『大地の果てを目指して』(KAC20212:走る)

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『大地の果てを目指して』

 太陽でさえ冷たい汗をかくような炎天えんてんの空の下を、男はひとり黙々と走っていた。


 すべるように大地を駆ける男の身体には、触れるだけで灰燼かいじんすかのような熱風がたえず吹きつけている。


 しかし、男はかまわず走り続けた。


 全身を湯水ゆみずのように流れる汗をぬぐいながらも、その足を止めることは決してない。


 なにが男をそこまでき立てるのであろうか。


 いったい男はどこを目指しているのだろうか。


 ひとえに、男は知りたかったのだ。

 この大地の果てには何があるのかを。


 かつて男がまだ少年であった頃、そのことを村中むらじゅうの者たちにいてまわったことがある。


 村の大酒呑みは言った。


『んなもんおめえ決まってるだろ。行き止まりだよ、行き止まり。大地にかぶさった天蓋てんがいにぶつかるだけだ』


 少年は思った。


 なるほど。であれば俺はその破片はへんを持ち帰ってやろう。末代までの家宝かほうとするのだ。


 幼なじみは言った。


『おれたちのいる大地はすごくおっきな人が支えてるだよ。山のようにおっきな人がね。だからその人の指があるのさ』


 それもいい。ならば俺はその巨人の爪をぎとってきてつるぎにしてやる。


 少年はずっと夢見ていた。


 いつか必ず自分の眼でこの大地の果てを見ることを。そしてそれがどうなっていたのか村の者たちに教えてやることを、少年は夢見ていた。


 それから少年はすくすくと成長し、いつしか質実剛健しつじつごうけんな男になった。


 村の誰にも負けない立派な体躯たいくに成長した男は、けれど少年の頃から変わらない無邪気むじゃきな想いを胸に、村から駆け出した。


 ——大地の果てを目指して。


 以来、男はただひたすらに前だけをみて進みつづけた。


 愚直なまでに、走って、走って、走り続けた。


 草木を焼き尽くすような灼熱の太陽も、岩石がんせきまで洗い流すような豪雨さえも、男のあゆみをさまたげる障害とはならなかった。


 そうしていくらかの歳月さいげつが流れたある日、男はとある村にたどり着いた。


 その村を見た男はすぐに違和感を覚えた。


 まわりの家々の配置。

 村のはずれに見える大きな杉の木。

 背後につらなる山の形状。


 なぜか見覚えがある気がした。


 ……まさか、そんなはずはない。


 胸中きょうちゅうに渦巻く疑念をふり払うかのように、男は村の奥へと走り出した。


 そして、ひっそりとたたずんでいた一際ひときわ見覚えのある家の中へと飛び込んだ。


「——おお、久しぶりだなァ。なんだよ、帰ってたのか。どうだ、大地の果ては見つかったか?」


 ……。


 ……いや、まだわからない。


 先ほどの光景は、何年もひとり走り続けた寂しさがゆえに見えた幻覚、幻聴であったに違いない。


 それから男は思い出した。この事態を確かめるすべとなりそうなモノの存在を。


 それを見れば、きっとここがよく似た村にしか過ぎないと証明できるはず。


 いのるような思いで村のはずれへと足を進めた男は、果たしてそれを見つけた。


 しかし、その結果は男にとってあまりにも無情むじょうなものだった。


 男が見つけたのは、村はずれにある大きな杉の木につけられた幾つもの小さな切り傷。


 ナイフのようなもので刻まれたそれは男の幼年時代、幼なじみと互いの背の高さを競ってつけた傷の跡であった。


 ——ああ、もう間違いない。ここは、俺の住んでいた村なのだ……。


 男は諦め、困惑こんわくした。


 俺は、大地の果てをめざしてただひたすらに前に進んでいたはずだ。


 それなのに、いったいどうして村に戻ってきてしまったというのか。


 気づかぬうちに、進路を逆にしていたとでもいうのだろうか。


 答えの出ない様々な問いが、男の脳内を駆けめぐっていく。


 だがひとつの揺るがない事実として、大地の果てを目指していたはずの男は、出発地点へと戻ってきてしまったのである。


 絶望が男をおそった。


 どんな自然の脅威にさらされても決して折れることのなかった男の心と足が、砂のようにさらりと崩れ落ちていく。


 男は、立っていられず、木にもたれかかるように座り込んだ。


 かたく目をつむった男の頬を、綺羅星きらぼしのような光の粒が流れ落ちていった。


 どうして、どうして、どうして……。


 あの苦しみながらも走り続けた年月ねんげつの全てが無駄になってしまったという悔恨かいこんの念だけが、男の身体の隅々までを水のように埋め尽くしていく。


 もう男には立ち上がる気力は残っていなかった。膝を抱えた姿のまま、男は時の流れからとり残された石像のように微動びどうだにしない。


 こうして大地の果てを目指した男の旅は、かくも無残な形で終焉しゅうえんをむかえたのである……。


 ……だが、ふいに男は柔らかな光を感じた。母に抱きしめられたような優しい光の感触。


 顔をあげて見ると、地平線に沈まんとする太陽からの光だった。


 男のにじんだ視界にひろがるのは、黄昏たそがれに染まった大地。


 幾度となく眺めその果てに想いをせた光景。


 太陽が沈み、登っていく空。


 大地の果てへの道しるべとなってくれていたはずの光……。


 そのとき、男はふと天啓てんけいにも似た気づきを得た。


 ——まさか……いや、そうだとすればこの状況にも説明がつく……。


 冷え切っていた男の心がふつふつと煮えたぎってくる。全身に力がよみがえってくるのを男は感じていた。


 ——確かめるすべは、ひとつしかない!


 男は立ち上がり、また走り出した。


 村を飛び出し、岩盤がんばんのような気力を持って、男はひたすらに真っ直ぐ走り続けた。


 走って、走って、走り続けた!


 以前と同じだけの年月が過ぎ、やがて男はふたたび村へとたどり着く。


 だが男の顔に驚きの色はない。


 それどころか、大樹に切り傷の跡があることを確かめた男の顔にはまろやかな笑みが広がっていた。もう絶望に襲われることもない。


 男は理解したのだ。大地の果てについてを。


 それから男は幼なじみの家へと向かった。自分の発見を伝えるために。


 すっかり壮年の姿となっていた彼は、こころよく男を迎え入れてくれた。


「はは、おまえのつらを見ればわかるぜ。とうとう大地の果てをみてきたんだなァ。教えてくれよ、大地の果てにはなにがあったんだ?」


 興味深げにたずねてくる幼なじみに向かって、男はただ一言答えた。「村があった」


「へぇ村が……意外だな。で? そいつはいったいどれくらいのところにあったんだ?」


 ほがらかに笑う幼なじみの問いに、男は人さし指をまっすぐ下に向けて答えた。


「あん? なんだよ……まさかお前、大地の果ては地面の下にあったとでもいうじゃねえだろうな。それとも昔おれが言ったように、ほんとに巨人が支えてたっていうのか?」


 困惑する幼なじみをよそに、男は自信に満ちた声で言った。


「——ここだったんだ。俺のいる場所こそが、大地の果てだったんだ!」


 だがもちろん、幼なじみは男が何を言っているのかを理解できなかった。


 幼なじみがいくら説明を頼んでも、男はここが大地の果てと言って地面をさすばかりで、言葉をなくした猫のように多くをもくしてかたろうとしない。


 いつしか幼なじみはあきれて、理解することを放棄した。


 それから男は村のほかの者たちにも、大地の果ての場所を指し示した。だがひとりとして男の真意を理解できるものはいなかった。


 ゆえに、男は残りの生涯を、ホラ吹き者として村人から嘲笑ちょうしょうされることになった。


 しかし、男はそれでも村の者たちに主張し続けた。


 なぜなら、大地の果てを目指して走りつづけた男は、確かに知ったのだから。


 ——自分のいる場所こそが、大地の果てだということを。


 時は、この大地が球状であると証明される二千年前のことであった。



(完)

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