空腹狂想曲
祥之るう子
空腹狂想曲
そう店長に宣言された私の脳が、思考能力を取り戻す前に、彼は店長に向かってこう言った。
「先輩、餓死するんじゃないっすか?」
何とも失礼な発言を、まるで真っ当な議題か何かであるかのように、手を挙げてまでサラリと言い放ったのは、私の隣に立っている厨房担当の青年――小林くん。
黒いポロシャツに、長めのカフェエプロンをして、頭にはベージュのキャップという、この店の制服姿の彼は、世の中が感染症で大騒ぎになる半年前に採用された新人調理担当だ。
小林くんと同じ服装の、三十代後半の女性店長が、ブフッと吹き出した。
店長。失礼です。
私は、この店が開店したときからここのフロアスタッフとして働いているので、ここに努めてもうまもなく七年になろうとしている、小林くんの大先輩だ。
つまり、彼が「餓死する」と言い放った「先輩」とは、私のことである。
「しっ、失礼な! 私は立派な社会人です、ご飯くらい自力で食べれます!」
必死に反論すると、小林くんは片眉を上げて私を見下ろしてきた。
クッ……! 年下のくせに……! さすが身長ひゃくはじゅうはっせんち……!
身長順で前から五番目より後ろに行ったことのない私には、とうてい届くはずもない高みから見下ろす小林くんを、私は精一杯見上げることしかできない。
悔しい!
何が悔しいって、小林くんの言うとおりなのだ。
実は、世間がロックダウンの可能性を噂し始めた頃から、私にはこっそり不安でたまらずにいたことがある。
それは、他でもない。
ご飯のことなのだ!
「だって店長」
話題を進めようとした店長を遮って、小林くんがなおも食いついた。
「先輩、大学生の頃からここでバイトしてたんですよね?」
「今はちゃんと正社員です! フロアリーダーですっ!」
たまりかねて口をはさんだが、小林くんは私をちらりとも見ない。
「一人暮らし始めてからずっと、うちのまかないで食いつないできたって言ってたじゃないっすか」
ぐうの音も出ない。
そう。私は、料理が絶望的にできないのだ。
しかし、この日の朝礼でのこのやり取りが、私のハートに火を点けてしまったのだ。
ロックダウン前の最後の営業を終えた、我が愛しの職場から帰宅した私がしたことは、ネット検索だった。
苦笑いしながらも心配してくれていたらしい店長が、三日分にはなるだろうと大量に持たせてくれた、まかないやピクルスが入った保存容器をありがたく冷蔵庫に入れながら、片手でスマホを操作する。
適当に冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶をのみつつ、検索したのは「オシャレ 料理 レシピ」である。
この休業期間中に、いっぱいおしゃれなお料理を作って、小林くんを見返してやる!
鼻息も荒く検索して、出てきたのは『意外とカンタン! おうちで作れるカフェランチメニュー』とか、『おうちでイタリアン!』とか、良さげな記事の数々。
「ふんふん、フランス料理だって~! いいじゃない……あ、これ美味しそうだな~」
画面に並ぶ色とりどりのお料理の写真に、胸が踊る。
「これ良さそう~!」
よし決めた!
まずは「牛肉の赤ワイン煮込み」を作るぞ!
明日はスーパーに材料を買いに行こう!
そう決めて満足すると、私はホクホクした気持ちで眠りについた。
見てろよ、小林くん。
そして翌朝。
さて今日はまずは材料を揃えるところかな……と思いながら、店長にいただいたまかないのピクルスと、フレンチトーストを食べながら、寝グセでボサボサの頭のまま、昨日作ろうと決めておいたレシピを開く。
そして材料の「牛肉」を読んだところで気づく。
「待って。私エプロンもってないわ」
お料理といえばかわいいエプロンじゃない?
オシャレでかわいいエプロンがあれば、やる気も倍増だよね!
さっそくいつも愛用している通販サイトを開く。
かわいい~! オシャレなエプロンてたくさんあるね~!
こうしてみると本当にオシャレだな~!
すごく楽しい!
楽しいぞお料理!
ふとモデルさんが履いているルームシューズに目が行く。
これめちゃくちゃかわいくない? もこもこであったかそうだし! いいじゃんいいじゃん!
と、次に目がいったのはヘアターバン。
このボサボサの寝グセを、かわいくヘアターバンでまとめてお料理とか、こ慣れ感が最高じゃないですかっ?
画面下の「これを買った人は一緒にこんなものも買っています!」の欄に、レシピノートというかわいいアイテムを発見。
わ~これに自分で作ったお料理のレシピをメモしていくんだ!
そういうの憧れる~!
ふむふむ、付箋とか使ってるのすごいそれっぽい!
付箋も可愛いやつないかな~!
エプロンとヘアターバンとルームシューズとルームウエア、それからレシピノートと付箋とカラーペンのセットとボールペンと、その替芯、ついでにかわいいキッチンマットと食器セットを注文した。明日には届くらしい。楽しみ!
って、もう三時間もたってる!
えーと何だっけ? そうそう牛肉の煮込みね、牛肉。
ていうか、このまま食材も注文しちゃえばいいんじゃない?
レシピのサイトを開いて、もう一度よく見る。
「うえ。なにこれ、すごい材料の種類……これが本当に『意外とカンタン!』なの?」
ちょっと別のにしようかなとおもったけれど、『意外と』だもんね。きっと『こんなにたくさんの種類の食材を使うから、さぞ難しいだろうと思ったけど、意外と簡単だった!』ってヤツなんだよ! うん!
「えーと、牛肉と、赤ワインでしょ? えーとそれから、ろーりえ、たいむ……」
ローリエとかタイムってハーブでしょ? 知ってる知ってる。店長が育ててるやつの仲間でしょ?
「えーとそれから……ドライトマトと、玉ねぎと、セロリと、マッシュルーム、にんにく……」
多いっ! 覚えきれない!
手帳を開いてメモ欄にペンでメモしていくことにした。
しかし、牛肉の赤ワイン煮込みでしょ? 牛肉でしょ? 野菜いっぱい入り過ぎじゃない??
これ牛肉と野菜の赤ワイン煮込みじゃないの?
ようやくメモし終わったので、通販サイトを開いて食材を検索。
そしていきなり壁にぶち当たる。
「待って? 牛ヒレサイコロステーキ四千八百円……松阪牛切り落とし二千九百八十円……高い高い高い……! ていうかこれ贈答用なんじゃ?」
慌てて画面をスクロールするも、出てくる肉はどんなに安くても二千円超えの高級肉ばかり。
「……みんなお肉どこで買ってるの?」
頭痛がしてきた。
「あ! これだ! 価格で絞り込み! ゼロ~五百円っと」
ようやく素晴らしい解決策に出会うも、そこに並ぶのはなぜか牛肉の入ったレトルトカレーだの、牛肉の佃煮だの、加工食品ばかり。
それでもめげずにスクロールして、ようやく五百円の海外産の牛肉切り落とし肉を発見。
大喜びでポチる。
「次は赤ワインか」
今度は学習したから、価格帯で最初から絞り込んでっと。おお! 赤ワインはいっぱいあるわね! いいぞいいぞ!
この調子でオリーブオイルや塩だの胡椒だののスパイスを無事に注文完了。
ハーブはちょっと見つけにくかったけど、一番上のおすすめを適当にチョイス。
野菜を選ぶ頃には疲れ果てていて、さらに画面に出てきたのは「お野菜産直パック」なるもので、一種類ずつ売るというより、いろんな野菜がたくさん入ったものだった。
「もういいや疲れたし。何とかなるでしょ」
と「お野菜産直パック」をぽち。
気付けばもう午後三時。
いつもならランチが一段落して、休憩も終わって、そろそろディナータイムの支度を始めるころかな。
オレンジ色になり始める冬の空を、マンションの四階の窓から見つめた。
「小林くんは、さぞ美味しいお料理を作ってるんだろうなあ」
思わず呟いてしまった。
ぐう。
お腹が鳴ったので冷蔵庫へ。店長が持たせてくれたまかないは、まだある。ありがたくいただこう。
と、そう言えば、注文した食材はいつつくのかな。
私は、ベッドに放り投げたスマホを持ち上げて、通販サイトからの大量の「注文確定メール」を見返した。
☆☆☆★★★☆☆☆
「ようやく、全部、届いた」
すべての食材が届いたのは、店長からもらったまかないが底をついた、休業四日目の朝だった。
「よし! 今日はできたてのお料理を食べるぞ!」
心に決めて、数年ぶりにキッチンに立つ。
かわいいルームウエアに、ヘアターバンでゆるかわいくキメた髪。かわいいルームシューズ。全部ふわふわ素材で、アイスクリームみたいなパステルカラー。ふふふ、最高だわ。
エプロンはデニム地で、胸当てがあるタイプ。腰でひもをくるっと回して、前でリボンを結ぶ。お店のエプロンとはちょっと違って、新鮮な気持ちになる。
レシピは、昨日既に届いていたレシピノートに、カラフルかつかわいく書き写しておいた。完璧だわ!
さあ作るぞ!
数年ぶりに、ワクワクしてキッチンに立つ。
――そして私は気付いた。
今更気付いてしまった。
この事実は、私を絶望の淵においやった。
あまりに酷い現実に、思わず買ったばかりのキッチンマットの上にへたりこんでしまった。
お腹がぐう、と鳴った。
情けなくて、涙が出る。
と、突然スマホから着信音が鳴り響いた。
ビックリして、鼻水が出た。
ヨタヨタとベッドに向かって、放り投げていたスマホを見ると、そこには今一番、見たくない名前が出ていた。
『小林くん』
しかも、LINEのビデオ通話。
「うぐっ」
なんだろう、すごく悔しいはずなのに、なんでだろう……。
気付けば私はベシャベシャに泣いた顔のまま、通話ボタンをおしていた。
『先輩、お疲れ様っす……ってええっ?』
スマホの液晶に映った小林くんは、いつものお店の厨房スタイルじゃなくて、私服姿で、サラサラの明るい茶色の髪をゆらして、目を見開いた。
「……なに? グス……」
『いや、何泣いてるんですか? まさか餓死寸前なんすか?』
苦笑いが憎たらしいんですけど!
「……そうだよ」
『は? マジ?』
「……そうだよっ! 小林くんが、私のこと、餓死するとかバカにするから! 私だってお料理してやろうと思って、今日まで三日かけて準備したんだからぁっ!」
気付けばもう、いろんなものが決壊。
涙も鼻水も、感情も、全部全部ダダ漏れ状態。
『え、ちょ、先輩?』
「なのに! 今から作ろうとしたのに!」
『はあ』
「まな板も包丁も、お鍋もなかったんだもん! うっううっうえええええええええええ」
『ブフッ!』
「笑い事じゃない~~~~ええええええええん」
一度溢れた涙は止まらなくて、わんわん泣きながら、ふと私は思った。
そう言えば、実家を出てから三日も誰にも会わなかったの、初めてだなあって。
寂しかった? 寂しかったかも。って。
『ギャハハハハハ』
「わらうなああああ」
しかし小林くん、敬愛すべき先輩がこんなに絶望して泣いてるのに、そんなに爆笑するなんて、薄情だし失礼だし、とにかくひどくない?!
『いや、すんません、でもほんとに先輩、期待の斜め上を行くっすね』
期待ってなんだよ……!
『大丈夫ですよ。俺が今から道具持って作りにいってあげますよ』
「へ?」
何を言ってるんだ?
液晶で涙目になって、笑ってる小林くんの顔に、思わずドキッとしてしまった。
こんなに優しく、笑う子だっけ?
『あ、安心してください、今店長と一緒なんで。一緒に行きますよ』
「へ?」
『店長は女性だから安心でしょ?』
「でも……」
『実は店長から、休業中に宅配弁当やろうと思うって、呼び出されて今店なんですよ。店長が先輩が飢えてないが心配だって言うんで電話したんっす。
弁当についての話し合いは一段落したし、先輩の家で俺が料理しますよ。店長、家知ってますよね?』
小林くんが画面の向こうで、後ろの方を向いて何かを話している。
『じゃ、先輩、待っててください』
「え、ちょっ……!」
『あ。その部屋着、かわいいっすね』
「へ?」
小林くんはサラリとそう言うと、にっこり笑って通話を切ってしまった。
「……はなしをきけよ……」
熱くなった頬を、冷たい両手で包んで、私は呆然と呟いた。
そして、店長と行く、という言葉を思い出して、自分でも驚きの言葉を呟いた。
「ふたりっきりじゃないのか……」
空腹狂想曲 祥之るう子 @sho-no-roo
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