小さな世界
三葉さけ
小さな世界
ハハオヤはまたでかけるんだ。
ドアの音と鍵を掛ける音で子供はそう判断した。靴の音が遠ざかって消えるまで待ち、押し入れの下段に押し込まれたタオルケットから小さな体を起こした。
母親が出掛けたら何日も帰ってこないのはいつものことだけれど、食べ物があるかどうかが心配なため、冷蔵庫を覗いた。
ごはん、おいてってくれたかな。
さつまあげ、チーズ、ソーセージ、ハハオヤのオサケ。パンはあったかな。あ、なくなってる。ハハオヤがたべたんだ。
こんどはどれくらいでかえってくるかな。おこってなきゃいいな。
淡い希望を抱いてはみたが、ありえないだろうことは分かっていた。何日かあけて帰ってきた母親は、きまって怒鳴りながら手をあげるから。
それでも、食べ物がなくなって空腹になれば、母親に帰ってきてほしいと願ってしまう。家の中にずっと1人きりでいる心細さが膨らむと、怒鳴るだけの母親でも恋しくなってしまう。
1人で家にいるときは音を立てるな、何もするなと母親に厳命されている。以前、転んでお皿を割ったときは酷い思いをした。
片付けている途中で運悪く母親が帰宅し、キレた母親に髪の毛を掴まれて、床で割れた皿の破片に何度も頭を打ち付けられた。痛みに耐えられず声を出したら、口の中に靴下を詰め込まれ、母親が疲れるまで蹴られ続けた。そのあと、熱が出て何日も痛かったことを覚えている。それ以来、お皿には触っていない。
一間しかない狭いアパートの部屋には母親の服が積み重なり、ティッシュや空のペットボトルが散乱していた。それなのに、子供のものは何もない。楽しそうな写真が笑いかける雑誌や、可愛いキーホルダーが床に置いてあって触ってはいけない。触ったらどんな目に遭うか、身をもって知っている。
床に寝転がってぼんやりしていたら、散らばった菓子パンの空き袋の下から、カサコソと小さな音がした。
途端飛び起き、小さな手を勢いよく伸ばして逃げ遅れた虫を捕まえる。
げんきだな。足がバタバタしてる。こんなにバタバタしたらおこられるんだよ。ハハオヤはこうやってつまんで、グイってする。もげちゃった。オマエの足はもげないのに。ハハオヤがなんかいもつまんで、グイってしてももげないのにさ。オマエの足ももげたら、グイってするのやめてくれるかな。でも、すっごくいたくて、あるけなくなったときも、やめてくれなかったな。
床の上に虫の足が散らばった。それでも虫は、小さな手の中で触角を動かし、懸命にもがいている。
ハネもすぐやぶけるよね。オマエはハネ、いらないな。きっとハハオヤがやぶるもの。ハハオヤのツメでグイってされたら、すぐやぶけちゃう。
ゴミだらけの床の上に虫の欠片が散らばっていく。千切れる部分がなくなった虫を、床におきジッと観察する。やがて動かなくなると、つまらなさそうに欠片を集めてゴミ箱に捨てた。虫は床に置いておいてはいけない。食べるまで許してもらえないから。
空腹が我慢できなくなると、冷蔵庫からさつま揚げを出して食べた。母親が戻って来るまで、冷蔵庫にあるもので過ごさなくてはいけない。いつ帰ってくるのかわからないため、いつもギリギリまで我慢した。
カーテンを閉め切った狭いアパートの一室。起きて、ぼんやりして、たまに虫で遊び、少しだけ食べて、眠る。それが、この子の生活のすべて。
小さな世界 三葉さけ @zounoiru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます