わしらず
管野月子
されど欲望は消えず
今日の予報は曇りで、降水確率は低かったのについていない。
それでも、地下道を経由した自宅へ真っ直ぐ帰る気になれなくて、退勤後、自然と足はこの道を選んでいた。
街灯の乏しい暗い道で、ふと、人影に視線を向けると、明かりの消えたショーウィンドウのガラスに疲れた私の横顔が映っている。
色あせた焦げ茶のショートヘア。派手な化粧は嫌いでナチュラルを主張していても、こうして見れば地味としか言いようがない。
そう、慎ましい給金で慎ましく暮らす独身女子。
親兄弟も無く、知り合いは三本の指で事足りて、彼氏なんかいやしない。正に自由を謳歌する花の二十代のはずなのに、世俗のあれこれにもまれて、今日をしがなく生きている。
雨に濡れそぼりながら、寂しく薄暗い路地を歩いている。
今向かっているのは、迷路のような道の奥にある、知る人ぞ知る古本屋だった。
今時、紙の本を売っている店なんて、そこらの骨董屋よりずっと貴重。なのに興味を持つ人はほとんどいない。
昔は電子書籍、なんでものが流行っていた時代もあったらしいけれど、必要な
それをわざわざ、重く、やや
そしてぼんやりと、鈍く淀んだ思考を整理する時の儀式でもある。
◆
張りだした小さな軒で軽く雨を払ってから、暗い鉄色のドアノブを押した。
自動ドアじゃない辺りから、この店の演出は完璧だと思っている。そこから一歩足を踏み入れれば、高い天井まで続く本棚と本の山。この国の言葉と異国の文字が入り乱れて、私には一見、何が
網膜に移植する最新型のカメラでスキャンすれば、背表紙を見るだけで内容もダウンロードできるのだろうけれど、私の瞳にそんな高性能なな
本を読むという行為は、中身の分からない宝箱を開けるような楽しみもあると思うのに、この考えは、なかなか人に理解されない。されなくてもいいけれどね。
「こんばんは」
店の奥で、今日もゆったりと椅子に腰かけている人に声を掛ける。
先が少し尖った椀状の、「どんぐり」の
「雨はちゃんと払っておくれよ」
「あ、はい」
コートを脱いで表を内側にたたむ。
そうそう、紙の本は湿気も苦手なのだから。こういう厄介な所も好き。
「こんな天気の日に」
「大雨じゃありませんでしたから……それに、店は開いているじゃないですか」
そう言いながら、カウンターの所にある椅子に腰を下ろした。ちょっと早歩きで来たから疲れたし、本を探すにしても、一息ついてからにしたい。
ノーム爺さんは「ふん」と鼻を鳴らすだけ。私が子供の頃から通っているせいか、だいたいの事情も知っている。
「また仕事で、何かあったんだろ?」
「あはは……分かっちゃいます? もぅ、憧れていた先輩だったのに」
苦笑いしながら、努めて明るい声で返した。
そう、入社以来ずっとお世話になっていた先輩が、リクルースに転身することになって退社してしまったのだ。
「リクルースって、アレだろ? 全ての望みを叶える電子脳空間」
「そう、記憶と意識を移植して、望むままの世界を実現させるという、アレですよ」
「ふん……望むままの世界で、
呟いて、ノーム爺さんは鼻で笑う。
かつて隠遁者とは、世俗から遠く離れて質素に暮らす者を表し、特に信仰を持つ修行僧などを指していたそうだけれど、今は違う。肉体こそカプセルの中で眠っていても、意識は本人が望むあらゆるものを満たす世界で遊び、暮らすもの。
永遠に老いることも無く、豪華な城に住まい宝石の輝きのドレスを身に着け、どんな
もちろん、最初に多額の課金をした者だけが叶えられる世界。
「ものすごく仕事とか頑張っていて憧れていたのだけれど……全部、リクルースになるためだけに稼いでいたんだって分かって……ちょっと、ね。私が勝手に理想を描いていただけなんだけれど……」
そう、先輩は何も悪くない。私が勝手に憧れて、勝手に幻滅しているだけ。リアルで生き抜く方が立派なんだって。その自覚があるだけに誰にも愚痴をぶつけられない。
あ……でも今、これって、ノーム爺さんに愚痴ってるかも。
うんいいや、爺さん暇そうだし、付き合ってもらおう。
「私も……正直、隠遁者になるのは憧れてる」
何もかも望む世界を手に入れるのは難しくても、世俗のあれやこれやに煩わされることなく暮らせたら、どれほど幸せだろうと思う。
「けれど、何もかも捨てて暮らすには、欲まみれなのよね」
欲しい物は山ほどある。
いい暮らしをしたいし、褒められて持ち上げられたい。人肌だって恋しいし、美味しいものお腹いっぱい食べたいもの。それ全部、「リクルース」の世界で叶うと言われても、ちょっと違う。
それでも電子脳空間に、この古本屋は無い。再現された本はあったとしても、永遠に朽ちることの無いそれは、私の望む本ではない。何より、ノーム爺さんが居ない。
既にパッケージされた商品の効率的な消費ではなく、自分で宝を探したい。
矛盾してる。
口を尖らせて肘をつく。
「事を知り――」
「ん?」
「世を知れれば、願はず、わしらず、たゞしづかなるを望とし、うれへ無きをたのしみとす」
私は目を見開いて、首を傾げ、ノーム爺さんを見つめる。
爺さんは、ニヤリと笑って返す。
「千年くらい前の
ずいぶん昔に学課で習った気がする。もう覚えていないけど。
「わしらず……って何だっけ?」
「
ほい、と手を伸ばした先の一冊の本を手に取る。
かなり古い本だけれどまさか千年前の物ではないだろうから、後に作られたレプリカだ。
「世の中の大事も身のほども、世俗の何もかもを知り尽くすまでは、せいぜい欲望のままに求め、走ればいい。そうすればいずれ電子脳の世界にしがみ付かんとも、この
「ノーム爺さんのように?」
「そうだな」
「先は長そう……」
小さく笑う。
そうね、私はわざわざめんどくさく、一文字一文字追わなければ意味を知ることのできない書物なんてものに没頭して、思考の海に浸りたいと思っている変わり者なのだから。
「これはこれで、贅沢な時間の過ごし方か」
椅子から立ち上がり、少し伸びをして本の壁を見上げる。
「明日からまた
爺さんは、どうぞと言うように、口の端を上げながら古びた本を差し出した。
わしらず 管野月子 @tsukiko528
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