ハングドマン

不立雷葉

ハングドマン

 ユラリ、ユラリと揺れている。

 風もないのに揺れていた。

 カーテンレールにぶら下がる、人の形をした肉の塊が揺れている。

 それは私の体だったもの。


 明かりもなく、締め切った部屋の中。隙間風もないのに、どういうわけだか小さく小さく揺れていた。

 三日前、首吊り自殺を敢行してから、私はずっと私の肉体の前で蹲り私だったものを見上げ続けていた。

 死ねば何も無くなるとばかり思っていた。それか、仏でも死神でも何でもいいが”お迎え”がやって来るものだと思っていた。それとも四十九日が経たないとダメなんだろうか。どうでもいい。


 私は無くならなかったし、どこにもいかなかった。きっと幽霊というやつにでもなったのだろう、アパートの一室の中でこうして蹲って揺れる体を見上げ続けていた。

 毎日毎日、鏡の前で見続けた私の顔だが、こうして離れてみると印象が異なる。

 目は大きく盛り上がっているようだったし、大きく開いた口からは長く伸びた舌がだらしなく垂れ下がる。不出来な道化師のようだった。

 笑えそうだが笑いはしない、そんな気分ではない。

 何もする気が起きず、何かを考えようという気も起きない。ただただ死体を見上げ続ける。


 もう腐っているのだろうか。

 人は腹から腐ると聞いた事がある。私の臓腑は腐りきり、ガスを放っているのだろうか。スーツを着込んだ私の体、衣服の下では餓鬼のように腹が膨らんでいるのだろうか。

 ブーンブーン、と震える音がした。


 板張りの床の上に捨て置いたままにしていたスマートフォンが震えていた。画面には勤めていた会社の番号が表示されている。

 ずっと眺め続けていた死体から電話へと視線を移した。手を伸ばしはしない。画面を光らせ震え続けるスマートフォンを眺めるだけだ。

 そのうちに震えが止まり、部屋の中に静寂が戻る。

 すかさずまた震えだした、映されているのは同じ番号だ。始業時刻を過ぎても私が姿を見せないので、同僚の誰かが掛けているのだろう。

 また止まり、また震える。


 しばらくそれを繰り返したが、スマートフォンの電池が切れた。

 暗くなった画面は鏡のように部屋の景色を写しだし、カーテンレールに吊られている私の亡骸を表面に浮かび上がらせる。

 けれどもそこに、蹲る私の姿は写らない。


 理解はしていたが画面に写らないことでようやく実感を得られた気がした。

 そこからまた、小さく揺れる私だったものを見上げ始めた。

 ずっと、ずっと、視線を離さずに見つめ続けた。朝も、昼も、夜も一時も目を離さない。見た目の上での変化は無かった。


 けれどもその服の下、肌の下は変わっているのだろう。

 顔の皮膚は真っ白だが、靴下に包まれている足先はどす黒く膨れ上がっているに違いない。腹の中はガスが溜まって膨れているに違いない。大きく開かれた口は腐臭を放ち続けているに違いなかった。


 私の感覚が正しければ、それは金曜日の夜のはずだった。

 多くの人々が一週間の働きを食で労うその時間、部屋のインターフォンが鳴らされた。何度も何度も鳴らされた。


 ピンポン、ピンポン。


 部屋の中に電子音が響き渡る。玄関ドアの向こう、人の気配と話し声がした。

 私は動かない、玄関に視線を向けもしなかった。変わらずに蹲ったまま死体を見上げ続けていた。

 玄関ドアが叩かれる。


「いるのか? いるなら返事をしろ!?」


 焦りを帯びた大声が聞こえてくる。上司の声だった。

 慙愧の念が込み上げてくる、彼は私に良くしてくれていた一人だった。相談にも乗ってくれた、だというのに結果はカーテンレールにぶら下がっている。

 彼もまた原因の一つかもしれない。けど私はそう思っていない、選んだのは私なのだ。縄を買い、カーテンレールを最期と定めたのは他でもないこの私。

 叩く力が強くなる、私は動かない。カーテンの隙間から漏れてくる僅かな明かりを頼りに、下がる肉体を眺めている。


 ガチャリ。


 鍵の回す音がした。意外な音に振り返る。

 入ってきたのは男が二人。一人は上司、一人はこのアパートの大家だった。

 二人はすぐに吊り下がる私の肉体に気付いたが、その足元で蹲る私の姿には気付いていない。きっと見えていないのだ、何故なら私は幽霊だから。

 上司はその場で崩れ落ち、その隣で大家は声にならない声を上げ、すぐに電話を取り出した。

 救急車を呼んだのだとすぐに分かった。


 そこからはあっという間、やって来たのは救急隊員だけでなく制服姿の警官が数人。

 警官たちは写真を撮り、発見者である私の上司と大家に事情聴取を行った。内容は聞こえていない、聞く気がしない。

 蹲ったまま、カメラのフラッシュに照らされる、私の肉体を眺め続ける。

 しばらく経って救急隊員が私の肉体をカーテンレールから外し、担架に乗せて運び出す。そこで私はようやく立ち上がった。


 私の肉体だ、惜しむつもりもないが離されたくはなかった。

 担架に運ばれる私の体のあとを追ってみたが、部屋の外に出られなかった。玄関ドアを越えた先、敷居を跨ごうとすると見えない壁がある。

 腕だけは外に伸ばす事が出来たが、体は透明な壁に阻まれて部屋の外から出る事が出来なかった。なるほど、地縛霊というやつか。

 この部屋に思い入れがあるわけではない。就職した数年前から住み始め、ほとんど寝るだけだった部屋だ。家具も最低限あるだけで、思い入れのある物を置いているわけでもない。


 ただそれでも、数年の間住み続けたのだ。知らない間に愛着、というやつが湧いていたのかもしれない。

 肉体の後を追えなかったのは残念だったが、所詮はただの肉の塊だ。私は私としてここにいる、未練は無く部屋の中へと戻る。

 窓際、カーテンレールの下、肉体がぶら下がっていたその下にまた蹲る。何もない宙空を眺め続ける。もうそこにないというのに、揺れる体が見えるようだった。


 一時は騒がしくなった部屋だったが、すぐに静かになった。後にはこの世ならざる者と化した、鏡に写らぬ私だけが残される。

 最低限の家具に囲まれた中、静寂に包まれて私は大の字に横になった。冷たく固いフローリングの感触はない。肉体が無くなったせいなのだろうか、視覚と聴覚はあっても触覚は無くなっているらしい。


 けれど、何も考えずに済む。

 望むものが手に入った。何者にも犯されぬ虚無、それこそ私の求めるものだった。

 迫り来る数多を受け止められず、逃げ出す事も叶わず、押し潰されるままになっていた私が求めていたもの。静寂の空間。

 ずっと、ずっと天井を眺め続けた。表情は無かったに違いない。


 何度か朝と夜が繰り返された後、玄関ドアが開けられた。

 やって来たのは作業服姿の男が数人、彼等は無言で部屋の中の家具を運び出してあっという間に空にしてしまった。

 家族、ないし誰か親族や友人でもやって来やしないか。そう思ったが来る筈がないだろう。私の肉体はここにない、どこかで行われた通夜と葬式には来ているだろうが。


 私の知らない場所、私のために経が読まれたに違いない。

 あの世に逝けますように、成仏できますように、と。

 涙を流してくれただろうか。多分、流れているだろう。だがどうでも良い。

 私に涙は見えないし、経も届かない。

 極楽にも地獄の行かず、私は空っぽの部屋の中で横たわり、天井を眺め続ける。

 暗くなり、明るくなり、また暗くなる。繰り返される昼と夜。


 求め続けた平穏と安寧が手に入った幸福な実感に包まれながら過ごしていると、時間の感覚も無くなってゆく。

 首を吊ってから何日が経ったのだろうか、季節は移ったのだろうか。天井を眺めてしかいない私には分からない。

 そうして過ごしていく中、薄れてゆく、としか言いようのない感覚があった。足の先、手の先、体の末端が少しずつ消えてゆくようだった。目にしていないため、実際には分からない。


 最初は痺れがあり、何も感じなくなってゆく。

 なるほど、人はこうして消えるのか。妙な感慨が胸に去来する。首吊り、自殺をしても人は幸福のままに消えられるのだ。こうして満ち足りたまま無くなれるのだと、そう思うと追われ続けた人生も悪くなかったのでは、そう思える。

 余裕があるからなのだろう。今の私は、きっと微笑を浮かべているはずだ。


 だがその静寂と平穏に満ちた最期を迎える事は出来なかった。

 空の部屋に新たな来訪者があった、着飾った女だった。金色に染められた髪、ぶ厚い化粧、飾り立てるアクセサリーの数々。派手な女が、作業服に身を包んだ男たちを引き連れてやって来た。

 何事かと、つい驚いて立ち上がる。無くなっていたはずの体の末端、手足の感覚が蘇っていた。消滅が遠のいたのか、そう思うと体の内側が黒く染まるようだった。


 女に連れられた男たちは箪笥や洗濯機、冷蔵庫などの家具や家電を部屋に運び込んで配置してゆく。そこでようやく気付いた、この女は新たな入居者なのだ。

 ここは私の部屋である、誰にも邪魔されない干渉を許さない終の聖域であるはずだった。しかし、そんなわけはない。

 私の部屋はただの空き部屋だ、幽霊がいるなんて誰も知らない。人死にがあった事故物件というだけの事、きっと家賃も安くなっている。それを魅力と捉える者がやって来てもおかしくない。


 聖域は侵された、部屋の中はピンクを基調とした雑貨で飾り立てられ、四六時中テレビが付けられバラエティ番組の下品な笑い声が響き渡る。静寂とはほど遠い。

 手で耳を塞いでも音は入ってくる。うるさいぞ、抗議の声を上げたところで死者の声が生者に届くはずもない。女は女の生活を謳歌する、私の領域を土足で汚す。

 それだけなら、きっと我慢できただろう。部屋の隅で気付かれぬまま、何も考えずに蹲る日々を過ごせたのだろう。


 女には恋人がいたのである。時折、部屋に彼氏を招きいれると甘い会話を交わして、ベッドの上で愛を確かめる。私はただただ立ち竦み、気付かれぬまま眺めていた。

 甘い嬌声が部屋の響き、二人の熱で空気は湿り気を帯びているようだった。

 彼等に罪悪はない、当然のことをしているだけだ。いや、喜ばしい事をしているのだ。互いに好きあったものと情を交わすのは良い事なのだ、連綿と続けられてきた人の営みである。


 当たり前のこと、だからそれをどうこうという気はない。

 ただベッドの上で肌を重ね合わせる二人を見ていて思ってしまったのだ。私にはこんな相手はいなかった、いたらどうなっていたのだろうか、と。

 変わっていたのだろうか、潰されずに済んだのだろうか。死、以外の逃避を選択できたのだろうか。そこで、私は人生から逃げざるを得なかった事に気付いてしまった。


 目の前のベッド、そこで男と女が隣り合い肩を寄せ合い寝息を立てていた。私はそれを見下ろしている。

 逃げた私、謳歌する男と女。内側だけにあった黒が、表側に溢れ出す。気付けば私は女の体の上に馬乗りになっていた、彼女の寝息に変わりはない。

 意識していないのに手が動く、女の首を絞めていた。力強く締めていた、相変わらず寝息は変わらなかったが、それでも締め続けているとある時に急に止まった。


 しばらく観察すると女の肌から赤味が消えて、青く、白く変わっていく。死んだのだ、殺したのだ。爽快さはない、不快でもない。胸の淀みがあふれ出し、私の表面を覆って膨らんでゆく。

 次に男の上へと跨り、女にそうしたように首へと手を伸ばす。


 そして、私は悪霊と成ったのだ。

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ハングドマン 不立雷葉 @raiba_novel

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