あなたのワルツ
井ノ下功
鍵盤の上を走る
かた、と小さな音が、静謐な部屋に落ちた。ペンが机上に置かれたのだ。
「ピアノを弾きたい」
リリアーヌがぼそりと言って席を立った。
「おい。おいこら待て」
ロランは慌ててリリアーヌの前に立ちはだかった。何の感情も灯していないように見える無機質な目が、しかし確かな不機嫌さをもってロランを見上げる。
「まだ勉強が終わってないぞ」
「やだ」
「やだじゃない。ガキじゃないんだ、少しぐらい我慢しろ」
「どいて。ピアノが弾きたいの。今すぐ」
「勉強が終わってからにしろ」
ロランが冷徹に告げる。
するとリリアーヌはしばし黙って――突然拳を振り上げた。
「っ! っと、あっぶねぇっ!」
ロランは咄嗟に飛びのいてそれを避けた。道が開けたのを見てリリアーヌは走り出す。
「あっ、この馬鹿っ!」
思わず叫んで振り返ると、ワンピースの裾の可愛らしいフリルが扉の向こうに消えるのが見えた。
(くっそ、あの人形娘、普段はあんなにぼんやりしてるくせに!)
ピアノが関わると途端に敏捷になるのだから困りものだ。
とはいえ、全盛期の青年が足の速さで運動不足の娘に負けるはずがない。ロランはあっさりリリアーヌに追いつくと「失礼」と一声かけて、彼女を肩に担ぎ上げた。
「っ!」
「頼むから、暴れてくれんなよ」
「下ろして」
「やだ」
先程の意趣返しだ、とばかりにロランは一言。リリアーヌもそうであるように、ロランも相当の頑固者だ。今回は彼女の方が折れる。小さな溜め息がロランの肩先に落ちる。
「……せめて、普通に捕まえてくれない。なんで担ぐの」
「それは仕方ないだろ」
ロランは眉ひとつ動かさず、平然と答えた。
「ピアニストの腕を不用意に掴みでもして、何かあったら事だからな。あぁそうだ、それで思い出した。お前さ、『こいつムカつく、殴りてぇ!』って思っても、さっきみたいに手を出すなよ。手ぇ怪我したらどうすんだ。ああいう時はな、にっこり笑って近づいて、思いっ切り足を踏むんだよ。スフォルツァンドとアクセントが重なった音につけるペダルみたいに、思いっ切りな。いいか?」
「……」
リリアーヌは蛇と蛙が仲良くコサックダンスをしているのを目撃してしまったような顔で黙り込んだ。が、やがて元の無表情に戻ると、こくりと頷いた。
勉強を再開する。
ロランは近隣の大学に通う学者の卵で、リリアーヌの家庭教師として雇われた身だ。日曜日以外の毎日二時間、数学やら歴史やらなにやらを見ている。
(別に、頭が悪いわけじゃないんだが)
黙々と問題を解いていく小さな手は真っ白で、その柔らかさは触れずとも分かる。指は一本一本が細くて長い。きちんと切りそろえられた飾り気のない爪が、かえって魅力的に見えるのだから不思議なものである。テキストに向かって伏せられた目はエメラルドの輝きを帯びていて、それを縁取る長い睫毛はどんな台座よりも豪華だ。
黙って座っている姿はまさに人形。だがピアノの前にいるときは別である。
ぷっくりとした薔薇色の唇を、指先がちょんと触った。それは“分からない”という無言の合図。
「どこが分からない?」
「ここ」
「それはな――」
この可愛らしい少女にクビを切られた家庭教師は三十人を優に超えるらしい。その七割方が“うっかり彼女に手を出しそうになって”という理由で、その後の学者人生も闇に呑まれたというのだから笑えない。
残りの三割は先程の“ピアノ狂い”に負けたのだ。
(おかげさまで俺みたいな下々の男に話が回ってきたわけなんだが)
一度弾き始めると数時間は止まらない。つまり勉強時間中はピアノに触らせてはいけないのである。ロランは初日にそれを学んで以来、絶対に途中退室はさせないと決心して、その通りにしてきた。
それが功を奏した。阻止できなかった家庭教師たちは、彼女の父親に“支払いに足る仕事ではない”と判断されて解雇されるのである。二週間が最長だったのが、ロランは今日で三ヶ月目だ。おかげで使用人たちの覚えも良く、今ではお目付け役も離れているほど。
(まぁ、気持ちは分かるけどな。許されるなら俺だって――)
「……ロラン」
唐突に話しかけられて、ロランは少し慌てた。動揺を表に出さないよう、ゆったりと腕を組む。
「ん、なんだ」
「最近、ロマンス小説を読んだの。身分違いの男女が駆け落ちする、最近流行りの話」
「ああ、なんだか流行ってるみたいだな。そんなん読むのかお前?」
「お付き合い」
「なるほど。で、どうだった?」
「無駄な時間を過ごした」
「情緒の欠片もねぇ感想をどーも」
「情緒のある感想って、たとえば?」
「は?」
「あなたは、身分違いの恋とか、駆け落ちとか、してみたいと思う?」
ロランは何故かどきりと跳ねた心臓に戸惑って、窓の向こうに目をやった。豪奢な庭園が広がっている。今は薔薇の盛りで、窓を開ければ気高い香りがいっぺんに押し寄せてくるだろう。
自然の色彩で気を紛らわせ、ようやく答える。
「思わないね。小説は駆け落ちしたところで終わりだが、人生はその先がある。その先はどう考えても苦労ばかりで、不幸になるのがオチだろうからな」
「それが情緒のある感想?」
「現実的だと言え」
冷めた口調で言い返しながら、ロランは部屋の中に視線を戻した。平静を装ってはいるが、どうしてこんな話をし始めたのかまったく理解できなくて、心中は穏やかでない。
リリアーヌは変わらぬ無表情で、テキストに目を落としている。ロランは手のひらの上を転がされているような気になって少し苛立った。
「今度の日曜、お茶会があるの」
「ふぅん」
この家の“お茶会”は半ばリリアーヌの演奏会になるのが通例だ。
「何を弾くんだ」
「何を弾いてほしい?」
ロランは眉を顰めた。リクエストされることなど初めてである。
「そうだな、この時期なら」
「時期とか考えないで。あなたが一番聴きたい曲」
リリアーヌが顔を上げる。エメラルドの瞳がロランを射抜く。
「……子犬のワルツ」
考える前にぽろりと零れ落ちたタイトルは、最初にリリアーヌが弾いていた曲だった。はしゃぎながら駆け回っている子犬の姿を写しとったような、可愛らしい曲。その可愛らしさに見合わぬ難しさは、まるでリリアーヌのようで。
リリアーヌはふふんと鼻で笑った。
「可愛らしい選曲。似合わないわね」
「うっせぇな、早く続きをやれ」
「お見合いなの」
息を吸う間も与えられなかった。動揺するには空気も理解も足りていなくて、ロランはただ硬直する。この場合はそれが功を奏したかもしれない。
「もうほぼ決まったようなものよ。日曜に会って、正式に決まったら、あなたも解雇されるわ」
「あっそ」
話を聞いているうちに動悸は静まった。ロランは無愛想に返す。
「良かったな、お前みたいなピアノ馬鹿にも嫁ぎ先があって。いや、来てくれる婿か? ひとりっ子だもんな」
「ええ」
リリアーヌが軽く頷いたのを最後に、ふと会話が途切れる。
ペンの音も、ページをめくる音もない。
「私を抱えて走ってちょうだい、他に誰もいない愛の巣まで」
「は?」
「小説のセリフ」
びくりと飛び跳ねた心臓がおかしな位置に収まりそうになって、ロランは咳き込んだ。
「あら、大丈夫かしら」
「……変なこと言うんじゃねぇよ突然」
「あなたでも驚くことってあるのね」
「当然だろ、俺は人間だぞ」
「私だって人間よ」
リリアーヌは人形じみた表情のままペンを置いた。
「本気で言ったら、あなたは走ってくれる?」
「それも小説のセリフだろ」
彼女は答えなかった。ただエメラルドの瞳を真っ直ぐロランに向けている。
ロランは猛烈な勢いで走り出した心臓の手綱を無理やり引いた。半ば引きずられるような形になりながらも、どうにか制御に成功する。
声が震えていないことを確認しながら、いつものように。
「アホなこと言ってんじゃねぇぞ。誰がお前なんかのために走るか、バーカ」
「そう」
「ほら、とっととやれ。今日のノルマはそこまでだ」
「早く終わったらピアノ弾きに行っていい?」
ロランは反射的に言おうとした言葉を直前で変更した。
「いいぞ。行け」
「いいの?」
「ああ」
深く頷いてみせた。
(どうせ解雇されんだからな。それなら、彼女の音色を、白黒の道の上を走る指を、心ゆくまで堪能したい。……お前が走るのに俺はいらないだろ。お前はひとりで走っていける)
その次の月曜日、玄関先でロランは解雇された。丁重なお礼と給料を得たが、リリアーヌにはひと目会うことも許されなかった。
出ていく前に、使用人がこっそり教えてくれた。お茶会でリリアーヌは『子犬のワルツ』しか弾かなかったらしい。誰が何を乞うても、決して、頑なに。
ロランは門を出るまで歯を食いしばって歩いた。門を出て、路地を曲がって、そこでようやく息を吸う。
「っ、ああああああああっ!」
押さえきれない叫びが口から溢れ出て、ロランは走り出した。走る他に気持ちを抑える方法が思いつかなかった。
(抱えて走って逃げて、それでどうなるっていうんだよ! くそっ! ……これで良かったんだ、これで……畜生!)
青年の足は石畳を叩く。その音はどたばたと重たく乱暴で、優美なワルツとは程遠い。
その音楽を遠くに聴いて、ピアノの前に座った人形はそっと涙を流した。
おしまい
あなたのワルツ 井ノ下功 @inosita-kou
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