ハイリゲンシュタットの散歩道
冬野瞠
Tokyo, 2021
東京ではそろそろ桜が開花するかという頃、窓の外の
小説が書けなくなってからどれくらいの時間が流れたただろう。筆が走るとか、走らないとかの次元の問題ではない(使っているのが筆ではなくキーボードだと指摘するのは野暮というものだ)。一文字たりとも書いていない期間が何ヶ月も続いていた。趣味なのだから、別に書かなくてもいいのだから、そんなに悩まずともいいだろうと他人は言うだろう。
けれど、僕は休日に小説を書くために平日仕事をしているような人種だ。つまり物書きは生き甲斐なのである。しかし唐突に書きたいという衝動が行方不明になってしまって、自分でも困惑するほど
頭を振った。家の中で真っ白いページを睨んでいても埒が明かない。
気分転換のため、昨今ではつけないと落ち着かなくなったマスクで口元を覆い、近所の河川敷へ散歩にでも行くことにする。
外に出ると、やわらかな春の香りがどこからか漂ってきていた。在宅で仕事をするうちに、いつの間にか季節が変わっていたらしい。季節にも置いていかれ、唯一の趣味にも手がつかない。僕は――これからずっとこのままなのだろうか?
暗鬱とした心持ちで、
はっとしてあたりを見回すと、淡い緑の葉を揺らした
――なんだか、日本ですらないみたいだ。
心臓がどくどくと脈打っている。僕は夢でも見ているのだろうか?
混乱を極めていると、
人の姿がだんだんと近づいてくる。どうやら男性らしい。丈の長いコートを羽織った彼は、水面に目をやったり、耳を澄ますような仕草をしながら、僕がいる方へと歩いてくる。
顔立ちが判別できるようになったとき、僕の全身は雷に打たれたような衝撃に見舞われた。緩く波打った
呼吸が早くなる。どうして彼がここに、とは思わなかった。僕の方がこちらに紛れ込んだに違いないと確信していた。彼の面立ちはまだ若く、青年の面影が色濃い。あの年頃のベートーヴェンが散歩しているということは、ここは。
ウィーン近郊の、ハイリゲンシュタットの森か。
力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになった。実はベートーヴェンは僕が最も敬愛する偉人であり、マニアなら必ずハイリゲンシュタットの名は知っている。
ベートーヴェンはこの地で「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる手紙を書いた。
難聴が徐々に進んできた頃合いで、弟たちに宛てられたその手紙には、病状の苦悩が赤裸々に綴られている。しかしながら、不屈の人ベートーヴェンは文章を書いているうちに、音楽への情熱と作曲への意欲を取り戻すのである。遺書と言われるが、文面からはふつふつと湧き上がってくる使命感を感じる。
それまでにも素晴らしい曲をたくさん書いていたけれど、それ以降難聴やそれ以外のたくさんの病状に苦しみながらも、音楽史に燦然と輝く名曲を生み出していく。彼の音楽への貢献ぶりは計り知れない。
僕が好きなのは、そういうストイックで崇高な一面がある一方、たくさんの恋愛をして挫折を重ねるような、親しみも持てる部分があるところだ。
楽聖と呼ぶにはあまりに人間臭すぎ、天才と呼ぶにはあまりに泥臭すぎる作曲スタイル。
ぼんやりそんなことを考える僕のすぐ脇を、意志の強そうな目をした彼が通り過ぎていく。一度も振り返らない。まるで、自分には前しかないのだと暗に示すように。
ふと気づいたときには、僕は自室の作業机の前に腰かけていた。
さっきまでのは白昼夢だったのだろうか。普通に考えたら、ただ道を歩いていて数百年の時を超えていたなんてありえないだろう。けれど、僕にとっては現実だろうが夢だろうがどちらでもいいことだった。
今、目の前のパソコンの真っ白な画面では、カーソルだけが点滅している。僕はここに何でも書ける。どんな世界でも
自分の中に、長らく忘れていた熱い気持ちが芽生え始めていた。書きたい。苦しくてもいい。僕はここに、自分だけが書ける物語を紡いでいきたい。
ベートーヴェンは楽譜に、信じられないほどたくさんの修正を加えていた。モーツァルトのように流麗な旋律ではなくて、ひとつのモチーフを最大限活用して、音楽という殿堂を作り上げていく作曲の仕方。何度も何度も考え直して、何百年も演奏され続ける音楽を作ったのだ。
そんな次元には、僕はきっと何度も生まれ変わらないとたどり着けないけれど。
今はどんなに
窓の外では、色づいた桜の蕾が揺れている。
ハイリゲンシュタットの散歩道 冬野瞠 @HARU_fuyuno
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