おうちにかえろう

lager

お題「おうち時間」

 眩い夜だった。

 赤い影と青い光線。どこからともなく漂う、煙草と油脂とアルコールの匂い。絶えず腹の底に響くスピーカーの重低音。

 海藻のように揺れる人間の頭と髪。

 人いきれの中を泳ぐように渡り、フロアを抜けて狭い階段を上る。

 先ほどまで自分が浸っていた熱気の余波が足元にまとわりつく。

 蝶番の錆びた冷たい扉を開ければ、黄ばんだ街灯の奥に覗く藍色の夜空。遠くからクラクションの音。

 ひやりとした風が頬を撫で、私の髪が靡いた。

  

 私は昔から、家にいる時間が苦手だった。

 はっきりとそう自覚したのは小学生のころだったろうか。

 学校の友達が夕飯時のテレビ番組の話をしているのを聞き、食事中はテレビをつけてはいけないのではないのか、と尋ねたところ、艶やかな菓子の中に腐った果実を見つけたかのような、嫌悪と嘲笑の混じった目で見られた。

 

 私の家に、会話はなかった。

 母はただ黙って食卓を整え、私と父は黙ってそれを食べる。

 私はその日学校で学んだことを父に報告し、母は黙ってそれを聞く。

 テレビ番組は、ドラマもバラエティもアニメも観ることは許されない。

 私に唯一許された娯楽は、父の所有する小説を読むことだけだった。

 私は、それが普通の家庭なのだと思っていたのだ。

 そうでないことを知ったときから、家に帰ることがひどく惨めなことであるように思えた。


 父は多読家だった。

 小説、随筆、戯曲、詩文、古典から童話まで。色とりどりの背表紙で、父の書棚は埋め尽くされていた。

 サン=テグジュペリ。コクトー。キャロル。ユーゴー。ファーブル。鷗外。賢治。ヘミングウェイ。チェーホフ。クイーン。中也。ドストエフスキー。カミュ。漱石。


 そして、乱歩。

 私が初めて『芋虫』を読んだとき、私は学校の課題で押し付けられた蚕の飼育を思い出さずにはいられなかった。

 カイコガという生き物は、地球上で唯一、人の手によって完全に家畜化された生物なのだという。それはつまり野生に回帰する能力を失ったという意味で、彼らは人間に飼育される以外に生きる術を持たないのだ。


 狭い箱の中に閉じ込められ、ただ一種類の葉のみを与えられ、その行末は、子孫を残すために交尾をさせられるか、蛹の中で蒸し焼きにされるかの二つに一つ。

 その代わりに、外敵から身を匿われ、一生を食うに困らぬ環境におかれ、その生涯を全うすることが約束されている。


 柔らかな真白い体。

 私がその肉を指で押すと、その虫は為す術もなくただ身悶えては、ひたすらに痛苦の去るときまで耐え忍ぶことしかしなかった。

 五体を毀損し、五感を失い、ただそこにあるだけの存在となり果てた男が、毎夜妻から受ける虐待に忍ぶことしか出来なかったように。


『ユルス』


 それでも、その男はそう言い残したのだ。

 地を這う一匹の芋虫は、枝から落ちて水底に没する瞬間に、世界を許した。

 窯茹でにされる蚕たちは、自分たちの作り上げた純白の鎧の中で、一体何を思って死んでいくのだろう。

 許す、と、そう言い残していくのだろうか。


 ぼうっとしながら歩いていたのが災いした。

 私の足は大きな水溜まりを踏みつけ、跳ねた泥水がローファーを汚した。

 思わず静止してしまった思考を無理やり動かし、私はすぐ目の前に見えたコンビニエンスストアの軒下へ入った。

 ジャンパーのポケットをまさぐると、ハンカチの代わりに一枚の紙ナプキンが出てきた。先ほどまでいたクラブハウスで、二、三度顔を合わせた男に渡されたもので、彼の連絡先がそこに走り書きされていた。私はそれでローファーを拭うと、入り口前のごみ箱へ捨てた。


 そうだ、ついでに買い物を済ませておこう。

 ミネラルウォーターと、ゼリー飲料、シリアルバーを適当に見繕いレジに持って行く。

 私がこんな食事をしていると母に知れたら、いったい彼女はどんな顔をするだろうか。

 そんなことを考えてすぐ、なんて滑稽なことだろう、と私は心の内で失笑した。

 どんな顔をするもなにも、母親の顔なんて、とうの昔に忘れていたというのに。


 会話がないということは、顔を見ないということだ。

 私は、常に家の中で俯いていた。私の視界に映る人間の姿は、首から下が全てだった。

 だから、父と母の服装なら思い出せる。

 しかし、彼らの顔となると靄がかかったように曖昧で、頼りない。

 

 私は飼育されていたのだ。

 立派な家。清潔な衣服。栄養の管理された食事。

 父と母には、きっと確たる目標があり、そこへ向けて私を育成していた。それは徹頭徹尾彼らのルールによって行われるべきであって、本当ならば、学校にだって行かせたくなかったに違いない。

 しかし、彼らにとっては不幸なことに、この国では大概の家庭は義務教育を終えたところで高等教育に我が子を送り出すという、もはや制度の一部のような習慣が存在する。


 私は彼らの飼育箱を離れ、外の世界を知った。

 知ってしまった。


 諍いは、もちろんあった。

 私は戸惑い、父は怒り、母は泣いた。

 私はどうやら育て方を間違われたのだそうだ。

 彼らが注意深く、大切に育て護ってきた私の体の奥に初めて触れたのは高校の先輩で、二番目に触れたのは、教員の男だった。


 常に静寂が支配していた私の飼育箱には、いつしか父と母の争いの声が絶えず聞こえるようになり、私はますますそこから遠のくようになった。

 

 目の前の信号機が、青に変わる。

 晩春の夜風が優しく髪を撫で、私はキャスケットを被り直し、歩調を速めた。

 学校に行かなくなってから、もう何日目になるだろう。

 どこか、一つの場所に留まることが怖かった。

 教室に机を並べる学友たちの姿は、私には巣箱に押し込められた蚕のようにしか見えなかった。

 軟かな体。

 無垢の魂。

 大人たちへの供物。

 何より恐ろしかったのは、私がいつしか、それを許してしまうことだった。


『ユルス』


 古井戸に没する芋虫のように、蛹の中で焼き殺される蚕のように。

 それを許してしまうことが、なによりも恐ろしかったのだ。


 繁華街を抜け、国道を下り、住宅街の細道に入る。

 私の歩みと共に徐々に周囲から音が消え去り、遠くに響くサイレンが小さく耳に届く。

 色彩は乏しく、それでも夜の底に咲く何本もの街灯が小虫を集めては身を焦がさせ、世界に茫洋たる光を保ち続けてくれていた。 


 生ごみと尿の匂いが漂うゴミ捨て場を横切り、クリーム色のマンションのオートロックを抜ける。


 私は昔から、家で過ごす時間が苦手だった。

 でも、今はもう怖くない。


 階段を上り、二階の隅の部屋へ。

 ピッキング対策につけられた三つの鍵を順番に外し扉を開けると、饐えたような匂いが鼻腔に抜けた。

 今はもう、怖くない。

 私の帰宅をセンサーが察知し、玄関と廊下に明かりが灯る。

 そのままリビングへ行き、上着と帽子を脱いで放った私は、コンビニ袋を持ち直して寝室の扉を開けた。


 ベッドの上に、この部屋の主が寝転んでいる。

 私を抱いた、教員の男。

 その四肢を縄によって封じられ、口元を養生テープに塞がれ、首輪によってベッドに括りつけられた男が。


 私の姿を認めた男は、血走った目で私を見上げてきた。

 最後に体を洗ったのは何日前だったか、汗と垢の溜った体から獣のような匂いを放っている。

 私はそれを胸いっぱいに吸い込むと、彼に覆いかぶさり、そっと瞼を舐めた。

 ぶるぶると震える顔は赤らんで、とても愛らしい。

 そのまま耳朶を舌で擽り、無精髭の浮いた頬を撫でる。

 ざらりとした感触が心地よい。


 窓の外から、サイレンの音が聞こえる。


 男の喉仏に、鎖骨に、胸骨に、そっと口づけを注いだ。

 四肢を封じられた男の体がもぞもぞと蠢く。

 芋虫のように。

 蚕のように。


 男の放つ匂いが私の脳を酩酊させる。

 雪解けの滴りが、私と男の体を湿らせた。


 ねえ、先生。

 私を許してくれますか?


 サイレンの音が止み。

 リビングで、インターホンが鳴った。

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