桜吹雪の緑の丘に風が走る
ゆうすけ
第二十五話 彼女は僕を誘って丘に来た
「光子力研究所」。名前のわりにはクラシックな木造三階建ての日本の温泉旅館のような建物の前には、水をたたえたプール。どこかちぐはぐなタージマハル廟を想起させる。バイクと
「まあ、あとは君が一人でなんとかしてくれたまえ。それでは私の出番はここまでのようだ。幸運を祈るぞ、栄吉君。君には宇宙の意思が付いている。きっとなんとかなる。多分な」
―――多分ってなんだよ。俺一人こんなバイクの格好で取り残されて、何をすればいいんだ。だいたいあの犬、なんのために出てきたんだよ。意味わかんねーよ。
何も手に付けられない状態では、何も行動もできない。栄吉は半ばやけになって、瞑想状態に陥って行った。人間でいえば居眠り状態だが、今の彼はバイクだ。居眠りと表現するのが正しい叙述だとは到底思えない。それでも彼は浮遊する意識の中でそろそろとまどろみに似た感覚を味わっていた。
◇
どれぐらいそうしていただろう。栄吉はふと目を覚ました。後頭部に柔らかで暖かい感触。右腕に力を入れてみると、見慣れた自分の腕がもっそりと持ち上がった。
「あれ? 俺、元の姿に戻っている……」
「気が付きましたね」
柔らかい声が栄吉の頭上から響く。栄吉の視界でゆるい優美な曲線の上には、覗き込む女優の顔が見えた。
「チ、チエコさん!」
栄吉はガバっと身体を起こした。周囲は見たこともない青空の草原の丘。視界の端に長い樹齢を重ねてなお花をつけ続ける、壮大な古桜の木が目に入る。栄吉は自分が野々原チエコの膝枕でうたたねしていたことを理解した。その表面上の風景は理解したが、それ以外の情報はまったく彼の中でつながらない。
「ここはどこなんです? なぜあなたが? 俺は今までどこで何をしていたんだ?」
野々原チエコも栄吉に合わせて立ち上がって、スカートの裾を払う。緑の芝生が陽射しの吹き溜まりにちらちらと舞い上がった。
「矢場杉さん。今から私は、今のあなたには理解できないかもしれない話をします。聞いていただけますね? 私の話を」
チエコは丘の下の町並みを背にして話を始める。それは大女優が舞台で放つ渾身のモノローグ。芝居の中に例えるなら、女優がその矜持にかけてセリフに魂を込めるシーンだ。
「この世界にある陰と陽。そして、陰陽の隙間に広がる
「チエコさん、一体なんの話をしてるんですか? ここは一体どこなんですか。今はいつなんですか? 俺は、俺は、どうなっちゃうんですか。あなたは本当はなにものなんですか!」
「それぞれの世界であなたは聞いたかもしれません。アンコック・ヘミュオン効果、という言葉を。陰、陽、
「え?」
なんでそんなスケールのでかい話になってるんだ。俺はただの印刷エンジニアで、映画好きの青年だ。かわいくて巨乳な彼女ができて、小さな幸せを手に入れられればそれでいいんだ。世界線なんて興味ない! この丘で、青い空と緑の芝生と咲き乱れる桜を愛でていれば、それで十分なんだ!
「陰の世界、陽の世界、
チエコは懐から古びたナイフを取り出した。
「それは、妖刀!?」
「そうです。それぞれの世界で少しずつ形を変えて存在する伝説の武器の一つ。陽の世界では『妖刀』、陰の世界では『デバイス』、
そこまで話を聞いて、ふと矢場杉は違和感を覚えた。
「チエコさん、あなたはなぜそんなことを知っているんですか? まるでその三つの世界を作ったのがあなたのように聞こえるんですが」
「ふふふ、その通りですよ。矢場杉さん。私の本当の名前は、アフロディーテ・ノーノチエ。それぞれの世界の言葉で『創造の女神』『全能たる造物主』などと呼ばれています。しかし、私は、この世界線の構築に失敗しました。そのケリは私自身が付けないといけません」
チエコはきりりと顔をあげて澄んだ声を上げた。
「しかし、すでに構築されて一部が誤融合を起こしてしまった三つの世界。それを破壊してしまうのは、いかな私でもできないのです。これらの世界に生まれた命はいかに些末なものであっても、それは一つの生命。決して軽んじられるべきものではないことは、この私が一番よく分かっています」
そう静かに語ると、チエコは妖刀をどこから出してきたのか、匣に収める。
「二つの糸が出会う時、絡まった歴史は静かにほどけていきます。栄吉さん、あなたに会えてよかった。あなたが私を覚えていてくれれば、私はそれで満足です」
「チ、チエコさん……」
それは俺の尻穴から出て来た匣陽炎じゃないか、と言いかけて栄吉は口をつぐむ。チエコの寂しげな笑顔に、悲壮な決意がにじんでいた。
「栄吉さん、お別れです。永遠に、お別れです」
「チ、チエコさん!!」
チエコはふわりと宙に浮くとゆっくりと空に向かって高度を上げていった。
「待って!」「行っちゃダメ!」
そこに女子二人が駆け寄ってくる。白衣のミカンサと黒のビジネススーツの竹上だった。
「ああ、あれがアフロディーテ様の真の姿!」
「なんか胸周りを見てると殺意が湧くわね」
「ミカンサ、この際私怨は置いといて! アフロディーテ・ノーノチエ様を引き留めなければ。彼女、ヤーブスの変異体を道連れにして自爆するつもりよ! ちょっと、そこのあなた! ぼーっとしてないで早くアフロディーテ様を追いかけて!」
竹上は茫然自失で突っ立っている矢場杉をけしかける。
「そんなこと言ったって、俺、空飛べないし……」
「あなたほんとにバカね。女の人のお尻ばっかり見ている暇があったらちょっとは頭を使いなさい。ほら、これでつかまえるのよ!」
ミカンサがごくクールに言い放って手に持った布を栄吉に投げてよこす。
「これは……、もしかしてあなたのもの、ですか? なんか微妙にぬくもりが……。あ、少しいい匂いもするような……」
栄吉の不用意な発言にミカンサが猛然と食ってかかる。
「何言ってんの。伝説の武器、セブンティーダブルAよ。断じて私のなんかじゃないわ! 早くそれをアフロディーテに!」
「ミカンサ、もう間に合わない!」
竹上の悲鳴に栄吉とミカンサが青空を見上げると、そこには一筋の光となって駆けていくアフロディーテ・ノーノチエが見えた。
桜吹雪の緑の丘に風が走る ゆうすけ @Hasahina214
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