走れホッパー!

関谷光太郎

第1話

 その伝令は戦場を駆けるための脚を持っていた。


 サーベル・ホッパー。


 通信機器を破壊された敵兵力の真っ只中で、孤立した部隊の窮状を伝える最後の希望として彼は走る。


「行け、サーベル!」


「頼むぞホッパー!」


 地を削り、砂煙を巻き上げて走るその脚に人智を超えた力が宿る。


 ホッパーの名を持つ一族が、はるか遠い過去の時代から、走ることに特化した能力を重宝されて、時の為政者たちが利用してきた歴史を誰もが知っていた。


 しかし、彼らが権力に屈して走ったことは一度もない。常に人々の危機を救うために走るホッパーは、今もまた戦場で風前ふうぜん灯火ともしびとなった命を救うために走るだけだ。


 サーベル・ホッパーは周囲の兵士たちの励ましを全身に浴びながら徐々にスピードをあげた。


 隊の逃げ込んだ場所はジャングルの奥地。隆起した岩盤が天然の城砦の如き役割を果たしている。四方を敵の包囲にさらされているが、ここならば夜になるまでの数時間は持ちこたえられるだろう。


 軽い足取りで岩場を下り、鬱蒼うっそうとしたジャングルに飛び込んだサーベルはすぐに敵兵の気配を察知した。


 密林の緑に紛れるように潜んだ敵兵たちは、よもや敵がジャングルまで降りてくると考えていないのか、警戒しながらも緩やかな空気が流れている。


 サーベルは体勢を低く保ちながら、敵兵の潜む場所から離脱した。


 人の気配がなくなったのを感じて、彼はスピードをあげた。木々の間を抜け草むらへ分け入ると、みるみる加速度が増していく。


 それは走るというよりも飛ぶといった方がいいかもしれない。ホッパーと呼ばれる所以ゆえんである。


 ときおり湿った腐葉土に足を取られながらもサーベルは走り切り、大きく開けた場所へと到達した。


 切り立った崖が眼前に迫り、その頂上から大量の水が落ちてくる。


 救援を伝える軍司令部はこの崖を越え、河口を目指した先にある。本来なら迂回して傾斜の緩やかな山肌に沿うのが常套じょうとうだ。だが、急を要する今はこの崖を直進するしかない。ホッパーの能力を発揮する時だった。


 全身の気力を脚に集中させ始めるのと同時に、ジャングルから騒々しい一団が姿を現した。


 迷彩柄の戦闘服。敵兵だ。


 崖には身を隠すべき場所が少ない。登るタイミングを失ったサーベルは、慌てて岩陰に身を隠した。


 敵兵は五人。みな小銃を構えて何事か大声で叫んでいる。


 その銃口の先には──少年がいた。


 このジャングルに住む村の少年だと思われる。


 敵兵の様子から、偶然見つけた少年を面白半分にからかっているようだが、銃口を向けられた少年にはたまったものではない。


 サーベルは危険を感じた。


 戦闘中の兵士は特殊な精神状態にある。子供相手に楽しく遊んでいるようでいても、いつ残忍な誘惑にかられ銃弾を撃ち込んでこないとも限らない。


 案の定、怯える子供の姿に一人の兵士がキレ始めた。


 言葉はわからないが、『せっかく俺たちが遊んでやっているのになんで怖がるのか』というようなことを言っている。


 サーベルは迷った。


 このまま放っておけば、連中は少年を撃ってジャングルへ消えるだろう。


 だが、それでいいのか?


 少年を助ける選択は、ジャングルに潜む敵兵のすべてをここへまねき寄せる結果となる。そうなれば崖越えは不可能だ。


 一人の兵士が発した怒りの感情が残りの四人にも伝染する。みな一斉に銃口の照準を少年に定め発砲体制をとったのだ。


 失禁した少年の姿を瞳に映して、サーベルは弾かれるように岩陰から飛び出した。


 圧倒的に不利な選択だった。戦時下にあって、つまらぬヒューマニズムと嘲笑われるかもしれない。だが、ホッパー一族は常に人の危機を救うために走るのだ。たとえ理不尽な戦争に翻弄される今でも、必要とあれば敵をも助けるだろう。


 だから、本能のまま動く!


 風のように割って入ったサーベルの眼前にに、敵兵の唖然とした表情があった。


 サーベルは背中で少年を庇い、腰の脇差を引き抜いて銃口を薙ぎ払った。


 銃声。


 薙ぎ払われた反動で暴発したのだろう、滝壺に落ちる水の音を切り裂いて、銃声が轟いた。


 ジャングルから敵兵がくる!


 サーベルは少年を抱きあげて走り始めた。


 少年の小さな身体が震えている。歳の頃なら三、四歳といったところか。この軽さならば行けるかもしれない。


 迂回している余裕はない。夜襲をかけられれば数に勝る敵兵を部隊が撃退するすべはないのだ。


 サーベルは決断した。


 敵兵が現れるまでの時間でこの崖を越えてやる。


 五人の敵兵がサーベルめがけて発砲した。だがその腕は未熟で、民間徴用の兵士だと知れる。


 これは、運が味方していると考えていい!


 サーベルが岩を渡り、崖に足を掛けた。


 腕の中で怯える少年の『恐れ』の感情がエネルギーとなってサーベルの全身に満ちる。さらにエネルギーは分散されて、両腕、両脚へと必要な部位に蓄積されていく。


 ビチュン!


 サーベルの頬を掠めて銃弾が岩肌を弾いた。


 いくら未熟でも、止まった的なら偶然もありうるだろう。


 サーベルの肉体に変化が起こった。


 めりめりと音を立てて両腕の筋肉が盛り上がり、続けて両脚のふくらはぎがぎゅっと締まっていく。


「発動」


 全身から発する『気』と共に、サーベルは崖を登り始めた。その速さは尋常ではない。崖の岩の凹凸を素早く見切り、手と足を使い走るように崖を登るのだ。


 少年の腕に力が入るのを感じてサーベルは言った。


「安心しろ。絶対に落とさない。君の命は守る!」


 言葉が通じているのかわからないが、少年の身体に掛けた腕に、ほんのりと温もりが蘇ったことが何よりの答えだ。


 切り立つ崖を半分ほど制覇したころ、ジャングルから敵兵がわらわらと現れた。


 後ろを振り向けないサーベルが、背中でその気配を察知する。


 一斉に銃撃が開始された。


 岩肌を無数の銃弾が削っていく。


 サーベルは銃弾を交わすため右に左に崖を登る。


「さあ、もうすぐだ。あとひと息……」


 頂上に手が掛かった。


 サーベルは一気に身体を引き上げて崖の頂へと到達する。


「よし、よく頑張った少年!」


 少年の顔を覗き込んだサーベルの背中で、何十発もの銃弾が爆ぜた。


 その身体はわずかに揺れたものの、倒れはしなかった。サーベルは数歩進んで、敵兵の死角へと移動すると、少年の顔を見た。


 未だ銃撃はやまないが、もう当たることはない。


「……少年、わたしの頼みを……聞いてくれないか?」


 少年はしっかりとサーベルの顔を見返している。


「わたしに力を貸してくれ。今度は恐れではなく……君の優しさを……」


 しばらく、心を読み合うような間ののち、ゆっくりと、少年の小さな手がサーベルの頬に添えられた。


 サーベルは大粒の涙を流して呟いた。


「ありがとう」


 空気が弾けた。サーベルの足元で砂が巻き、地面が揺れる。


 ホッパー最大の能力を発揮しての走りは、弾丸そのものだ。サーベルの走るうしろで土煙が尾を引いている。抱えられた少年もその余りの速さに恐れを感じる暇もなかった。





 そして、サーベルは任務を果たした。


 部隊の居場所を伝えられた上官は、「ご苦労」とねぎらいの言葉をかけたが、その時サーベルは既に絶命していた。


『ホッパーは死んでも倒れない』の伝承通り、サーベル・ホッパーは立ったまま死んだのだ。


 夕日を背にして立ち尽くすサーベルの姿に、居並ぶ上官と兵士が敬礼した。


「急ぎ出撃。彼の死を無駄にするな」


 司令官は厳かに命令を告げた。


 その後、孤立した部隊が救われたのは言うまでもない……。





 戦争が終わり、改めて彼の行動が賞賛されることはなかった。敵味方いずれにも存在したであろうホッパーたちの功績も誰ひとり語る者はいない。


 しかし、あのジャングルで出会った少年の心には、彼の勇姿がホッパーの名と共に残り続けたのだ。


 夕日を背に立ち尽くす、サーベル・ホッパー。


 彼の名を少年は忘れない。


 そう──永遠に。

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