹に中に入っていく。

 身体の熱があがった。内臓は心地よく冷やされていく。

 水流が地面を叩くその音が、足から頭のてっぺんにまで響く。

 私は自然と目を閉じていた。


 思い出。

 誰かが、ベッドの上の私の目を、そっと指で閉じていく。

 眠たい。

 眠っているのに、眠たい。

 すすり泣く声が聞こえる。

 遠いようで近かった。

 身体に浴びているこの水と共に、走るのをやめて眠りたい。


 けれど、けれど。


 眠らないでいたい。

 走り続けたい。

 走らなきゃいけない。

 死んでしまうから。


 私は、ホースを放って、また走り出した。

 水は、綺麗な弧を描き、大きな虹を作った。





 とてもぼやけた視界の隅に、誰かが私に向かって手を振っている。

 私のことを呼んでいる気がする。

 土を蹴る音と、呼吸で、あまりうまく聴こえない。

 足に少しずつブレーキをかける。


 ……きたわ……。


 …で…きたわ……。


 できたわよ、ご飯。


 私は母に、手を振り返す。

 今日こそ、学校に行く日、だったっけ。

 手で、膝を抑えようとする。

 足はなかなか止まってくれない。

 どうか、どうか。

 学校に遅れてしまうから、足が止まって欲しい。

 足が燃えているようだった。

 触れないくらいの熱を帯びていた。

 ポケットに入れていたカミソリを取り出す。

 太ももに、そっとあてがった。傷らだけの足の、綺麗なところを探して、カミソリを捻じって横に滑らせる。

 足が竦む心地よさ。

 それから骨にまで届く痛み。

 熱がひいていく。

 足がふわふわしてきて、つまづく。

 転ぶとき、グラウンドがクッションのように私を包んでくれる。

 地面に、血が落ちていた。

 想像よりも遥かに地面は硬くて、膝が擦り剝けたなと、思った。

 小走りでやってくる母。

 転がるカミソリ。

 灼熱の太もも。血で燃えている。

 でも、まずは膝を洗いたかった。



 母の弁当を食べる。

 卵焼きも、豚肉も、海苔ご飯も、どれも醤油で甘辛い。

 口が乾いて、うまく咀嚼できない。

 懐かしい味に、ご飯と一緒に口の端から涙が落ちていく。

 母が私の腕に注射をする。

 足の痛みが引いていく。

 全身が弛緩して、眠りが訪れる。

 眠っている間に、死んでしまうのだろうか。

 母は、私のそばに座り直して、大丈夫だからと言った。

 もう大丈夫だから、と。


 夢の中で、走ればいいのだから。

 私は、頭を母の膝に置いて、眠りについた。




 走る。

 私は走る。

 私は呼吸して、走ることに集中する。

 塩素の匂いが漂うプールサイドを。

 夏祭りを準備する神社の境内を。

 テトラポットにそって海岸線の果てまで続く堤防の上を。

 止まったら死んでしまうから、と、誰かの囁きが聴こえる。

 私も走りながら同じことをつぶやいた。


 いつから、走り始めたのか。ただ、走っていた。

 走るだけ走っていた。走って、走って、死んでいく。

 誰かが私の後ろを笑いながら追いかけてくる。

 私も笑いながら、走って逃げる。

 だんだんとスピードをあげて、いつのまにか全力になっている。

 天気が、とても眩しい一日だった。




 それから、ゆったりと雨が降る。

 肩が濡れて、冷えていく。

 また、お腹が痛くなる。

 痛みは柔らかく、そして治らない。

 私は一人で笑う。


 景色は青味を濃くしていく。

 吐く息が白い。

 速度をゆっくりにして、左腕に注射を打つと、意識が途切れ、浅い眠りがやってくる。

 雨。

 雨が降る。

 スパイクが重くなる。

 昨日も雨だった。

 昨日のことだったっけ。

 お腹が空いてくる。

 母の姿を探した。


 夜が過ぎ、朝が来る。

 昼はすぐに夕方になる。


 走り続ける。歩きたくなっても、それでも、走る。

 結構、走れる。

 なんとなく、疲れてきても。

 やっぱり、もう限界かな?

 まだまだ?

 雨の中、走り続ける。

 口の中で、水滴を転がす。

 もういいかい。

 もういいよ。

 走って、少しだけ緩めて、それから一気に、歩く速度になった。

 何かを忘れたように足を止める。

 雨はやまない。

 そのまま、地面に寝転んだ。



 身体が、ずっと揺れている。

 寝転んでいるのに。

 思えば、ずっとずっと走り続けていた。

 母は、いつもお弁当を作ってくれた。

 母は、朝、フレンチトーストを作りながら、のり弁を作ることができた。

 手のかかる弟のために、全力だった。

 でも今は、私のために、母が駆け寄ってくれる。

 母は今、私の帰りを待っている。

 病の私が、走って帰ってくることを、待ってくれている。

 手のかかる弟がやっと自立したからだった。


 雨は、暖かかった。

 私はしばらくじっとしていた。

 夜が近くなる。空は、藍色に染まっていくのだった。


 心臓が、弱弱しい音になっていく。

 足が熱くて、布団を蹴飛ばそうとした。

 布団なんてないのだけれど。

 熱い。

 元気でしょ、私。

 だから安心して。

 弟が自立して、本当に良かった……。


 トク、トク、トク。

 トク。


 止まるのかな。

 走るのを止めてもいいのかもしれない。

 心臓は、いつかは止まるものなのだから。


 いつまでも、走り続けるなんて。

 走り続けて。

 走って。

 どうして、走っていたのかな。

 なぜだろう。

 私はなぜ、走り続けたのか。



 気がついたら立ち上がっていた。

 私は最後に、もう一周、この街を走ってこよう。

 全力で。

 傷だらけの足も、空腹も、気になるけれど。


 何のためなのか。

 どうしてなのか。


 雨はあがっていた。

 私はつぶやいた。




「走っていたら、わかるかも」

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