おうち事案

薮坂

夫婦喧嘩


「──県警本部から水瓶署みずかめしょ。夫婦喧嘩、妻からの110番通報。些細なことで喧嘩となり、夫に物を投げられて当たりそうになった、旨の申し立て。現時点で暴行傷害のおそれはなし。現場ゲンジョウは水瓶市東町2番地の3、曽根方。地域課員は至急現場臨場の上、事案処理に当たれ。事案番号302を送信、どうぞ」


 耳に嵌めた受令機から流れてきたのは110番指令。私はそれを聞いて、今月何度目の夫婦喧嘩かと溜息を吐いた。

 気持ちよく晴れた三月上旬、それも午後二時の一番いい時間帯。仕事がなければ確実にピクニックに行っているような天気だけれど、あいにく今日は当番日。24時間勤務のお巡りさんである私は、今日も今日とて市民からの通報に振り回されていた。

 同じ無線を聞いていたであろう、少し年上の上司である苅藻かるも部長は、ミニパトのステアリングを捌きながら大袈裟に肩をすくめてみせる。


「まーた夫婦喧嘩かよ。これで今月、何件目だぁ? 夫婦喧嘩は犬も食わねぇっつーのによ」


「仕方ないですよ。こういう仕事なんですし。誰かがやらないと、でしょ?」


伊川いかわは優しいな。俺はもう憎悪の気持ちしか湧いてこねーぜ。ま、とりあえず行くか。伊川、本職に無線、吹いといてくれ」


 苅藻部長に言われるまま、私は本署へと無線を送信する。


水瓶98伊川から水瓶指令。現在、水瓶97苅藻部長と共にミニパトにて警ら中。先の無線は傍受了解。付近に居るので事案番号302の処理に当たります、どうぞ」


「事案番号302は水瓶97と98が対応、水瓶指令了解。なお、現着すれば暴行傷害の有無の確認を早急に願いたい、どうぞ」


「了解。以上98」


 本署との無線通信を終えると、苅藻部長は苦虫を噛み潰した顔で言った。もちろん視線は前方を注視したままで。


「しかしよォ、ほんっと最近多いな。この手の事案。例のウイルス関係で、在宅勤務が増えてるからだろ? 顔突き合わせてる時間が長いからつって。羨ましいよなぁ、俺らはまるで変わらねー勤務形態なのによ」


「それも仕方ないですよ。私たちがリモートワークとかあり得ないですし」


 部長のいう通りだった。例のウイルスが猛威を振るいだしてから約1年。世界は急激に変わってしまった。

 緊急事態宣言の最中、市民の在宅勤務が多くなって、いわゆる「おうち時間」が増えてからというもの、この手の夫婦喧嘩や親子喧嘩は増加の一途を辿っている。みんな強いストレスに晒されているからだろう。些細なことをきっかけに、こうして喧嘩が起こるのだ。


「……もうすぐ現着だな。伊川、とりあえず双方分離してハナシ聞くか。俺は夫、お前は妻の方を頼むぜ。同性の方がハナシ聞きやすいだろうしな」


「了解です」



 現場の集合住宅に到着してすぐ、私は薄手のグローブをはめてインターフォンを押した。もちろんマスクはずっと装着済み。こうでもしないと、苦情を受けるおそれがあるのだ。警察官が素手で部屋の中をべたべた触った、とかなんとか。本当にやりにくい世界になってしまったと思う。


 しばらくすると、インターフォンから応答があった。女性の声。「なに、どちら様?」

 明らかに気だるそうなその声に対して、私は努めて冷静に言葉を返す。


「水瓶署の警察官です。通報された方、ですよね? お話、聞かせてもらえませんか」


「……あぁ、もういいよ。喧嘩は収まったし」


「いえ、通報されているので話を聞くまでは帰れません。とりあえず、出てきてもらえませんか」


「なんで? もう良いって言ってんじゃん」


「いえ、そういうわけには。110番通報されたのはあなたですので、せめて怪我の有無は確認させて貰います」


 ……わかったよ。ぶっきらぼうな言葉を最後に、インターフォン越しの会話は終了する。苅藻部長の方を見ると、部長はおどけた調子でまた肩をすくめていた。

 と、そこでガチャリとドアが開かれる。目の前にいたのは、二十代半ばと思われる女性。私と同い年くらいだろうか。一見して怪我はなさそうだ。とりあえず安心。


「こんにちは。私は水瓶署の伊川といいます。通報された方ですよね?」


「そうだけど。喧嘩はもう終わったし、旦那には殴られてないからもういいよ。帰ってくれない?」


「いえ、お話を聞かせてください。ご主人さんは、ご在宅ですね?」


「奥にいるよ。テレビ見てると思う」


「入らせてもらいますね」


「ちょっと待ちなって。この状況だよ、勝手に部屋に入られたら困る。あんたらがウイルス持ってるかも知れないし」


「それは理解できます。それでも通報された以上、おふたりの無事を確認しなければなりません。私たちの職務ですので、どうかご理解ください」


「部屋に入られたくないって言ってんの! あんたら、仕事でいろんな人と接触してんでしょ? こっちも勢い余って通報したのは謝るからさ、もういいじゃんか。許してよ」


「──それなら奥さん、俺1人だけ部屋に入らせてくれません? 警察官2名で部屋ん中に入られるよりゃマシでしょ?」


 助け舟を出してくれたのは、隣に控えていた苅藻部長。部長はいつもの軽い口調で続ける。


「こっちも報告の義務があるんすよ。とにかくおふたりが無事だって確認できりゃいいんです。拒否されるってんならもっと大勢の警察官、寄越さなきゃなんなくなる。それは嫌でしょ?」


「それはホントにやめてほしい。こんな時期だし」


「でしょ? それか、旦那さんを外に出させてくださいよ。それなら俺たちは部屋に入らなくて済む。要は、殴ったり殴られたりがなかったことを確認できりゃいいんすよ。どうです?」


 奥さんはしばらく黙考した後。大きな声で、旦那さんの名前を呼んだ。

 面倒くさそうに出てきた旦那さんを、苅藻部長が担当する。私は奥さんを担当。ふたりを分離して、マンションの階段の踊り場と、そして部屋の入り口付近で話を聞くことにした。




 やっぱり予想通り、在宅勤務に起因する夫婦喧嘩だった。お互い罵り合いをしたものの暴行傷害はなく、そして子供もいなかった。もし子供の目の前で喧嘩をしていたら、心理的虐待で児相に通告しなければならない。それを回避できただけでもよかった。

 落ち着きを取り戻した奥さんは言う。


「このウイルスの影響でね。旦那の仕事が激減してさ。今は私の在宅勤務で生計を立ててるってワケ。なのに旦那は私に家事させて、ちょっとイライラして。文句いったら旦那もキレて、コップ投げられたんだよ。当たんなかったけど。それであたし、ムカついて110番するぞってスマホで脅したら、勢い余って本当に通報しちゃって。ほんと、申し訳なかったと思ってるよ」


 なるほど。とにかく怪我がなかっただけでいい。でも、110番通報があったのは事実だ。警察としては、このまま「はいそうですか」で済ます訳にはいかない。

 私たちが帰ったあと喧嘩が再発しないとも限らない。だからせめて、1日だけでも夫婦を分離させる。それが夫婦喧嘩処理における警察のセオリーだ。

 この場合、大抵はどちらが出ていくかで揉めに揉める。これをうまく取りなすのが警察官の仕事なのだ。なんか、悲しくなってくるけれど。


 でも今回の事案は、奥さんの実家がすぐ近くということもあり案外すんなりと私たちの要求を呑んでくれた。奥さんいわく「旦那はひとりで何もできないから、私がいないことで後悔すればいい」とのこと。

 以上で事案処理は終了。暴行傷害なし、よって事案にあらずだ。



「ごめんねお巡りさん。あたし、あんたに強くあたっちゃった。旦那にも、ちょっと強く当たりすぎたんだと思う。反省するよ」


「仕事ですから、気にしないでください」


「あのさ。明日になったら、この家に戻ってもいいんだよね?」


「もちろんです。その時はどうか、喧嘩だけはしないでくださいね。私たちがここに来た意味が、なくなっちゃうから」


「なんか、アドバイスない?」


「アドバイス?」


「旦那と喧嘩しないアドバイス。お巡りさんって、最近はこういう事件ばっかり対応してんじゃないの?」


 否定できないのが悲しいところだった。確かに例のウイルスの影響からずっと、こんな事件にならない事案処理に追われている。だからこそ、アドバイスは確かにあった。私はそれを口にする。


「……そうですね。それなら明日、この家に帰ってくる時に、美味しいお菓子を用意して帰ってきて下さい」


「お菓子?」


「有名パティスリーのケーキなんかがベストです。あとは美味しい紅茶を淹れて、ゆっくり旦那さんと食べて下さい。別に会話は要りません。ただ一緒にケーキを食べる。それだけでいいんです」


「それ、なんか意味あんの?」


「もちろんですよ。お菓子って、生きていく上で必要ないでしょ? 食べなくても別に死なない。でもそんなお菓子がずっとこの世に存在しているのは、きっとこういう時のためにあるんです。お菓子には、幸せの魔法が掛かっている。騙されたと思って、やってみて下さい」


「ふうん。じゃあ、それやってみるよ。ありがとね、お巡りさん」


 奥さんはそう言うと、颯爽と実家へ向けて歩いていく。それを苅藻部長と見送って、私は事案終了の無線を本署に送信した。



         ◆◆◆



 帰りのミニパトの車内で、苅藻部長が言う。


「俺たち、なんでこんなことしてんだろうな。やってらんねぇよ、実際」


「でも誰かがやらないと。こんな世界で、リモートワークすら許されない私たちですけど、それでもやらないと。世の中の夫婦が落ち着いてケーキを食べられる、そんな『おうち時間』を守る。それも警察官の仕事ですよね」


「……お前、すげぇなぁ。良い警察官になるよ。なんとなくそんな気がする」


「それって褒めてるんですか?」


「もちろんだ。ほら、次の事案行くぞ。次は親子喧嘩だってよ」


 部長がケラケラと笑う。私は苦笑いをする。

 世界は変わってしまったけれど、誰かを守る私たちの仕事は変わらない。そんな仕事についている自分を、私は少しだけ。ほんの少しだけ、誇りに思う。



【終】

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おうち事案 薮坂 @yabusaka

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