Life
南川黒冬
Life
ここはどこで、私は誰なのか。
そんなことを考えながら歩き続けてきた……歩き続けてきた?
本当にそうなのだろうか。いつここがどこなのか判別できなくなって、いつ私が自分を見失ったかなど、本当のところ見当もつかない。今この瞬間に忘れたのかもしれないし、今この瞬間に生まれたのかもしれない。
「歩き続けてきた」などと言うが、それもこのボロボロの外套と乾ききった喉、それから引きずるようにしか動かせない脚から判断しただけであって、その道程は微塵も覚えていない。
振り返る。
人が歩いた後に道はできるというが、私が刻んできたであろう足跡は、風に吹かれて消えていた。砂塵の向こうに見えるあの影は、岩山か砂丘か、それとも蜃気楼か。私は本当にあれを超えてきたのか? 失う前の私が少しでも見つかればと思ったのだが、生命の香りがしないこの荒野は、私の命がここから始まったという荒唐無稽な仮説を強固にするだけだった。
肩にかけていた鞄をあさる。何も入っていなかった。
ここはどこで、私は誰なのか。
手掛かりは何もなく、教えてくれる者もいない。なら答えが出るわけもなかった。
だが進むしかない。
なぜそう思ったのかはわからない。ただ私の心がそう言った。明確な意思と覚悟を持って、この先に歩を進めることを選んだのだ。
自分が何者かを探しに行こうと思った? いや違う。
生きたいと願った? そうじゃない。
ここがどこで私が何者かなど本当はどうでもいい。ただ生きたいならこのまま引き返してもいい。しかし私の心は「進むしかない」と言ったのだ。なら私はそれに従おう。記憶のないこの体を、意思に任せて動かそう。
もう一度振り返る。「前」はこっちだと、私の心が言っていた。
「やあ、旅人さん」
人が、いた。
私と同じボロボロの外套を目深に被った男。快活ではあるが低い声は、不思議と警戒心を和らげた。
彼の足跡は風に吹かれて消えたのか、それとも。
「旅人だって?」
「そうだろう? 前に進もうとする強い意志、そしてこれから何でも詰め込める鞄。誰にでも持てるものじゃない」
彼は空の鞄を指してそう誉めそやした。意味は分からなかったが、それ以上に訊かなきゃいけないことがある。
「あんたは誰だ」
「私はただの抜け殻だよ」
何の、と問うことに意味がないことを悟った。
「役目と意思を失った、ガワだけの存在さ。君は私を見た時、亡霊のようだと思わなかったかい? それでいい。私のような存在はそう呼ばれるべきだ。名前のないこの土地に相応しい」
「……」
何かを言おうと思って、やめた。飲み込んだ言葉が励ましだったのか侮蔑だったのか、それとも別の何かだったのか、私にはもう分からない。
ただ、歩を進めた。
「行くのかい?」
返事はいらないだろうし、する気もなかった。
そっと彼の身体を押しのける。まるで実体がないかのように軽かった。
「君の旅に幸多からん事を」
快活な祈りの言葉を背に受けて、その地を後にした。
あれからどれほど歩いてきただろうか。
自分の歩数を数えるのはみっともない気がして、早々にやめてしまったから分からない。
ただこの光景が死にかけた私の幻でないのなら、私は無事にあの名前のない土地を脱したのだろう。
振り返ってみるも、あの荒野は見る影もない。やはり私が見ているのは幻か? 目の前の光景が、いつまでも信じられない。
伝説に聞く楽園とはこういった場所を言うのだろう。美しい花々、健やかな鳥獣、子を守る父のごとく雄々しい大樹の群れに、その隙間から射す絶え間ない希望の光。
ここが妖精の女王が治める場だと言われても、疑うことなく信じるだろう。それほどまでに美しい地だった。
どうやらその光景に疲れも乾きも忘れていたらしい。幾ばくか歩を進めた先にあった泉に顔を浸してから、自分が限界を迎えていたと知った。
外套の端で顔を拭う。頭を上げると、向こう岸に人がいることに気がついた。
あれが妖精の女王だろうか。
冗談めいたことを考えながら、泉を迂回する。そして私は、それがあながち冗談でもなかったことを悟った。
「こんな世界にわざわざようこそ、旅の人」
流れるような蜂蜜色の髪、新雪のような肌、一切歪みのない鼻筋、精工過ぎる四肢。美しさという概念に服を着せたような、童話めいて綺麗な少女がそこにいた。
彼女を迷わず人間だと断じられる人間がどれほどいるだろう。人智を超えた何かだと言われた方がよほど信じられる。或いはそこら中に散らばった画材から彼女は生まれたのか。だとすれば私は彼女を生み出した画家に最高の賛辞を贈ろう。
しかしそんな彼女は、瞳を閉ざしていた。
「ああ、これ? いいの、どうせ見えないから」
「盲目、なのか」
彼女は短く返事をして、それきり私から興味を失ったように、傍らのキャンバスに向かった。
「見えないのに」
「想像でどうにでも」
彼女が光を失った理由に興味が湧いたが、訊くのはやめた。
ふらふらとさまよう手に筆を握らせる。
「見ていても?」
「お好きに。そんな大層なものじゃないけど」
彼女は謙遜したが、素人目に見ても彼女の絵は素晴らしいものだった。繊細に、かつ大胆に。強弱と明暗のはっきりしたそれは、彼女が盲目であることを疑わせた。
しかし私は、それを素直に賛辞することができなかった。
凌辱と激情、聴こえる怒号。悲しみの連鎖、終わらない憎しみ。
赤と黒で描かれたその混沌は、抽象的だからこそ私の心臓を激しく殴りつけた。
伝わってくるのは考え得る限りの負の感情。
楽園に全く似つかわしくない絵に、彼女は「世界」と題打った。
「こんなものでしょ、世界って」
「……こんなものが」
世界じゃないと、なぜ言える?
私が世界の何を知る。この世には喜びしかないとでも言う気か?
私の冷たい部分がそう言った。そんな私を追い打つように、彼女は世界の汚濁を私に聞かせた。
人間は得な生き物だと彼女は言った。人間は負の感情に美しさを感じることができる。人間だけが暗闇に価値を見出すことができると。
だからこんな自分でも世界を描けるのだと。
もう一度私は「こんなものが」と呟いた。冷たい私が「こんなものだ」と応じた。
その声に私は「そうじゃない」と頭を振った。
この楽園のような世界が全てじゃないことなど分かっている。だからそこは論点じゃないのだ。私が言いたいのはそうじゃない。
「君の世界が、こんなに醜く在っていいはずがない」
叫び、私はどれだけこの地が美しいかを言って聞かせた。草花も、大樹も、陽光も、鳥獣も、そして彼女自身のことも、私に出来得る限りの賛辞の言葉でもって、言い聞かせた。
「だから?」
しかし彼女はこう言うだけだった。
何故伝わらない。私の言葉が陳腐だからか? それとも彼女が盲目だからか。
いや、きっと彼女は見えていなくとも分かっているのだろう。私が見ている光景を精工に思い描けているのだろう。
ただ、それを美しいと感じることができないだけで。
歯噛みし、彼女に背を向けた。これ以上ここにいると耐えきれなくなりそうだった。
「行くの?」
ほとんど怒鳴るように返事をした。
「ほんと、分からない。どうしてこんな世界を見て回る必要があるのかしら」
汚濁を愛する妖精の独り言を振り切るように、その地を後にした。
辿り着いたのは摩天楼の群れだった。
天を突かんばかりの漆黒の塔が競うように並んでいる。
「ようこそ旅の方」
門をくぐると、中性的な少年が私を歓迎した。
「大丈夫。旅人が来た時の対処法は知っている。僕は今日も変わらず過ごせばいいだけ」
小声で訳の分からないことを呟いて、彼は「どうぞ」と私を先導した。
綺麗に舗装された道をよどみなく彼は歩いていく。幾ばくもしないうちに、彼とよく似た少年とすれ違った。
「あれは兄弟?」
「いえ他人です」
あんなに似ているのに。
首をかしげたが、そういうこともあるのだろうと納得した。
また幾ばくか歩いた後に、彼とよく似た少年を見かけた。
「あれは兄弟?」
「いえ他人です」
あんなに似ているのに。
何度か同じやり取りを繰り返して、恐ろしいことに気が付いた。
この地の人々は顔のパターンが少ない。
似ているとか似ていないとかそういう次元ではなかった。全く同じ顔なのだ。
「……君たちは、なんだ」
「人間です」
訊くが、彼は淡々とそう答えるだけだった。
「本日はここでお休みください」
連れてこられたのは煌びやかなホテルだった。頂上を見上げると首が痛くなるほどの豪奢な佇まいに私は尻込みし、遠慮した。しかし彼は金はいらないと言う。
「旅人からはお金をとりません。この地の決まりです」
疑いつつもホテルに入る。回転ドアを抜けた途端に、ずらりと並んだホテルマンが一斉に私に頭を下げた。
彼らは皆、同じ顔をしていた。
「ようこそ旅の方」
その中の一人がよどみなくこのホテルの説明を始めた。書かれていることをそのまま読み上げるような話し方だった。
「僕もいずれこうなります」
少年は淡々とそう言う。
なんだ、大人びているようで、きちんと人に憧れる心はあるじゃないか。
「夢か」
「夢?」
彼は心底訳が分からないといった顔をした。
「誰が寝ているときの話をしたんです?」
「違う。目を開けたまま見る夢の話をしているんだ。君がホテルマンになりたいと言ったんじゃないか」
やはり彼は心底訳が分からないといった顔をする。
「僕は事実を言っただけです。僕がホテルマンになるのは確定事項です。生まれた時から決まっています」
「そもそも」と、彼は続ける。
「目を開けたまま見る夢って、なんですか?」
そう言って、彼は私の反応を待たずに頭を下げた。
「すみません、三分後に別のお客様を案内しなくてはいけないので、失礼します」
そして彼は踵を返して去っていった。この先の予定がすべて決まっているような、迷いのない足取りだった。
旅の疲れ以外の何かが重くのしかかるような心地がして、その日は泥の様に眠るしかなかった。
けたたましい声がして、目を覚ました。
「申し訳ございません! 申し訳ございません!」
ロビーに下りていくと、少年が頭を下げていた。
顔が全く同じ少年がたくさんいるから定かじゃないが、多分私を案内してくれた少年だろう。
野次馬の一人にどうしたのか訊くと、どうやら予定の時間に遅れてしまったらしい。
ほんの、一分ほど。
「……馬鹿げてる」
「馬鹿げてるだって? 予定を一分も狂わされちゃあたまらないよ」
何かを言おうとした私に先んじて、その野次馬の男は「おっと時間だ」とどこかへ去っていった。周りの野次馬も、時計を気にしながらロビーを出ていく。今まで少年を怒鳴り散らしていた男でさえ、怒りを忘れたかのようにあっさりとその場を離れていった。
唯一残された少年に声を掛けると「やめてください」と怒鳴られた。
「ああ! いえ、すみません。あなたのせいじゃないのに。あなたと話していたから遅れたのは確かですが、それは僕が悪いのに。ああ、だめだなあ僕は。こんなだからいつまでたっても一人前になれないんだ」
陳腐な励ましの言葉を並べてみたが、彼は黙って首を横に振って、自身と同じ顔をした少年を視線で指した。
「彼は僕より三歳年下ですが、もう一人前です」
変化は突然だった。
先ほどまでこの少年と同じ容姿をしていた少年の背が急激に伸びたかと思えば、ホテルマンに変貌したのだ。あの、一斉に私に礼をした一団と全く同じ容姿に変わったのだ。
私はこの地の異常性をようやく真に理解した。
同じ顔の人間がいることが問題なのではない。すべてが定められているから、異常なのだ。
この先の予定も、容姿も、職業も。きっと死ぬことでさえも。
なるほど、夢など見られる訳がない。
彼に背を向ける。
「行くのですか?」
泣きそうな声で返事をした。
「またお越しくださいませ」
そんな定型文から逃げるように、その地を後にした。
たどり着いたのは巨大なテントの前だった。
人の波に押し流されるように先に進むと、奇怪な格好の男が飛び出してきた。
「ようこそ、旅の方!」
大きく両手を広げ、満面の笑みで私を歓迎したのは、ボールの様に着ぶくれしたピエロだった。
「是非わたくし共のショーを見ていってください」
人の流れにもピエロの強引な勧誘にも逆らえず、その好意に甘えることにした。
席について暫くすると、先ほどのピエロがスポットを浴びながら登場した。周囲の人々を真似て精一杯の拍手で出迎える。彼は心底嬉しそうに笑顔と礼を振りまいた。
「本日もお集りいただき、ありがとうございます! みなさんに最高の時間を提供すると約束いたしましょう!」
彼の言葉に観客がより一層湧く。私自身気分が高揚してきていた。
そしてショーは始まった。
ジャグリングに始まり、空中ブランコ、綱渡りにトランポリン、クマが自転車をこぎ、ライオンが人を乗せて駆け回る。そのすべてが見事だったが、しかし私は途中で違和感を覚えてしまった。
確かに道具は用意される。確かに猛獣は連れてこられる。だが、すべての演目をピエロが行うことなど、有り得るのか?
歓声は途切れないが、私はもう素直にショーを楽しめなくなっていた。
何故なら彼は道化師で、彼が演じるのだから演目はすべて道化芸の性格を持つ。
道化芸は観客を笑わせるためのものだ。そしてその笑いはピエロの失敗を主とする。彼はどんな演目でも小さな失敗を繰り返した。
ジャグリングではクラブを頭に落として見せた。空中ブランコや綱渡りのフィニッシュは落下だった。クマには引っ搔かれ、ライオンには振り落とされた。
そして今、彼は火の輪くぐりに失敗し、全身を炎で焼いていた。
「……こんなもので」
スタッフが消化活動をしているのを見つめながら、私は無意識のうちに両手を固く握りしめていた。
やがて消化は終わり、後にはわずかに煙を上げるピエロだけが舞台に残される。
観客が見守る中、ゆっくりと彼は立ち上がり、びしょぬれになった赤い髪をぶるりと振るって、満面の笑みで両手を広げた。
「こんなもので笑えるか」
私の叫びは、観客の笑い声にかき消されて、どこにも届くことなく消えた。
人の波に逆らえなくて、私は結局、見たくもない喜劇じみた悲劇を最後まで見ることになった。
「いかがでしたか?」
全身傷だらけのピエロが私に問うた。
私は思いつく限りの罵詈雑言を彼に浴びせた。しかし彼はメイクよりも尚深い笑みでただ「それは参りました」と言うだけだった。
「わたくしはピエロなのに、あなたを笑顔にできません」
そんなのは簡単だ。君が笑わなければ、私はそれで満足なのに。
そう伝える前に、誰かがピエロに石を投げた。それを咎める前に、周囲で笑いが起きた。血を流すピエロが面白いらしかった。
「おや、これでも面白くありませんか?」
ピエロはそれでも笑顔だった。怒る私を笑顔にしようとする意志だけがそこに在った。
俯き、彼に背を向ける。
「行くのですか?」
振り向くのが恐ろしくて、返事もしなかった。
「またお会いしましょう」
笑顔を見るのが辛かったから、走って逃げた。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。
どこかにたどり着くたびに荷物が増えた。忘れたくても忘れられないものを何度も目にした。その度自分の無力を痛感した。何も変えられない自分に幾度も絶望した。
だが私は歩みを止めなかった。
そうすることで何かが変わると思ったわけではない。ただ、この背負った荷物を途中で投げ捨てるようなことだけはしたくなかった。無力感も絶望も、誰にも渡したくなかった。
歩みを止めると、時がそれらを攫っていきそうで恐ろしかった。
たどり着いたのは理想郷だった。
見渡す限りの宝の山。いや、或いは山が宝なのか?
景色すべてが財宝だった。世界中の冒険者と呼ばれる者すべてが目指す場所がここだろう。中心にそびえたつ巨塔は絶え間なく黄金を吐き出していた。きっとここは黄金の雨が降るのだろう、水や草花までもが、財宝でできていた。
「よくぞたどり着きました、旅の方。ここが終着です」
黄金で着飾った女性がそう言った。
「ここはすべての人の理想の地。ここにないものはありません。だからあなたの旅は終わるのです。もう何も求める必要はありません。もう手に入れているのですから」
女性は私の空の鞄を指さした。
「さあ、もう休みなさい。あなたは色々なものを背負いすぎました。忘れたい絶望など、ここで下ろしてしまいなさい。もう十分すぎるほど苦しんだではありませんか。この地で永久の安らぎを得ましょう」
それは魅力的な提案だった。抗いがたい勧誘だった。
なるほど、確かにそうすれば私は安らぎを得ることができるのだろう。もう己の無力感に絶望することもないのだろう。そうすればこの地で贅を尽くして生きられるのだろう。
だが、それでも。
「この荷物は私のものだ。誰にも渡せない」
そっと女性の体を押しのけて、私は財宝の中では目立つ、古ぼけたものの集合に目を向けた。
「ああ、本当だ。ここには私が求めたものがすべてある」
ゴミ山と呼ばれてしかるべきそれを、私は必死に漁った。
黄金の女性は、理解しがたいと、ただ頭を抱えた。
「どうして。忘れたいはずなのに。かわいそうなものを見るのはとても辛いことなのに。そのガラクタの山の様に、誰かに忘れ去られて風化していくべきもののはずなのに。いらないもののはずなのに」
ああ、これは誰かに忘れられたものの山なのか。どうりで。
「大切だから忘れることもあるだろう」
空じゃなくなった鞄を背負いなおす。もうこの地に用はない。
「後悔しますよ」
この地に留まったほうが幸せなことは分かっていた。
だが、この地に留まったほうが後悔することも分かっていた。
だから私は、踵を返す。
たどり着いたのは巨大なテントだった。
「またお会いしましたね、旅の方!」
両手を広げて私を歓迎するピエロの前で、私は鞄から古ぼけたクラブをとりだしてみせた。
「おや、あなたもジャグリングを?」
周囲の人々が私に注目したのを見計らって、クラブを投げた。ジャグリングなどやったことがない私のそれは、筆舌に尽くしがたいものだった。
場が白けるのにも関わらず、私は次々と鞄から道具を取り出してピエロの真似事をした。そのすべてが見るに堪えないものだった。失敗するのにも技術がいるのだと私は知った。
そしてついに、私に石が飛んできた。
「た、旅の方!」
どっと周囲が湧く中で、ピエロだけが私を心配してくれた。
「そんな、どうしてこんなことを」
「どうして他人のために悲しめるのに、自分のことになるとそれができないんだ」
次々と飛んでくる礫に耐えながら、私はしかとピエロを見る。
「辛いなら辛いと言え。笑いたくもないのに笑うんじゃない。ピエロだってたまには泣いていいだろう。泣きたいときには泣いたっていいだろう。観客を楽しませる前に、君が楽しんだっていいだろう」
笑顔のメイクで隠した本音をさらけ出せ。私を笑顔にしたいなら、まず心から君が笑え。
悪意無き暴力にさらされ続けながら、私は彼に叫び続けた。
泣け、ピエロ。
「ああ、旅の方」
彼は、石から私を庇って言った。
「石は、痛いですねえ」
彼の赤い鼻が、ぐずりと鳴った。
「ありがとう、旅の方」
もう、彼は無茶なことはしないだろう。石の痛さを知ったのだから。
涙を流しながら笑う彼に満面の笑みを返して、その地を後にした。
たどり着いたのは摩天楼の群れだった。
「ようこそ旅の方」
中性的な少年が私を歓迎した。
彼が私を案内する前に、私は彼に古ぼけた人形を渡した。
「これは?」
「彼女はなんにでもなれるんだ」
君が望めば、花屋にも、パン屋にも、本屋にも、お姫様にだって。
「君だってそうだ。君だってなんにでもなれるんだ。だって君は自分の意思があるじゃないか。この決まりきった世界で、君はたった一分だとしても、その運命に逆らえたじゃないか」
そうだ。本当にこの世界で何もかもが決まりきっているとすれば、彼の行動は非効率的に過ぎる。この地のルールを破ってまで私と話をしたのは、どんな理由であれ、私と話がしたいという意思があった証拠だ。
「僕は、ただの落ちこぼれで……」
「違う。君は大人なんだ。自分の意思があるんだ」
「そんなこと……ああ、いや。そうだ、案内しないと」
「もうこんなもの必要ない」
私は彼の腕時計を取り上げた。代わりに、その手にしかと人形を握らせる。
「何かになりたいと思う気持ち、それを夢という。眠るときに見る幻じゃない、目を見開いたまま見る夢だ」
「目を見開いたまま見る、夢」
「君は本当にホテルマンになりたいのか? 君になりたいものはないのか。君が私に話しかけたのは、旅人というものの自由さを羨ましく思ったからなんじゃないのか」
「僕、は」
「憧れることは、悪いことじゃない」
変化は突然だった。
私の腹部ほどしかなかった背が首元辺りまで伸び、髪は背の半ばまで伸びた。フォーマルだった衣服は柔らかそうな白いワンピースへと変貌し、身体に凹凸ができた。
ああ、そうか。この国は、性別さえ失わせていたのか。
「ありがとう、旅の方」
もう彼女は何物にも縛られることはないだろう。これからどうするのかは、じっくり時間をかけて悩んでいくそうだ。
旅人よりも自由な彼女に嫉妬しながら、その地を後にした。
たどり着いたのは楽園だった。
「あら、また来たの、旅の人」
醜悪な怪物を描いている妖精に、それは何かと問いかけた。
「私」
嘲るように言う彼女に、どれほど自身が美しいかを語って聞かせたい衝動にかられたが、意味がないのでやめた。
代わりに、鞄からレコードを取り出した。才能はあったが、人との縁に恵まれなかった音楽家の自然を賛美した曲が、静かな楽園に広がっていく。
川のせせらぎ、風の流れ、戯れるリス、踊る草花。
目を閉じれば、この楽園にも劣らない風景が瞼の裏に映る。
やがて彼女は絵を描く手を止めて、音楽に聞き入り始めた。
小さく体を揺らして節を口ずさむ彼女は、やはりこの世のものとは思えない程美しかった。
「……こんな世界もあったのね」
閉ざされた瞳から、じわりと光が滲む。
風景だけじゃなく、感動までも表現した言語ならざる言語は、確かに彼女の心に届いたらしい。
涙をぬぐうためにわずかに開かれた目の色は、楽園の主に相応しいグリーンだった。
そして私は初めて会った時と同じ言葉を繰り返した。
この地がどれだけ美しいか、君自身がどれだけ美しいかを、拙い言葉で、されど精一杯に伝えた。
「今は少しだけ素直に聞ける。ふふ、恥ずかしいわ。あなたの口ぶり、まるで一目ぼれじゃない」
「ありがとう、旅の人」
君の笑みは、この世の何よりも美しい。
最後の賛辞は腹の中で沈殿した。吐き出してしまえば後に戻れない気がしたから。
彼女の目となって生きられればどんなに幸せだろうか。
後ろ髪を引かれながら、その地を後にした。
たどり着いたのは荒野だった。
「忘れ物かい、旅人さん。ここには何もないぞ」
砂塵の向こうから、ボロボロの外套の男が姿を現した。
「まあいい。旅の話を聞かせてくれないか。君が何を見て、何を感じたのか。教えてくれ。その鞄を持てる君が見る世界を」
快活で、それでいて低い声で男は問うた。だが私はそれに応じられない。
「覚えていないんだ」
「……なんだって?」
「私が覚えているのは、私が旅人だということ。それからあなたのことだけだ」
鞄から、古ぼけた地図と方位磁針を取り出した。
「あなたのじゃないかと思った」
どこでそう思ったかは、覚えていないが。
彼はそれを見てしばらく固まっていたが、やがて震える手でそれを受け取って「思い出した」と呟いた。
「私はかつて、旅人だった」
砂だらけの空を仰ぎ、彼は言う。
「そうだ。私は旅人だった。君と同じ……だが君とは違って、荷物を背負う覚悟のない旅人だった。そうだ、私は逃げた。そしていつからか、歩くことすら忘れてしまっていた」
彼は私に視線を戻す。
「何故君の記憶がないのか合点がいったよ。きっと君はそういうものなんだ。背負った荷物を背負いきった時、君はその荷物のことを忘れる。だがそれは逃げじゃない。きっと君が恐れるのはその荷物を背負うことに慣れてしまうことだ。荷物が荷物じゃなくなることを、君は恐れた。大切なものだからこそ、君は忘れるんだ。空の鞄を持てるのは、そういう強さを持つ者だけなんだろう」
彼の言葉のほとんどは理解できなかった。ただ、彼がこれから旅に出るということだけは理解できたから「行くのか」と私は訊いた。「ああ」と彼は短く言った。
「また会おう。きっと君は、私を忘れているだろうが」
そして彼は、踵を返す。私は彼が砂粒のようになるまで、その背を眺めていた。
ここはどこで、私は誰なのか。
空の鞄は何の手掛かりにもなりはしない。
だが私の心は「進め」と言った。
なら私はそれに従おう。記憶のないこの体を、意思に任せて動かそう。
ブーツの先をしかと見つめる。
「前」はこっちだと、私の心が言っていた。
Life 南川黒冬 @minami5910
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