刹那の逢瀬

If

刹那の逢瀬

 死ぬまで走り続けろと言われていた。それがお前の存在意義だと。そのためにお前は生まれて来たのだと。だから彼は走った。朝も、昼も、夜も、絶えることなく、同じ道を、何周も、ひたすらに、ひたすらに。


 孤独ではなかった。二人、彼には同じ道を行く仲間がいたからだ。男が一人と、女が一人。二人は、彼とは別の使命を与えられているらしかった。背が高い男の方は、マイペース。ゆっくりゆっくり、気づけば進んでいるといったような速さで歩く。背が低い女の方は、几帳面。彼が一周する間に、必ず一歩進んでいる。


「きみが一番、大変ね」


 女は、優しかった。顔を合わせるのは、いつだって彼が女を追い抜く瞬間の一刹那だけだったけれど、その度女は必ず彼を気遣った。


「疲れていない?」


「頑張りすぎないでね」


「たまには代わってあげたい」


 彼が女に特別な想いを抱くなるようになるまで、そう長い時間はかからなかった。しかし、彼は走るために生まれてきたから、女を好いたからといって共に行くことはできない。彼はいつも彼女を追い抜いては、また次に彼女に逢うために走った。追い抜きざまの一瞬、彼女の顔を見たいがために。一声、彼女の声を聞きたいがために。


「馬鹿だな」


 男の方は、彼の気持ちを知ると笑った。一巡りして帰って来た彼に、さらに続けて言う。


「歩調の違うお前とあいつが」


 もう一巡りして。


「好き合ったところで」


 また一巡りして。


「辛いだけだろう」


 男なりの心配の言だというのは、彼にも分かった。だからさらに一巡りしてから、彼は男に礼を言った。ちらと見えた男の顔は、とても同情的だった。


 彼にとて理解できる。男の言うことはもっともだ。走り続けなければいけない彼と、一歩ずつ歩き続けなければいけない女と。一巡りに一回の逢瀬は叶っても、所詮それきりだ。逢えない時間の方が格段に長く、逢えてもそれは一刹那。想いを遂げたところで、そこに幸せがあるかは分からない。


 ああ、けれど。


「浮かない顔ね。大丈夫?」


「いつもお疲れさま」


「本当に頑張りやさん」


 次はいったい、どんな言葉を掛けてくれるだろう。どんな顔を向けてくれるだろう。それが知りたいから、彼は走り続けられた。女の顔は、声は、同じ道を延々と走り続けなければならない彼にとっての、唯一の楽しみだった。


 好きなのだ。どうしようもなく。そうして、知りたいのだ。この気持ちを伝えたら、女がいったいどんな顔をしてくれるのか。


「言うよ」


 伝えれば、男は溜息を返してきた。一周して帰ってくると、訊かれる。


「恨まないのか」


「何を?」


 また溜息一つ聞いて別れ、走り、帰ってくる。


「こう作ったやつを」


 彼は走りながら考えた。自分に走り続ける運命を与えた者を、彼女に歩き続ける宿命を授けた者を、恨んでいるだろうか。考えてみてもよく分からなかった。確かに、女と一緒に進めるようにしてくれたらよかったのに、とは思う。しかし、そいつが同じ道に置いてくれたから女と出逢えたのであり。そう考えると、恨むどころか、感謝したい気もする。


「別に」


「なぜ?」


 ぐるりと走って。


「作られたから逢えた。それと」


「それと?」


 もう一度、ぐるり。


「走るの、嫌いじゃないんだ」


 男は、辛いだけだと言った。それは違うと彼は思った。逢えるのが一瞬でも、自分が頑張れば、何度だって彼女と逢える。そのために走れるというのは、幸福だとさえ思った。それに運命を呪ったところで、どのみち彼は走るしかないのだ。それなら、与えられた場所で、最大限幸せに生きていたい。そして、最大限相手を幸せにしたい。


「馬鹿なやつ」


 男はまた、笑っていた。ちょっとばかり元気だった。たった一秒でも、十分じゃないかと彼は思った。




「好きなんだ」


 ついに、彼は女に伝えた。女は目を丸くしたきり、その逢瀬では答えなかった。


 彼は走る。女の答えを聞くために。次の逢瀬を得るために。


「私も」


 細めた瞳を少し潤ませて、頬を淡く染めて、女は言う。


 ああほら、幸せじゃないか。


 さあ、走ろう。今度は、「君と逢うために走るよ」と伝えるために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

刹那の逢瀬 If @If_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ