語る君、駆ける君
くれは
語る君、駆ける君
何がきっかけなのかは難しい。同じ高校に入学したこと、同じクラスになったこと、それからゴールデンウィーク明けの席替えで隣の席になったこと。
後ろから二番目の窓際の席が彼。わたしはその隣。
黒い前髪は厚ぼったくて、それと重たそうな黒縁の眼鏡のせいで、いつも表情がよくわからない。俯き加減に本を読んでいるイメージしかなかった。クラスメートと話している時だって、誰かの隣で静かに微笑んでいるだけのような、そんな男子。
隣の席に座って「よろしくね」と声をかけたら、びっくりしたようにわたしを見て、瞬きを二回した後くらいになってようやく「よろしく」と小さい声が返ってきた。
■■■
走っている彼女の姿が、綺麗だったから。そんなことで、と自分でも思う。でも、そうとしか答えられない。
陸上部の彼女は、短距離走をやっている。すらりと伸びた手足を惜しげもなく晒して校庭を駆ける姿に、陳腐な言い回しをすれば一目惚れしたんだと思う。
そのしなやかな姿に草食動物を想像する。凛として、生命力に満ち溢れて、野を駆ける、そんな存在。
苦しげに息をつく様や、目一杯に笑う顔や、背中の伸びた立ち姿、そんなものが全て目を逸らしたくなるくらいに眩しくて、為す術もなくくっきりと、焼き付けられてしまった。
放課後の陸上部の様子を遠目に垣間見て、教室でも時々彼女の姿を探すようになって、これが、物語で見かけるようなそれなのだと自覚するまでに、さほど時間はかからなかった。
家で一人、ふと本から顔を上げて、
■■■
その日は朝から曇り空で、今にも雨が降り出しそうな、そんな空気だった。陸上部は、雨が降るとどうしても活動内容が限られてしまう。だから、降らないと良いなと思いながら、その日は何度も窓の外を見ていた。
窓側の隣の席には彼がいる。わたしがあまりに何度も窓の方を見ていたからか、三時間目と四時間目の間の時間、彼は本から顔を上げてわたしの方を見た。少し訝しそうな視線で。
なんだか、彼のことを見ていたみたいに思われただろうかと、少し恥ずかしくなって、わたしは言い訳じみたことを口にした。
「あの、今日はずっと空が灰色で、どんよりしてるなって……部活、雨降っちゃうと困るなって」
彼は眼鏡の奥でちょっと瞬きすると、窓の方に振り向いた。それから、またわたしの方を見る。
「
「え……?」
彼の言葉の意味がわからなくて、ぽかんとしてしまう。彼は、片手で窓の向こうの空を指差した。指が長くて器用そうな、骨ばって少し神経質そうな、手。
「空の色。こんな曇り空みたいな……よく見ると、少し青っぽくて緑っぽい、そんな灰色のこと」
浅葱鼠というのは、色の名前だったのか。そう思って、彼の指差す先の空を見る。ただの灰色だと思っていた空が、急に、様々な色を含んだ複雑な色合いに見えてきた。
「雨、降らないと良いね」
その言葉に視線を降ろすと、彼が静かに微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間、彼の周囲にも色が溢れて見えた。
それでわたしは、世界に色があることを知ってしまった。
彼はどんなふうに世界を見ているんだろう。灰色にも、曇り空にも、いくつもの名前があって、彼の目にはいつもそんな言葉がたくさん溢れているのかもしれない。
彼の見ている世界を、わたしも知りたいと思ってしまった。
■■■
隣の席の彼女は、明るくて眩しい。教室の片隅で本の中に逃げ込んでいる自分なんかとは違って。
活発な彼女らしいショートカットの髪は、その短さでも黒く艶やかだ。
陽射しを受けて青や緑が煌めく。玉虫色、いや、濡れ羽色の方が適切か。その色彩は、くるくると変わる彼女の表情と、その表情そのままの心根に相応しいように思う。
その髪の隙間から、耳たぶだとか、うなじだとかが覗いて、なんとなくいけないものを見てしまったような気分になって、俺はまた本へと視線を戻す。
こんなふうに盗み見ているだなんて、彼女が知ったらどう思うだろうか。知られるのが怖くて、でもこの状態があまりにも苦しくて、いっそ知られてしまえば楽になるだろうかなんて考えもする。もちろん、それを試す勇気はこれっぽっちもないのだけれど。
さっきからずっとページをめくっていないことに気付いて、俺は背中を丸めて今度こそ本の中に潜り込んだ。
■■■
梅雨の合間、珍しく晴れて穏やかな陽射しの心地良い日があった。夏ほどに暑くなくて、じめじめもしてなくて、春のように朗らかで、奇跡みたいな天気だった。
「麗らか、だね」
隣の席で本を読む彼に、そっと声をかける。彼は読んでいた本から顔を上げて、少し不思議そうにわたしを見た。
その表情に、失敗したと落ち込んだ。麗らか、だなんて。本日はお日柄もよく、みたいだ。さりげなく話しかけるには、だいぶ不自然な気がした。
彼はすぐに本に視線を落としたけれど、小さな声で返事が返ってきた。
「麗らかは春の季語だよ」
彼が会話を続けようとしてくれたことに、つい一瞬前までの落ち込みも吹き飛んでしまった。急いで、言葉を続ける。
「わたしが言えばそうなの」
「ああ……君の名前か」
そう言って、彼がまた顔を上げてわたしを見る。彼は、わたしの名前を知っていた。クラスメートだから当たり前なのかもしれない。でも、知ってもらえていた、たったそれだけのことで、わたしの気持ちは全力疾走を始めてしまう。
彼はそのまま、目を細めて微笑んだ。
「君がいれば、どこでも麗らかだ」
全力疾走をした後みたいに、胸が騒がしくて、苦しかった。
■■■
名前の意味を聞かれた。休み時間の終わり際、他愛もない会話。彼女の名前の話をしたから、その流れだった。
「俊哉の俊って、俊足の俊だよね」
彼女が俺の名前を呼ぶだけで、俺は落ち着きを失ってしまう。そこに失くした平常心があるような気がして開いたままの本に視線を落としたけれど、当然そんなものは見付からなくて、諦めて本を閉じてまた彼女を見る。
そこで出てくる単語が「俊足」なのは、いつも走っている彼女らしいな、なんて思う。
彼女はきっと、隣の席に座っているのがたまたま俺だからこうして話しているだけだ。ここに座っているのが誰だったとしても、彼女は同じように話すのだろう。彼女のそういう明るさを好ましいと思いつつ、それでも胸の奥底にはざらついたわだかまりがいつもあった。
「そう。元々は、確か高いとか大きいとかって意味で、つまりは優れているって意味」
俊足だとか、俊敏だとか、彼女にはともかく、俺には似つかわしくない。そんな俺の卑屈さが、声色に出てしまったような気がして、それが彼女に伝わってしまいそうで、少し怖かった。
「優れてる。それなら、ぴったりだね」
彼女が屈託のない笑顔を浮かべてそう言った。自分では、ちっともそうは思えないのだけれど、彼女の目には俺がどう見えているのだろうか。
「どうかな。名前負けしてると思うけど」
彼女の真っ直ぐな言葉に耐えられなくて、目を伏せる。彼女は何か言いかけたけど、チャイムに遮られて口を閉じた。そしてそのまま、お喋りは終わってしまった。
■■■
授業の合間のさらに合間、休み時間と授業が始まるそのほんのわずかの隙間に、隣の席の彼とお喋りをする。
知的だよねと言えば、彼は驚いたようにわたしを見て、それからすぐに文庫本に目を落とす。俯いた顔は、前髪と眼鏡に邪魔されて表情がわからない。たくさんの言葉を知っている彼には、わたしの言葉じゃ届かないのかもしれない。
「あ、じゃあ、わたしのイメージは?」
内心を悟られないように、できるだけ何気なく、そう聞いてみた。彼の視線がわたしを見る。ちょっと、困ったように。それでも彼は多分、真面目に考えてくれて、答えてくれた。
「
知らない単語に、瞬きを返すことしかできなかった。
「どういう意味?」
「周囲のことを気にしないとか、のびのびしてるとか」
「空気読めないってこと?」
わたしの声に、彼はふいと視線を逸らした。手にしていた文庫本で口元を覆ってしまう。文庫本越しに、小さな声が聞こえる。
「そういうところが……好ましいって話」
彼はそれきり、わたしの方を見ようとしなかった。
わたしは……わたしは苦しくて、ああ、でも、走っている時みたい。走ってる時は苦しいけど、でも、世界が違って見えて楽しい。
彼がどういう意味でその言葉を言ったのか、聞いたら教えてくれるだろうか。彼はわたしのこの気持ちにも、ぴったりな言葉をくれるだろうか。
■■■
休み時間、隣の席で彼女がうたた寝をしていて、俺は勝手にはらはらする。居眠りなんてみんなしている。でも、彼女はあまりに無防備すぎると思った。さっきから一文字も読み進められていない。
閉じられた瞼。盗み見て何を想像したかなんて、知られたらきっと
文庫本を閉じて、そっと彼女の腕をつつく。
「休み時間、終わるよ」
すぐに目を逸らそうと思ったのに、彼女の睫毛が震えて瞼が持ち上がるのをじっと、見詰めてしまっていた。その瞳が俺の姿を捉えて少し笑うのを見て、流石にそれ以上は見ていられず、ようやく目を逸らした。
■■■
テスト期間、部活は休みだ。テストが終わって、夏休みになって、新学期になったら席替えがあるらしいから、もうじき彼とは隣の席じゃなくなってしまう。
学校を出て、少し先に彼の背中がある。黒い髪。少し猫背の後ろ姿。
ゆっくりと深呼吸してから、走り出す。近付く度に心臓が跳ねる。なんて言って声をかけよう。どうやって伝えよう。
どれだけ走ったら、彼の世界に追い付けるのかな。
語る君、駆ける君 くれは @kurehaa
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