Daphne odora ダフネ・オドラ_庭師の英雄

 

 ────この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません────


 ……が。


「戦場でだって恋はするし、花は咲くんだ」


 間違いなくコレは、身近に起こり得る、恋の話なのだ。







【 offering of flowers. 庭師の英雄 】




「店長。いつも花を持って来てますよね、あのイケオジ……イケジジ?」

「せめて『紳士』と言ってね」


 とある喫茶店。店内は程好くお昼のピークを過ぎて閑散としていた。

 ここ数日、この時間帯、いつも来る老紳士がいた。


 常に花束を持ち、カウンターへ座って花束を隣席に置き、珈琲を飲む。

 花束に規則性は無い。季節も特に気にしていないようで、その時々で異なる花々を、きれいな包装で纏められていた。


 紳士は店長たちの言葉が耳に入ったのか、盗み見の視線に気が付いたのか、にこりと笑った。


 店長はさすがに申し訳無くなり、紳士へカウンター越しに歩み寄って謝罪する。

「せっかくの一時を騒がせてしまい、申し訳ございません」

「構わないよ。悪口では無いのだろう?」

「ええ……その、」

「いつもご来店ありがとうございますー! 何で花束持って来てるんすかー?」


 明るい髪色の店員が店長の横に並んでやたらと騒々しく、元気に挨拶する。不躾な、どさくさに紛れた質問に店長が肘で小突く。紳士は苦笑したが気分を害した風では無かった。


「コレは妻にね。今、妻は孫夫婦と家にいるんだ」

「ああ、そうなんですね」

「へぇ。奥さん思いなんすねぇ。


 奥さん、しあわせっすね」


 店員の屈託無い発言に、紳士が困ったように首を傾げる。


「……だと良いね」

 紳士の返答に、店員と店長は不思議に思う。店長は、人にはいろいろ在るだろう、と考え突っ込むなんて無粋な真似はしなかった。


 けれど、店員の青年は遠慮が無かった。


「どうかしたんすかー? 喧嘩とか?」

 店長は再び肘で小突いた。やめろと言うのだ。二人の様子に紳士は笑って。


「そうじゃないんだ。ちょっと僕たちは複雑でね……」


 紳士は前置きをした。


「老人の、昔話だ。きっと、きみたち……特に、若いきみにはピンと来ないかもしれないけど……。


 コレは、僕たち夫婦の話だけれど。僕の恋の話では無いんだ」










「赴任して来たばかりでは在るが、遅れの無いよう努める所存だ。よろしく頼む」


 少女は、自分より随分背の高い男へ臆することも無く、上官として胸を張りそう告げた。


 白い陶器染みた肌、透き通る湖みたいな淡い碧色の瞳。白い髪に鮮やかなピンクのインナーカラーが映える、うつくしい少女。

 馨しい、香りの────。


「……“ダフネ・オドラ”……」


 嫌々徴兵されて来た元『庭師』の男は、戦場で現実味を欠いた彼女の特徴から、沈丁花ダフネ・オドラと密かに呼んだ。


 ドォンドォン、シュバババババ。文字にしてしまえば、何とも間抜けな音が、耳をつんざく。


「頭を、低くして置け。きみは図体がデカいからな」


 瓦礫と化した建物の物陰、ダフネが言った。砂と煙に覆われた視界で、ずっしりとした手の中の重さや鼻を塞いでも満たして来る臭さが、振り払おうとも現実を突き付ける。

 なのに、ダフネだけが。

「────」


 砂塵と煙が舞う世界で、体が消し飛んで何も彼もが散らばって鉄臭く汚れた世界で、切り取られたかの如く芳香を纏って。

 大男と評される自分にすら肩に食い込む鉄の凶器を、まるで持っていないかの如く、涼しい面持ちで。


 彼女だけが、ダフネだけが、やはり現実味を欠いて、戦場そこに平然と佇んでいた。








 少女は、しくじった、と思った。

 まさか自分が怪我を負うなんて。

 兵舎に在る士官用の少し広い自室で、寝台の上に寝そべりながら腹をさすって、痛みに顔を顰めつつ嘆息する。弾は貫通している。とっとと治れば良いものを、たかが触った程度で痛むなんて。


 熱まで出ているそうだ。三八度五分。幾ら鍛えようとも軟弱な己の体に、少女は腹が立っていた。


 少女は苛立ちに任せ起き上がると窓際に近寄った。

 何の気無しに窓の外を見下ろした少女は、奇妙な光景を目撃し目を見開く。


 男が一人、兵舎の中庭で木の世話を焼いていたのだ。この、戦況で配給も滞りがちな場所で甲斐甲斐しく水をやり、鋏を片手に剪定していた。

 花も咲いていない殺風景な庭で何をしているんだ……と考えるはたで脳内に在る男のデータを、少女は浚う。


 若い男は少女の率いていた隊に所属していた。平民で、貴族の家で代々専属の庭師をしていたらしい。

 仕えていた家の坊ちゃんが士官学校に行く間、自身も入隊したと言う話だ。

 この時代、よく在る話だった。貴族の子女が徴兵されたら、家の中で年の近い使用人なんかを共に連れて行かせるのは。


 主の身の回りをするため────それと、肉の盾・・・として。

 自らも貴族の一員である少女は、唾棄したい気持ちに胸元で拳を作る。


 痩せた土や木々、草花を見て庭師の性が騒いで放って置けなくなったのだろうか。荒れた庭で男は生き生きしているのが二階の窓から見ても、わかる。訓練中や戦闘中より、機敏だった、訓練や戦闘でもこれくらい動けていたら────と。


「……っ、」

 思考していると男が上を仰ぎ見た。少女が眺望していたことに気付いたのだろう。

 男は、少女と目が合うと。


「────」

 微笑んだ。




 それが始まりだった。

 少女は男を認知していたけれど、認識したのはこのときが初めてだった。




 少女は怪我の療養を理由に所属していた隊を外され、男の上官では最早無く二人の接点は切れていた。けれども軍自体は除隊していないので少女は傷が癒えるまで所属不明のまま、宙ぶらりんの状態で二階の部屋に押し込められる。志願した貴族の少女を追い出すには諸々、順序と手続きが要るのだろう。

 男は戦闘や訓練の合間に中庭へ来ていた。血や汚れは二階からだと視認出来ない。新しい上官はそこそこな年の壮年な男性で、規律さえ守れば好きなことを指せる人物だった。

 士官で在るがゆえに少女は日々戦況の報告書へ目を通し、窓辺で男の作業を眺めていた。


 奇妙な関係だった。

 言葉を交わすでも無い。

 ただ、いるだけだ。互いに、ふと目線が絡むくらいの、間柄。


 血腥ちなまぐさい日常は建物や報告書、着替えもせず来ただろう男の格好など、そこかしこでひしひしと感じるのに。


 少女は二階から出られず、男は木々の世話をして。

 まるで、ここだけ切り取られたみたいだった。


 静謐の空間。二人だけの時空。


 だが突如として、穏やかな非日常は分かたれることになった。




 少女の正式な除隊が決まった。戦況がこれ以上悪化し帰還不可になる前に強制送還になったのだ。

 大嫌いで居場所が無くて、逃げ出した家から手紙が届いた。

 曰く“もう役立たずなのだから、意地を張っていないで帰って家のために結婚しろ”とのことだった。奥歯が軋むのを止められなかったから、手紙は暖炉に焚べた。


 少女は士官だったので、下士官たちへ向けて去る前の挨拶と激励をすることになった。

 何を言ったか憶えていない。まぁ、それなりに良いことを言ったはずだ。多分。


「祖国を野蛮な蹂躙から守るためにも、勝利は絶対条件だ。戦果を期待している」とか何とか。


 少女は象徴アイドルとして人気が在った。軍での自分の価値なんて少女もわかっていた。実力は二の次。だので、然して怒りもせず群がって残念がる者たちに笑顔で対応した。


 背を向けた去り際、疲れ切って溜め息を静かに吐いていると呼び止められた。

 振り返ると、元庭師の男が立っていた。手にスケッチブックを持っている。

「……」

 無言で差し出され、受け取る。

「あの庭に在った花木を描きました。自分が好きなものを厳選しました」


 中庭は、結局何も咲かなかった。寒い気温と戦場特有の空気の悪さに閉じ籠ってしまったのかもしれなかった。

 だから、咲いたときにどんな花を咲かすのかと言う絵を描いたのだと。

 本物を見せられなかったから。

「見せられたら、少しはお目を楽しませることも出来たんですが……」

 男は、照れたように笑った。少女も、ふ、と口元が綻んだ。


「ありがとう……きみも、達者で……必ず勝って、無事に帰って来いよ」

 少女の鼓舞に男は頷いた。少女が手を出し握手を求めるとコレには、おずおずと握り返した。


 こうして、少女と男は分かれた。何のことは無い、呆気無く、味気無い離別だった。




 国に帰った少女を待っていた父親は労わるより先に、小言を食らわして来た。


 ただ、帰ったばかりの少女がすぐ嫁ぐことは無かった。外聞を気にしたのか、些少は心身共に傷を負った娘へ気遣ったのか。

 単純に、戦中で父親の満足行く相手が見付からなかっただけかもしれない。


 明るいニュースと暗いニュースがくるくるステップした新聞やラジオで彩られる、鬱屈とした空気で少女はスケッチブックをよく開いた。

 白紙で黒の濃淡で男が描いた樹木や花々が、少女を慰めた。


 霓裳蘭シンビジウム昇藤ルピナス金魚草アンティリナム・マユス百日紅クレープマートル御柳擬カルーナ待雪草クリスマスローズ。絵の端に名前が記されていた。

 実みたいなものや、可愛らしい花、草に咲くもの、木に咲くものと様々だった。


 自宅の庭師に確認したところ全部、初心者にも育て易く、ある程度放置しても生き残る種類だそうだ。

 兵舎の中庭だったし、敢えてそう言うものを選んだのだろう。


 男のスケッチブックは、失敗したのか最後までの数ページが破られていた。

 少女は指でなぞっては、“この数枚には何が描かれていたのだろう?”と思索した。


 男が国に帰って来たら、捜して、訊いてみようかと思った。

 絵の花木の色も聴いてみたい。


 贅沢や不謹慎を嫌う風潮で多少は慎ましくなったものの、何不自由の無い生活で少女は特別不満を抱くことも無く。

 安穏とした毎日を送っていた。


 そうして、戦争は終結した。


 少女は、男の訃報を人伝てで、聞く。


 霓裳蘭シンビジウム昇藤ルピナス金魚草アンティリナム・マユス百日紅クレープマートル御柳擬カルーナ待雪草クリスマスローズ

 スケッチブックの中、想像した色を乗せて鮮明に感じられた花木が、急速にモノクロに戻ってしまった気がした。




 終戦して三箇月後。父親が一人の青年を連れて来る。

 少女の心中もお構い無しに、父親は宣した。


「この方が、お前の結婚相手だ」


 青年は貴族の次男坊で。

 戦場では幾つもの戦果を挙げた功労者で。

 最後は指揮官としても国を勝利に導いた『英雄』。


 お前の婿には勿体無い程の相手だと。

 望まれなければ、到底、婚姻なんて有り得ないのだと。


 目の前の小ぎれいな、着痩せしているのか細身の優男が、戦火を潜り抜けた『英雄』?

 僅かに鈍いところは在っても、体が大きく力も在ったあの男は、死んだのに?


 嘘みたいに見えるが、普段偏屈な父親の絶賛を聴くに、真実なのだろう。

 家名も、耳にしたことが在った。どこで、かは不明だけども。


「初めまして」

 玲瓏な声。手袋を脱いで差し向けられた白い、きれいな手。


“見せられたら、”

 あの、庭師の男とは、似ても似つかない。まさに正反対だった。




『英雄』の青年は、少女の家に日を空けず、やって来た。

 半日いても少女から話し掛けることは無かったが、問題にならなかった。

 青年がずっと、喋り続けるからだ。

 話題を振っても、少女が返すことは少ない。答えても、応答とは程遠い、相槌だと言うのに。

 青年は『英雄』なんて厳めしい称号とは、無縁そうな微笑を湛えていた。


 なぜか、その笑顔だけは、あの庭師の男に似ている気がした。




 逢瀬を重ねるだけで婚姻の話が進まないまま、月日だけが積もって逝く中で、とうとう父親が我慢の限界に達したようだった。

 使用人を通さずとも、遠くから見ても、少女に問題が在るのは明白で。

 父親は、少女を叩いた。平手打ちだったにも拘らず少女は吹っ飛んで床を転がった。父親の体格が良過ぎたのか、少女の筋力が軍属を辞めて衰えていたのか……気力が無く、抗う気が無かったせいか。

 頬を押さえ、床で座り込む少女へ、父親が罵声を浴びせた。


 いつまで反抗心で拗ねるのか、あんなに好い相手はいない、棄てられたいのか。

 お前は、傷物・・だと言うのに。


 少女の傷は、従軍していたときに部下を庇って出来た傷だ。少女は、なので一切、恥じるものでは無いと考えている。

 貞操で言えば、純潔は保たれている。口付けすら、したことは無い。

 見える部位で無し、日常生活にも支障は無い。

 だとしても、父親には、傷物なのだろう。




「ひどいですね」

 青年が、訪ねて来たとき、頬は未だ腫れていた。化粧でメイドが隠したのだが、『英雄』の目は誤魔化せなかったみたいだ。

 事情を問われ、のらりくらり躱そうとしたけど無駄だった。流れるように顛末を白状させられてしまった。

 やはり『英雄』だけ在るのだろうか……。投げ遣りな少女の口が、軽薄だったのか。


 青年は、ふむ、と小さく首肯して、腕の袖を捲った。今は手袋に包まれている例の、きれいな手が袖を捲り上げて行く。

 肘の上辺りで止められた。

「ぁ……」

 青年の肘下、三センチに境目が在った。両手に手袋をしていたのは、コレを隠すためだったのだ。

 片方の無機質な銀色を、隠すために。


「……ぁ、の、」

「時間が必要だったのは、僕のほうだったんです」

 座りましょうか。青年が促す。少女の部屋で、テーブルを挟んで少女と向かい合わせに着席した青年。


 元より肩書の『英雄』とは縁遠そうな青年の微笑みは、涙は無いのに、少女の瞳には泣きそうに映った。


「僕はこの腕といっしょに、たいせつな乳兄弟も亡くしたんですよ」







 青年が士官学校を出て、配属された地には乳兄弟が待っていた。

 乳兄弟、とは言ったもので、ただの友人とも違った。

 幼少期はそれこそ、もう一人の自分の気さえしていた。育つ内にそんな幼い勘違いなど、消えたけれども。


 恵まれた体躯に比べ、気弱でとても戦地なんて似付かわしくない、気性の男。

 植物を愛で、大きな手で慈しんで……どんな花が咲くのか本を捲ってスケッチするのが好きな、庭師をしていた男。

 青年は男に、自分の志に付き合わせてしまって申し訳無かった。

 平民と言え、生まれたときから共に育った乳母の一人息子だ。


 一応、一人しか嫡子がいない場合兵役は免除された。

 貴族も平民も。国としては、敵国に国力を見せ付ける意味も在ったのだろう。

 蔓延する雰囲気が、ゆるしてくれるかは別としても。


 腕を拡げ、力いっぱい着任を歓迎して労ってくれる乳兄弟に、青年は負い目を感じていた。

 ゆえに、乳兄弟が、そこそこの戦績を残していると知って耳を疑った。


 昔は分身みたいに思っていた男。青年が士官学校に行くまでも、以心伝心で互いの思案は手に取るように察せたのに。

 青年は、地を走り回り武器や戦車を操る男を見て、初めて見る男と錯覚した。

 無事に基地に着いて、兵舎に返って。許可を取得済みで中庭をいじっているの目にして、安堵したのも束の間。

 胸のポケットを撫でて相好を崩す、あの男は誰だろう?


 青年は男のことが、わからなくなった。

 だけれど、ささやかなことだと打ち消していた。

 だって乳兄弟の男は相変わらず青年を支えてくれたし、青年の思うように動いてくれたのだ。

 戦場でも。違和感を抱いてしまうくらい、過ぎるくらいに。


 ある日、違和感は、無視するには育ち過ぎた。


 気を取られて、空白が生まれて、判断を誤った。


「────……!」


 光、爆風、衝撃。

 ……の、前に、引かれた腕、圧迫。




「……ぁっ────……っっっ!」

 痛みで視界が復旧しても煙で周囲が判然としなかった。

 だけど。


 圧し掛かる重み、が、体を起こした途端に……ずるりとずり落ちて。

 青年は己が、乳兄弟に庇われていたことを知る。


 青年は、男の体で守られて動く片腕で男を抱えて瓦礫化した建物の物陰に逃げ込む。男を抱き合う体勢で頭を守りながら、声を「おいっ、おいっ!」掛け続ける。

 男は辛うじて「あぁ……」返事した。虫の息とはこう言うものか、と思わせる吐息と変わらない声量に、青年は泣きそうになった。

 こんな青年に、男は「怪我は……無いか」と尋ねる。今度こそ泣いてしまいそうだった。

 青年が振り絞って「大丈夫だ」答えると男は笑ったのが、洩れた息で感じ取れた。

 しばらく、ドォォーンドォォーンと、轟音と同時に地面が揺れた。青年は男へ喋り続けた。男は声で応じたり頷いたり手に力を入れたり、答えていた。


 やがて音と振動が止み、静寂が支配する。残されたのは、微かな呻き声だ。自分たち以外の攻撃を受けた兵士だろう。

「攻撃が止んだ。もう少し、もう少し頑張れ! 救援が来るはずだ!」

 青年の励ましに男は頷いた────「────ああっ……!」────けれども。


「……誓ったのに! 必ず勝って、無事に帰って来いと言っていただいたのにっ……!」

 ぜいぜいと、苦しそうな息遣いの合間に男が吐き出す。


「祖国を蹂躙させないために……勝利を……っ、あの方を守るために! 絶対なのに! 俺は……!」

 くぐもった声音を溢れさせる、男が青年の襟首を掴んだ。引き寄せられる。


 とんでもない力で、覗き込んでいた青年は更に腰を折り男に顔を近付ける羽目になる。

 満身創痍で呼吸も絶え絶えなのに、どこに力が在るのだろう?


「……頼む……祖国に勝利を……あの方に……勝利を……」

「“あの方”……?」

「お願いだ、あの方が害されることが無いように……踏み躙られることが無いように、勝って守ってっ……! 俺には、もう……」

「おい、何言ってっ……」


 切々と訴える乳兄弟は、泣いているみたいだった。


「勝利を、俺が、あの方に……」

「……」

「……。いや違うな、……違う……」

 乳兄弟は一息、置いてブツっと切って。


「勝ち負けじゃ、ないんだ」







「“花を”」

「花?」

「“勝ち負けなんて関係無く争いも無く、花を、好きなときに、好きなだけ愛でて、贈りたい相手に贈りたい人が贈れる世界だったら……

 スケッチブックに描いたもの以外にも、あの方に見せたい花がたくさん在ったんだ”」

「……」

 青年はスーツの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。


「最期まで、胸ポケットを気にして押さえていました」

「……」

 広げられた紙に息を飲んで瞠目した。


「戦地でまで植物の世話をしていた彼が、一番愛して守りたかった『花』は、あなただったんでしょうね」


“あの方が害されることが無いように……踏み躙られることが無いように、”


 幾分か色が変わってしまっていたけども、あのスケッチブックのものと同質の紙に描かれていたのは、自己の姿だった。

 破れ目を撫でる。破れ目を合わせなくても瞭然だった。

 一枚の裏には、文字の羅列が在った。


 黄金花月ダラープラント花桃プラナス・パーシカ忘憂草ヘメロカリス玻璃茉莉デュランタ玉簾ゼフィランサス匂桜ルクリア


 ……スケッチブックへ描いた以外にも見せたかったと言う、花木だろうか。


 スケッチブックの数ページに描かれた花は、自分自身だったと、少女は知った。


「っ……」

 男の訃報を聞いても、涙は出なかったのに。それは、深い付き合いじゃなかったからだ、と思い込んでいた。

 ならば、この零れ落ちる水滴は、何だと言うのだ。絵に染みないよう、手で拭うのが精いっぱいだった。


「……僕を、憎んでくださって構いません」

 少女は青年の思わぬ発言に、自然と下向き加減になってしまった顔を上げた。

「僕を恨んでください。そのために、来たんです」


 恨んで良い、憎んで良い。

 こうして、少女が生きてくれるなら。


「だけど、そばには置いてください。あなたを守るために」

 害されることが無く。踏み躙られることも無く。


 彼の望んだように、たくさんの花を見て。

 たくさん、咲けるように。




 聞いたことが在る家名のはずだ。青年の乳兄弟が、あの、男。

 庭師の、男。

 面持ちが、ところどころ似ているのだって、当たり前だった。











「壮絶な話っすね」

「そうだね。……でもね。昔はそこらに在る話だったんだよ」

 今もどこかではね。紳士は悲しげに笑った。


「で、奥さんは……」

「このあとウチに呼んで庭を見せたんだ。彼が出征最後まで手入れしていた庭だ」

 彼の父親が引き続き世話をしていた庭は、見事に花々に満ちて。


 色褪せた時期が終わったことを、知らせていた。


「庭を見て決めたらしくてね。籍を先に入れて、翌年、式を挙げた」

「ほぉ……凄ぇロマンス……あれっ、でも……そうなると奥さん、庭目当てで結婚したことになりません?」

 店員の余計な一言に、店長がついに盆を振り被りそうになった。


「ははは、良いんだよ。僕にとっても狙いだった訳だし……彼が、願ったことだったんだから」


 暗い双眸だった。

 会ったとき。彼が大事にしていた絵の少女なのに。

 粛々と戦争に抑制されていた街より、錆びて色が抜け落ちてしまっていた。


 コレが。


 絵を見せたとき、光が灯って。

 庭を見せたとき、輝いた。


「僕は、それだけで、良かったんだ」

 紳士は皮手袋をちょっとだけ捲り、時計を見ると花束に手を伸ばした。


「良い時代になったよね。昔に比べて簡単に他国に出入り出来るようになった。物の流通も良くなったし、会いたい人に会えるようになったし……。

 花も、好きなときに欲しい花が手に入るようになった」


 季節くらい気にしろ、と言われそうだけどね。花を手にお会計を、と紳士は席を立つ。


「戦場でだって恋はするし、花は咲くんだ。けどね、僕は今の世界のほうが好きだよ。────英雄は僕じゃないんだ。今の世界を望んだ、彼だったんだよ。


 僕は、託されたものを叶えようと奔走したに過ぎなかった」


 ただ一つの『花』を愛し、守りたいと思い、花で満たすことを希い、戦禍に荒らされない世界を願った。


“『庭師』の『英雄』”


 誰も知らない、青年と少女だけの『英雄』。

 だけれども、きっと花の数の分、他にもいるんだろう。

 名も無き『英雄』は。







「凄い話でしたねぇ」

 紳士が退店したあと、店員がカップを洗いつつ零す。店長は豆の在庫を確認していた。

 袋の後ろに印字された産地は国内だけでなく国外も明記されていた。

「……。お客様も仰有ってたけど、今もどこかで起きていることだよ」


 あれ程の大戦は数十年、起きていない。だが、この見識は店長の範囲でのみの話だ。

 現在でも、うつくしい景色が吹き飛ばされるのが一日通常の人は、いる。


「……俺、今日、花買って行こうかな」

「あ、今日だっけ。恋人が来るの」


 店員には恋人がいた。海の向こうで、留学中に知り合った人だった。

 今でも、チャットやメールでのやり取りを欠かさない。

 この恋人が、旅行で渡航して来るのだ。


「そうなんですよー……いやぁ、信じられないっすよね」

「何が?」

「だって、ほんの数十年前には相手の国と自分の国で戦争してたんですよ。なのに、今の時代は恋人になれるんですもん。凄くないですか?」

 店員がカップを洗う手を止め、組み合わせて語る。

 何やら感じ入って酔い痴れているみたいだが、店長は嘆息する外無い。


「もう、良いから。ほら、あと一時間しない内に夕方のラッシュだよ! 準備準備! 手を動かして!」

「ぅ、……はぁーいっ」

 仕切り直すみたいに手を打ち鳴らす店長に、急かされるように店員も食器を片付け、忙しい時間帯に向けてスタンバイする。


 豆の在庫をメモし終え、発注書と睨めっこしていた店長が不意に「……。まぁねぇ……」洩らした。


「きみみたいな子がこうやって働いて国外で恋人作って、その恋人に花束を用意しよう、なんて考えられる。


 確かに、平和なのかもしれないね」


 少なくとも、この国では。店長は肩を竦めて仕事に戻った。







「何だ。沈丁花は無いんだな?」

「ぇ、?」

「それ、お前のことだから帰国したら世話したいリストだろ? 皆、手間が掛かりそうな……だけど、無いんだな、沈丁花。

 一等、好きな花だろうに」


「あ、ああ……良いんだ。


 がんばれば、一番に、見ることになるから……」




   【 了 】

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offering of flowers. aza/あざ(筒示明日香) @idcg

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