キミのタイムをノートに記す

南雲 皋

新堂紗夜 1,400m

 いつから話さなくなったんだっけ。

 たぶん、中学生になったばかりの頃。

 アイツは入学式の日に一度だけ学校に来て、それから長いこと入院した。

 手術が成功して、元気になったのだと笑いながら登校してきたアイツに、俺は声を掛けられなかった。

 クラスメイトに囲まれて、お祝いの言葉と質問に埋もれるアイツは、きっと神様の物語の主人公なのだと思ったから。

 だから俺なんかが、そこに踏み込んではいけないと思ったんだ。


 まあ、それは今考えた言い訳で。

 中学生の頃の俺は、ただ、面白くなかった。

 ちやほやされているアイツを見るのが。

 面白くなかっただけだ。


 小学生から中学生になって、男女の違いというものを意識し始めたせいだったのかもしれない。

 俺は男で、アイツは女だったから。

 ちやほやされているアイツを見るのが面白くなかったのも、退院して一番に俺に報告しに来てくれなかったことを拗ねていただけなのかもしれなかった。

 

 結局それから俺たちの間には見えない壁ができた。

 幼馴染で、言葉も拙い頃からの付き合いで、病弱なアイツにとって同年代の仲のいい友達なんて俺しかいなかったくらいの筈だったのに。


 それからもう、六年が経つ。

 俺はろくな受験もせずに公立高校に進んだ。


 母親同士は相変わらず仲が良かったから、アイツも同じ高校に入学することは聞いていたし、学校でも度々姿を見かけた。

 家を出る時間は意図的にずらしていたけど、時々電車が同じになることもあった。

 昔の病弱さは消え失せ、今のアイツは健康優良児そのもの。

 陸上部に入部し、セミロングだった髪はショートになり、青白かった顔は日に焼けた。


 放課後、帰宅部の俺が学校を後にする横で、アイツはグラウンドを何周も走っていた。

 夕陽に照らされるグラウンド。

 運動部の生徒たちの声。

 俺は耳を塞ぐようにワイヤレスイヤホンを付け、大音量でJ−POPをランキング一位から流す。

 街中やテレビでよく聴く曲が右から左から流れ込み、虚しさをかき消した。


 そんな日常が一瞬にして壊れるなんて、誰が想像しただろう。

 新型コロナウイルスが猛威をふるい、学校も休校となった。


 クラスのグループLINEには、TwitterやらネットニュースのURLが大量に貼られる。

 なにが正しいのかも分からずに、みんなが混乱していた。

 学校行事もことごとく中止になり、このままだと受験すらオンラインになるのではと話題になった。

 マスクや消毒液が店から消え失せ、家から出ないことが求められた。


 けれど、アイツは走ることをやめなかった。

 それに気付いたのは、珍しく朝ご飯を食べた日のことだった。

 自分の部屋に戻って窓を開けた時、家から出て行くアイツが見えたのだ。

 玄関から母親が追いかけてきて何やら言っていたようだが、それを振り払うようにアイツは駆け出した。


 いつ帰ってくるのかと外を気にしていたら、二時間ほど経って帰ってきた。

 汗を拭いながら門を開けるアイツが、一瞬振り返った。

 慌ててしゃがみ、手に持っていたスマホを足に落として悶絶する。

 ちくしょう。

 なんで俺が隠れなくちゃならないんだ。


 それから毎日、同じ時間に外を見た。

 アイツは同じ時間に家を出て、だいたい同じ時間で帰ってきた。

 何度か母親に止められていたようだけど、アイツは走ることを止めなかった。


 陸上大会だって当然のように中止になっていたけど、アイツはそれを受け入れられなかったのだろうか。

 夕食を食べながら、話を聞いたらしい俺の母親が言っていた。

 いつどこで感染するか分からないし、いくら健康になったからといって不用意に外に行くのはやめてくれと何度言っても聞いてくれないのだと。


 ある日、俺はアイツを追いかけてみることにした。 

 別に、俺の母親から話を聞いたのが理由ではない。

 断じて。


 アイツの足に付いて行くのは至難の技だった。

 追いかけてもすぐに離されて見失い、諦めて帰ることが数日続いた。

 ようやく練習場所らしい土手を走るアイツの姿を見つけたとき、俺は思わずガッツポーズをしてしまった。

 俺に気付いたアイツが足を止め、こっちを見る。



「お母さんに、なんか言われてきたの?」


「いや、別に」


「じゃあ、なに」


「いや……その……」


「ずっと話してくれなかったくせに」


「それは……!」


「別にいいけど。用がないなら、行くね」


「ちょ、待った、なんで、まだ走ってるんだよ。もう大会も中止になったし、そりゃ、走れずに引退なんてのは納得いかないかもしれないけど」



 アイツはお前もそういうことを言うのか、みたいな顔で俺を見た。

 おもむろに土手の草っ原に寝転がり、大きく息を吐く。



「大会とか、関係ないの。私は生きてるんだって、走ってる時が一番実感できる。けんちゃんは知らないんだっけ? 私の心臓は私の心臓じゃないんだよ」


「え?」


「移植したから」



 知らなかった。

 そういう大事なことを、どうして言ってくれないのだろう。

 理解できないと思って敢えて黙っていたのかもしれない。

 そして黙っていたことを忘れて、言ったつもりになっていたのかもしれない。


 俺は何も言えず、ただ黙ってアイツを見下ろしていた。



「この心臓が、私の走りで高鳴る度に、生きてるって思う。だから、走ってるの。部活に入ったのは、お母さんに走る理由を納得させるのに丁度いいかなって思っただけ。だから、誰になんと言われようと走ることはやめないよ」



 寝転んだままのアイツの瞳は、雲ひとつない青空に染まっていた。



「俺、手伝おうか」



 その言葉は、勝手に口から出ていた。

 アイツが走ったタイムの記録を残し続けたら、それはアイツの、アイツの心臓の、生きた証になるんじゃないかと思ったから。

 そう言ったら、アイツは上半身をガバっと起こして、俺を見て笑った。



「それ、最高」



 その日から、俺はアイツと一緒に家を出てアイツの生きている姿を目に焼き付けるようになった。

 アイツの1,400メートル走のタイムを測るようになった。


 新堂紗夜の生きた証を、記すようになった。




【了】 

 



 


  

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