プリズン・ケージ

佐渡 寛臣

プリズン・ケージ

 玄関の扉がぎしぎしと音を立てて開く。月光と、街燈の薄明かりが線を作るように室内に差し込み、しんと湿った紺青の空気が淀んで見えた。


 電気をつけ、私は大嫌いな赤のヒールを脱ぎ捨てて、洗面台に駆け込み口を洗う。顔をあげて、鏡に浮かぶ派手なメイクを睨みつけ、手早く化粧を落とした。

 ワンルームの部屋の中、オフショルダーのワンピースを脱ぎ、ブラを外して裸のままベッドへ飛び込み、もそもそと毛玉だらけのスウェットに着替える。


(――この後、抜けない?)


 私の胸元をちらちら見ていた男が、不意に二人きりになった瞬間に言った言葉が脳裏をよぎる。眉間に醜く縦の皺が刻まれる。

 ため息が、大きく吐き落される。


 いらいらと募るストレスに私は髪をぐしゃぐしゃに掻いて頭を振る。しばらくそうした後に、ベッドから這い出て、デスク前の黒の皮張りの座椅子を軋ませて、パソコンの電源を入れた。

 すぐそばに置かれたミニ冷蔵庫からビールを一缶取り出して、プルタブを上げる。空気の抜ける音。パソコンが立ち上がるまでに一口、喉へと流し込む。


 視線の片隅に、ラッピングされたプレゼントボックスを虚ろに眺めた。先日買ってしまったネックレス。


「――丁寧にラッピングまでしちゃってさ……」


 独り言ちて、濃いアッシュグレーの髪を後ろで束ね、私は慣れた手つきでパソコンを立ち上げ、SNSを眺めていると、チャットアプリから着信が響いた。私はスマホにイヤホンを繋いで通話を繋ぐ。


「もしもしマリナ、おかえり」


 高い声音がイヤホンに流れる。聞きなれたユゥの柔らかい声質。その後ろで踏切の警報音が響いていた。いつも通り、ユゥは『家出』をしているようだ。


「しもしも、ただいま。ユゥ、今外?」

「――外、マリナは何してる?」


 短いやり取り。少年特有の通話越しに聞くと男女とわからぬ声が私は好きだ。


「――今夜はどうするの? 行く当てあるの?」


 わかっていて、聞く。これもいつものこと。ユゥがいつも私の家の近くで時間を潰していることも、わかっていて、私は知らない振りをして聞くのだ。

 

「ないから、もうマリナの家のそば。入って良い?」

「ちょっと待ってて。鍵開けたげるから、外でいい子で待ってなさいな」


 パソコンデスクのプレゼントボックスを見えない位置に隠して、たっぷり時間を使って、ビールを一口飲む。外でぽつんと言われた通りに待つユゥの姿を思い浮かべなる。


 ほどよく時間を置いてから、扉を開くと私とそう背の変わらない、少年が立っていた。茶髪のボブカット、黒縁の芋臭い眼鏡に黒のパーカー。そんな如何にも陰鬱な雰囲気の少年を部屋へと迎え入れた。



「――聞いてよ。最悪だったんだけど」

「今日、合コンって言ってたね」


 ――優しい、ゆぅの声。少年特有の声変わり前の声が耳に響く。


「そそ、お猿さんばっかりだったわ。あんまり派手な格好はやっぱ駄目だね」


 吐き捨てるように言いながら、パソコンデスクへ向かい、チェアに腰かけ、ちらりとプレゼントボックスを見やる。私はそれを無視して座面をローテーブルの方へ向けた。ユゥはテーブルの上の化粧道具を片付けて、買ってきた牛丼を広げた。


「あの恰好で行ったの?」

「そだよ。――んでさぁ、もう一軒どう、とか二人で抜けない、とか、お持ち帰りする気満々だった」


 狡い女だね。と心の中の私が囁く。顔は笑って、目ではしっかりとユゥの表情を追う。ユゥはこちらに目も向けず、食事の箸をただ動かす。


「そういうのが嫌なら、行かなきゃいいのに。ああいうところに行くのは下心あってのことでしょ」

「――頼まれたら、断れないじゃん。わたし、小心者だし」


 行かないでって、子どもみたいに言ってくれたらいいのに。私はユゥの綺麗な横顔を見ながら思う。まだ少年のつるりとした白い肌。でもユゥは私にそんな要求が出来ない。出来ないことも私はわかっている。


「それで前は流されて、お持ち帰りされたんでしょ。――君子危うきに近寄らずだよ」

「それ言わないで。最大の失敗なんだから」

「――だったら尚のこと、近づかない。僕と一緒。親が荒れてる日は帰らない。それがベストだって」


 ユゥがスマートフォンを操作しながら食事を続ける。私はそれがつまらなくて、ひょいとスマホを取り上げた。


「私んちに転がり込んどいて、お説教とはいい度胸じゃない」

「何? 構ってほしいの?」


 ――そっちこそ、構ってほしいくせに。でもそうとは言えないユゥをわかるから、私は仕方なく、場所を移動し、ユゥの隣に座る。

 ユゥから、いい香りがする。わたしの香水とは違う匂い。


「ユゥ、香水変えた?」

「――うん、いつものところの新作。結構気に入った」


 甘い、女性の香り。きめ細かいユゥの肌を眺めながら、私はユゥの肩に頬を乗せる。ユゥはそんな私に構いなく、食事を続け、箸を置いた。

 ――甘えてあげれば、ユゥが悦ぶことを私は知っている。知っていて、そうしてあげるから、ユゥは私の家にやってくる。


「私も好きな香り。いい感じね」

「だと思った」


 食事を終えたユゥの膝に身体を預け、彼の顔を見上げる。ユゥはいつもしてくれるように私の髪を撫でた。


「――ユゥ、着替えなよ」


 私の脱ぎ捨てた服を指さして囁くように言う。胸の奥がぞわりと影が這うような感覚が支配する。ユゥのとろりとした目が私を見下ろし、私はユゥの膝の上でそれを見上げ、見つめ合った。


「じゃあ、化粧、してくれる?」

「したら、着替えてくれる?」


 こくりと頷くユゥ。私は身体を起こして、化粧道具を取り出して、ユゥの肌に優しく化粧水を染み渡らせる。ユゥの肌に合わせて買った、化粧下地とファンデーション、コンシーラーにアイシャドウ。自分のをするより丁寧に、私はユゥの顔に化粧を施す。

 私の服に袖を通したところで、ユゥが目を細めた。


「マリナも着替えておいでよ。写真撮ろうよ」


 頷いて、私はわざと目の前で着替えてみせる。だけどユゥは目を瞑ってしまって、こちらを見もしない。


 私たちは向き合う。ピンクのチークが愛らしい、可愛い女の子がそこにいた。

 二人並んで、スマホに写真を撮る。近づく身体に、重なる香り。派手さを抑えた甘いメイクの私たち。それはまるで姉妹のように思えた。


 ユゥと出会ったのは半年前。


 合コンで友人がホテルに持ち帰られて、付き合いで私も持ち帰られた日の翌日だった。

 友人はその彼と付き合うことになり、私はまたしよーねの一言で別れを告げ、人生のしょうもなさにうだうだと夕暮れ時の公園でひとりブランコ遊びしていた。


 そこにやってきたのがユゥだった。その時も今と同じ、黒縁眼鏡に黒パーカー。背格好から中学生か高校生くらいだとわかっていた。

 陰気な少年がぼけっと公園のベンチで時間を潰していて、いい加減ブランコに飽きたわたしは、気まぐれに少年に声をかけたのだ。

 しょうもないと思った人生よりも、どうしょうもない人生を送っているユゥと、連絡を取り合うようになった。

 そうして公園での逢瀬を重ねるうちに、家に来るようになったのが二か月前。


「――化粧ってどうするの?」


 ユゥがそんなことを聞いたのが先月のことだった。それで面白がって化粧をしてあげた。髪をヘアアイロンで整えて、調子に乗って服まで貸してしまったのが私の運の尽きだった。


 私のおうちは二人の秘密基地になった。決して誰にも知られていはいけない、誰にも言えない秘密の場所。

 私のしょうもない人生は、どうしょうもない人生に変わってしまった。


「どうしたの?」

「――うぅん、なんでも」


 ぼんやりとする私をゆぅが覗き込む。眼鏡を外した、ユゥの綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。


 あの日から、私は男が猿にしか見えなくなった。


「今日も泊っていく?」

「――今日も泊っていくよ」


 それでもユゥは私を抱かない。その一線を越えてしまったら、私はもうユゥに会えないとわかっているから。ユゥもきっとそれをわかっていて、それで互いに試すように、確かめるように近づいては離れてを繰り返す。


「ここにいる間は時間が止まればいいと思う」


 鏡を見つめて、不意にユゥが呟いた。

 ――私も。と答えてしまいそうになるのを堪えて、脳裏に浮かんだデスクの片隅のネックレスから意識を逸らす。

 まだ子どもの、ユゥをこんなにしてしまったのは私なのだ。目の前の愛しい姿のユゥは、きっといつでも私に身を投げる気でいるのだ。


 だから、今日も私ははぐらかす。互いに決して身体は許さず、けれど心は開いて縛り。

 思わせぶりに、互いに誘い、素知らぬ顔で惑わせ合い。




 寝静まるユゥの頬をそっと撫で、私はプレゼントボックスを一人で開いた。ハートのペアチャームのネックレス。月明かりの差し込む部屋で、私は独りで涙を落とす。


 ――付き合いで、男に身体を許した日。

 ベッドの中で、こんなものかとあっけなく思ったことを思い出す。何かを失ったつもりもなく、適当に笑って適当に誤魔化して、またしよーねと言われた日。


「――馬鹿……馬鹿馬鹿……」


 今頃になって、今さらに私の心が傷ついたことを知ったのだ。私の心を置いてけぼりで、身体を捨ててしまった。泥水の中に転んでしまったようだと気が付いてしまった。


 強がっていたのだ。大人になったと、子どもではないのだと、そういう付き合いだってあるんだと。


 だから、穢れないユゥに惹かれてた。私を穢さないユゥが好きだった。だけど結ばれてしまえば、きっと泥だらけに汚してしまう。


 私は独りで涙を落とす。分かっていても離れられないように、ユゥの心を縛り続ける私がいる。離れてしまわないように、離してしまわないように。


 ――狡い女だ。私は狡い。


「……マリナ?」


 ユゥの寝ぼけた声が聞こえて振り返る。私は涙を拭い、ユゥの髪を撫でる。そっとその細い手を取り、微笑を浮かべる。


「なんでもないよ。――おやすみなさい」


 私とユゥのふたりの時間。

 このおうちの中だけで止まる二人の時間が、どうか赦されますように。

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プリズン・ケージ 佐渡 寛臣 @wanco168

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