後編 高級時計

 その日はなぜか、腕時計が欲しい気分になっていた。自分で時間を操作するから、すぐに止まってしまうことはわかっているのに。デパートの時計売り場をぶらぶらと歩いていて、ショーケースの中にとてもかっこいい時計があるのを見つけた。これは確か、オーデマピゲとかいうブランド。100万円近くする価格だった。僕にはどうってことはない値段だ。だって、お金を払わないのだから。


 いつものようにタンマウォッチのリューズを押して時間を止め、鼻歌をうたいながら、盗みのために常備している金槌でショーケースを壊した。静けさの中にガシャンと大きな音が響く。その瞬間、脇に置いておいたタンマウォッチが床に落ちた。


 あ、やべ、落としちゃった。僕はしゃがみ込んでタンマウォッチを拾い上げた。壊れてないかなと、何度かリューズを押してみた。押しても押しても、周囲は止まったままだった。


「あれ? なんで?」


蓋を開いたり閉じたり、リューズを押したり引いたり。僕は何度も繰り返した。それでも、周囲は動かない。それはそれで、不安になる。しかしここで慌てるのはよくない。僕はお目当てのかっこいい腕時計をショーケースから頂戴してリュックに放り込み、時計売り場を後にした。止まったエスカレーターをトントンと降りながら、タンマウォッチをいじり続けた。なかなか時間は動かなかった。


 盗んだ自転車に乗って帰宅してから、もう一度リューズを軽く押してみたら、付けっ放しで静止画面のままだったテレビが音を出し始める。ああ、動いた。僕はホッとして、リュックの中の上等の腕時計を取り出した。見れば見るほどかっこいい。値段も高い。タンマウォッチで時間を止めることができなければ、きっと僕には一生関係のないレベルの腕時計だ。嬉しくて、腕に巻いてみた。我ながら似合っている。僕には少し高級すぎるかな。太陽の日差しを受けて、文字盤がきらめいた。僕はまた時間を止めて、暇で優雅な日常を過ごしていた。


 しばらく後、のどかに昼寝でもしようと思ったら、玄関のチャイムが鳴った。宅急便か。いや、何も頼んでいない。何となく気になって、タンマウォッチをポケットに潜ませてから、玄関へ向かった。ドアを開いてみたら、厳しい表情の男たちが三人ほど立っていた。


「強盗の疑いで逮捕状が出ています。署までご同行願えますか」

「強盗? え?」

「お話しは警察署でうかがいますから、そのまま」

「いや、ちょっと待って、僕は何も」

「その腕時計は?」

「え、これは僕の」


僕の、ではない。盗んだものだ。だがなぜ。時間を止めて、誰も見ていないときに盗んだはずなのに。僕は瞬時にポケットに手を入れた。タンマウォッチのリューズを押す。


 目の前に立っている刑事たち、だろうか、彼らは話すのをやめて、立ち尽くしたままになった。


 どうすればいい。この状況を。頭がパニックになっている。いつバレたのか。監視カメラか。いや、カメラだって止まっていたはずだ。でも、待てよ。あの場で僕は何度かリューズを押したり引いたりすることを繰り返した。その間に一瞬、監視カメラが動いていたら。僕はカメラに映ったかもしれない。可能性はゼロではない。


 とにかく玄関の中にいるこの男たちを、どうにかしなければ。一人ずつ脇を抱えて外へ連れ出そうとしたが、びくともしない。みんな屈強すぎる。では、倒してみればいいのか。胸を押してみたが、なかなか倒れてくれない。どうすればいいのかわからず、思い余って、僕は台所から包丁を持ってきて、先頭にいる刑事の胸を思い切り刺した。


 血が、じわじわと滲み出る。時間は止まっていても、血は流れて心臓は動いているのだなと思った。刺した包丁を勢いよく引き抜く。さらに出血が多くなったように見えた。怖くなって、包丁を床に落とした。


「……ぐっ……」


時間が止まっているはずなのに、声が聞こえる。僕に刺された刑事は手で胸を押さえて、目を見開きながらしゃがみ込んだ。まさか。どうして。あとの二人を見ても、「だるまさんがころんだ」のように、立ち止まっているままだ。刺した男だけが、時間が動いている。そんなばかな。タンマウォッチが壊れたのか。この前デパートで床に落としてから、調子が悪くなっているのだろうか。


 ポケットの中からタンマウォッチを取り出した途端に、かがんでいる刑事の血だらけの手が、僕の足首を勢いよく掴んだ。その力は物凄く強くて、僕は思わずよろめいた。よろめいた拍子に、タンマウォッチを取り落としてしまった。


かちん。


 無機質な音が響き渡ると同時に、僕は足首を引っ張られて倒れた。ドスンと音がして、倒された全身に衝撃が走る。後頭部も強か打ちつけた。突然、部屋の奥からテレビの音が聞こえてきた。立っていた刑事たちが大声をあげ、僕を押さえ込んんでくる。床に落としたときに、タンマウォッチのリューズが押されてしまったのか。時間が動き始めた。外からたくさんの音がする。車のクラクション、子どもたちが遊ぶ甲高い声、風が騒ぐ音。そして、僕の両手首に手錠がかけられる音が、ガチャリ。


「殺人未遂で現行犯逮捕だ。大人しくしなさい」


そのまま、僕は警察に捕まった。一瞬、タンマウォッチを目で探したが、わずかな瞬間の視線だけでは探し当てることがかなわなかった。


 勾留されている間に、夢を見た。タンマウォッチを僕にくれた真っ黒な男が出てきた。


「やはり人間はろくなことをしないな」

「あのときの。なんであんな時計僕に渡したんだ。ひどいことになったじゃないか」

「有効に使えと言ったはずだ。盗みや殺人に使えと命じたわけではない」

「だいたいお前、何者だよ」

「そんなことはどうでもいい。時間を元に戻してやるから、もう一度、時計を有効に使え」

「いらねえよ、そんなもの」


 もう、懲り懲りだ。悪魔か天使か知らないが、変な時計を手渡されるのは懲り懲りだ。ひどく嫌な気分で目が覚めたら、自分のベッドの上にいて、枕元にはあのタンマウォッチが鎮座していた。スマホで日時を確認すると、本当に時間をさかのぼり、過去に戻っていた。僕はまだ、何も犯罪をおかしていない僕に戻った。手首には100万円の腕時計はなかったし、もちろん手錠もかかっていない。


「……どうするんだよ、これ……」


 タンマウォッチを手に取り、自分自身のやったことを振り返る。何百万円の盗みを働いただろうか。人も殺した。気づかない間に、どれだけの罪を犯したのか。考えもつかなかった。


「誰かにあげちゃおうか、この時計」


 しかし、誰かにあげたからと言って、その人が有効な使い方をするかどうかわからない。僕と同じことをするかもしれない。いや、もっと悪賢い人間だったら、さらに凶悪なことをするかもしれない。


 僕は近所のホームセンターで、小さなシャベルを買った。夜中になるのを待って、謎の懐中時計とシャベルを持ち、近所の公園へ向かった。周囲を眺めて、誰もいないことを確認し、急いで公園の隅っこに穴を掘って時計を埋めた。足で土を踏み固め、駆け足で家に帰る。シャベルはすぐにゴミ捨て場に捨てた。


 もしも誰かが見ていたら。昼間に子どもたちが遊んでいて時計を見つけたら。そんなことを考えると、怖くていても立ってもいられなかったが、僕はできるだけ忘れるようにした。忘れることなど、できなかった。


 黒い男は、二度と夢には出てこなかった。謎の時計が僕の手元にやってくることも、二度となかった。今でもあの公園の隅に眠っているのか、それとも知らないうちに誰かが使っているのか。僕はなぜ、あんな使い方しかできなかったのか。「有効に使え」と言われたけれど、有効な使い方など思いつかない。時間を止めることに意義を見出すことはできない。


 僕はただの男に戻った。なんの能力も使えない、時間の操作などできない、一般市民に戻った。毎日仕事へ行き、休みの日はのんびり過ごし、ときには実家へ顔を出す。何事もない日常が、僕の手に戻ってきた。


 ただひとつだけ、残ったもの。それはあのとき、僕が刺した刑事に強く握られた、足首の鈍い痛み。ふと思い出し、足首がうずくたびに、僕は震える。実際に存在する刑事たちなのかもわからず、今や本当にあった出来事なのかもわからず、幻になってしまった殺人未遂。


 僕は、ろくでもない奴だ。


 僕は、人を殺そうとしたことがある。




 怖いよ、誰か。助けて。


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時を止めてみたら僕は 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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