チーターの心臓があったなら

戸松秋茄子

本編

 ドーベルマンの便器代わりにされた後、屋敷の裏庭でボスの前に転がされた。


「自分がなぜ死ぬことになったかわかるな」


 ボスは嗚咽混じりに言った。顔を上げなくてもわかる。ボスは泣いている。麻薬カルテルのボスが滂沱の涙を流している。



 頭上で撃鉄が起こされる音が聞こえた。


「地獄の最下層で氷漬けにされてるルシフェル糞ったれとよろしくやるんだな。裏切り者同士気が合うだろうぜ」


 ああ、これは本当に死ぬらしい、と他人事のように思いながら、俺は目を閉じた。


   1


 お嬢を殺したのは、彼女とチーターを見に行った日のことだった。


 前日の夜、隠れ家のテレビで陸上最速生物チーターの全力疾走を見たお嬢はその虜になってしまったのだった。


 ――ねえ、いいでしょ。動物園に連れてって。


 俺は彼女に自分の身の上を思い出させてやった。いまあんたは追っ手から身を隠してるんだってな。


 ――チーターを見て帰るだけ。寄り道はしないから。


 ダメなものはダメだと諭したが、聞かなかった。


 翌日の朝、俺はまだ寝ぼけてるお嬢をライトバンの後部座席に隠れさせて隠れ家を発ったのだった。


 お嬢は動物園に入場するとまず、園内マップを凝視した。チーターまでまっすぐ向かうためじゃない。一番遠回りになるルートを考えていたのだった。


 けっきょく、お嬢はキリンだとかゴリラだとか、道中のあらゆる動物に目を止めては俺に写真を撮るようせがんだ。


 ――チーターなんて見たくないわ。だって、見たら帰らないといけないんでしょ?


 挙げ句の果てにそんなことを言い出す。


 俺はお嬢を一刻も早くゴールへと導くべく、チーターがいかに素晴らしく気高い生き物かプレゼンした。お嬢がぐーすか眠ってる間にスマホで調べた、にわか知識だった。


 ――わかった。そこまで言うなら見てあげる。


 チーターの展示場は少し開けた草原のようになっていた。客はそれを高い位置から見下ろす。


 黄色い毛並みに黒い斑点模様。ほっそりとした体型に、ちょこんと小さい頭が乗っかった、言わばモデル体型のデカい猫。それが四頭いて、おいかけっこや木登りに興じてみたり、ごろんと横になってくつろいでいたりした。


 ――チーターは幸せなのかしら。


 お嬢はお目当てのチーターを前にしても特にはしゃぐことはなかった。


 ――陸上では一番速い生き物なんでしょう? それが自分の能力をろくに活かせないこんな場所に閉じ込められて、不満はないのかしら。


 そこでふたたび、にわか知識の出番になった。俺は解説する。


 チーターは陸上最速である一方、大型肉食獣のヒエラルキーでは最弱に位置し、しばしば仕留めた獲物を置いて逃げること。


 そうした性質から野生の個体の生存率は低く、人の手で保護しなければ絶滅するだろうと言われていること。


 ついでに、猫みたいににゃーにゃー鳴くこと。


 ――それじゃあ本当に大きい猫ね。たしかに、こういう場所で守られて生活する方が幸せなのかもしれない。


 夢を壊したのではないかと不安になったが、お嬢は続けて言った。


 ――でも、あれだけ速く走れるんだからきっと心臓は強いんでしょうね。きっと健やかに生をまっとうできる。それだけでも十分幸せね。


 お嬢は自分の左胸に手を当てた。を庇うようにして。


 ――もう終わりにしましょうか。がいるんでしょ?


 俺は頷いた。園内を回っているとき、絶えず付きまとってくる怪しい人影に俺も気づいていた。一人ではなく、複数だ。


 気づかないふりをしながら撒く算段を考えていたが、お嬢はもう諦めがついているらしい。俺はひとつ息を吐き、振り返った。白いジャケットにパナマ帽姿の色男がこちらに歩いてくる。


 ――お戻りください、お嬢。



   2


 ――ねえ、ここから連れ出してよ。


 お嬢は屋敷のプールサイドで言った。


 ――パパは狂ってるわ。人の命をなんとも思ってない。ここにいたら、わたしもきっと同じになっちゃう。他人の命を食い物にする化物に。


 何度断っても無駄だった。お嬢は高潔なだけじゃなく、人を見る目がある。屋敷に詰めるゴロツキの中から、自分の望みを叶えてくれる人間を的確に選んだ。つまり、俺を。


 俺は守衛の隙をついてお嬢と逃げ出した。そして、事前に手配した隠れ家にお嬢を匿い生活すること一週間、とうとうボスの猟犬どもに捕まったというわけだ。


 ――取り押さえろ。


 パナマ帽の男――ホセは数人の部下を伴っていた。彼らに俺とお嬢を拘束させる。来場客はみな見ないふりだ。ここではこういうことがまかり通る。


 園外の駐車場に、キャデラックが止まっていた。ホセは部下に命じ、俺たちをキャデラックに詰め込むと、自分は対面の座席に脚を組んで座った。


 ――まったくお転婆がすぎますよ。


 車が動き出すと、ホセは言った。


 ――薬がいつまで持つかもわからないのに。この国には、生きたくても生きられない子供が掃いて捨てるほどいることをご存じないようだ。


 ――あなたもそういう子供だったんでしょうね。自らの臓器や春を売って小銭を稼ぐ子供。そして、あなたは手を汚すことで生き残ることにした。


 ――お嬢。あなたはまだ子供だ。父親がどこの誰で何をしていようと、あなた自身が手を汚されるわけじゃないんだ。責任を感じなくていいんです。それは大人の仕事です。


 ――それはただの理屈よ。あなただって、最初に手を汚したときは後悔したはず。でも、次第に何も感じなくなった。そうでしょ? わたしはそうはなりたくないの。


 ――なら、カルロスこいつのことも少しは考えてほしかったものですね。あのボスが、愛娘の命を危険に晒した男を生かしておくとでも?


 お嬢は膝の上でスカートを握りしめた。


 ――それは――


 そこで、お嬢は胸を両手で押さえつけ屈み込んだ。苦しそうに喘ぎはじめる。


 ――お嬢! 薬はどこです!?


 ――い……や……


 お嬢は苦しそうに言った。


 ――このまま死ぬおつもりですか! くそっ、カルロス! 薬はどこにある!?


 俺はすでにズボンのポケットからピルケースを取り出そうとしていた。


 ――……だ……め……


 お嬢はなおも抵抗する。


 ――いいから、お飲みになってください!


 ホセは俺からピルケースを引ったくると、錠剤をひとつ取り出し、お嬢の顎を押さえて無理矢理口を閉じさせた。次いで、車内にあったエビアンをお嬢の口に流し込む。


 俺は息を飲みながら見守っていると、口から水を垂らしたお嬢と目が合った。その瞬間、お嬢の顔に笑みが浮かぶ。


 計画通りね。


 そう伝えたかったのだと思う。


 ――収まらないぞ!


 ホセはふたたび苦しみ出したお嬢を支えながら叫んだ。


 ――おい、カルロス。どうなって――


 そこで何かに気づいたように、振り向く。


 ――お前、何を飲ませた。


 ここで、何の毒か教えたって意味はないだろう。そういう意味のことを俺は言った。


 ――わたしは屋敷ここを出たらもう帰らない。


 お嬢は逃避行の打ち合わせ中に言った。


 ――だから、彼らに捕まったら発作が起きた振りをする。ピルケースはあなたに預けておくわ。あなたはそれに薬に見せかけた毒を入れておいて。わたしは抵抗するふりをするけど、最終的には、あなたか、捕まえに来た誰かの手からそれを飲まされる。そして、わたしは死ぬ。これは、そういう計画よ。それでも協力してくれる?



   3


「でも、なんでだ」その警官は言った。「なんで彼女はそこまでして死にたがった」


 俺は警察病院のベッドに横たわっていた。俺が殺されようというとき、警官隊が屋敷に乗り込んできて、派手な争いになった。ボスをはじめカルテルの構成員の多くが死に、そうじゃない者は手錠をかけられ覆面パトカーで連行された。


 嘘みたいな奇跡で、俺は助かったのだ。とはいえ、俺はすでに廃人同然の状態で、歯も抜かれていたので喋ることもできない。尋問は鉛筆と紙を渡されて進んだ。学校にも通えなかった俺はつたない言葉で答える。


 ――彼女の父親、麻薬カルテルのボス。


「それが?」


 ――。ボス、やろうとしてた。違法に、彼女と同世代の子供の心臓で。


「彼女は、その臓器を受け入れたくなかったと?」


 俺は頷いた。


 ――きっと生きたくても生きられない子供、犠牲になる。彼女、言った。家族のために自分から、あるいは家族に強いられて。あるいは単に強制的に。


「なら、なんで彼女に伝えなかった」もう一人の警官――ホセは言った。「組織は間もなく、捜査の手が入る。君の父親は投獄され、臓器の手配ができる立場ではなくなると」


 俺はよっぽどボスを裏切りそうな顔をしていたらしい。お嬢はそれを見抜いて声をかけてきたし、ホセもそうだった。彼は俺に自分が潜入捜査員であることを明かし、協力を求めたのだった。


「お前は俺にも相談せず彼女と逃げた。逃げるのはまだいい。荒事が起こりかねなかったことを考えるとな。だが、お前は彼女に伝えられたはずだろう。君の寿命は残り少ないかもしれないが、誰の命を犠牲にすることもないし、もしかしたら正規のルートで臓器を移植することだってできたかもしれないと」


 ――お嬢、動物園のチーターと同じ。塀の中にいるからこそ自由、求めた。親に反抗した。でも、本気でボスが捕まったり死ぬの、願ってなかった。ボスの愛情、本物。庇護も、必要。その喪失、彼女は耐えられない。


「だから、そうなる前に死なせた?」


 ――長い人生なら、いい。立ち直るだけの時間、ある。でも、お嬢は? 彼女にどれだけの時間が? 立ち直ってもそこからどれだけ生きられた? 俺は思った。あそこで彼女が望んだ形で死なせてやるべきだった。


「ふざけるなよ、おい!」ホセは俺の襟をつかんだ。「お前はそんな身勝手な感傷で子供を殺したのか!」


 地元の署の警官が止めに入り、ホセを俺から引き離した。


「なんでだ。なんでお前がそこまでする」ホセは嘆くように言った。


 ――さあな。人の命を食い物にする生き方に嫌気がさしたんじゃないか?


 そう言いたかったが、俺は口をふごふごさせることしかできなかった。

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