時を止めてみたら僕は
鹿島 茜
前編 タンマウォッチ
ドラえもんが四次元ポケットから出す道具が欲しいと思った人は、この世間に山ほどいるだろう。きっと一番人気はどこでもドアだ。人によってはアンキパン。王道のタイムマシンもあるかもしれない。
未明に、夢を見た。ドラえもんではなかったけれど、誰か、何者かわからない真っ黒な人物が、そう、映画の「アマデウス」に出てきた黒い衣の使者のような男が出てきた。そして僕に、古びた懐中時計を手渡した。蓋付きのハンターケースという形で、シルバーでできているのか、かなり錆びている。
「リューズを押してみろ。蓋を開いて、好きな時刻に。そこで世界の時間は止まる」
「止まる? 僕以外の時間が止まるってこと?」
「そうだ。もう一度リューズを押せば、また時間は動き出す。有効に使え」
無愛想な低い声の男は、そんな一言二言で、背を向けて去って行った。夢の中で僕は、「どうせ夢だ」とわかっていた。
だが目を覚ますと、枕元に錆びた懐中時計が置いてある。おかしな話だ。夢の中で出てきたものが、現実にベッドサイドに鎮座している。僕はにわかには信じられなかった。
夢の中の黒い男の言によれば、この時計はドラえもんの道具でいうところの「タンマウォッチ」に当たる。本当に時間が止まるわけがない。そんなことは、おとぎ話の世界だけだ。
僕は蓋を開き、リューズを押した。カチリと小さな音が響き、時計の秒針が突然止まった。同時に、ベッドサイドのデジタル電波時計を確認したら、動いていない。そんなばかな。テレビをつけてみた。画面は表示されるし、どのチャンネルも誰かが何かを話しているはずだが、一切の音はなく静止画のままだ。どのチャンネルを選んでも、同じ現象が起こっている。ラジオはどうか。ネットラジオを起動しても、しんと静まり返っていた。電気が通じているのか通じていないのか、よくわからない。部屋の明かりはついたままだった。
カーテンを開き窓の外を覗いてみたら、人々が歩いている。ように見える。が、よくよく見たら動いていない。歩く姿勢をして立ち止まっている。車もまた然り。自転車も同様。これはまさか、本当に、魔法の懐中時計なのか。
僕は窓の外を凝視しながら、再度時計のリューズを押した。カチンと微かな音を立てる。同時に、人や車や自転車が、自然な形で動き始めた。何事もなかったかの如く。今まで歩いて、動いていたかのように。
僕は着替えて外へ出てみた。小春日和の土曜日の昼前だ。紅葉にはまだ少し早い。周囲の人たちは皆、のんびりと、ゆったりと、ときには急いで、慌ただしく歩いていた。早足の人が僕の近くを通ろうとしたときに、リューズを押してみた。
ぴたりと止まるサラリーマン。空中で静止するランニング中の女性。止まってしまった乗用車。立ち漕ぎしている姿勢のままで静かに佇んでいるマウンテンバイク。
僕はこの懐中時計を、信頼せざるを得なくなった。突如として手に入った、魔法の時計。何に使おう。何に使えるだろう。
発想の貧困な僕が思いついたのは、時間を止めている間に、適当な店で盗みを働くことだった。
リューズを押す。時が止まる。コンビニの閉じた自動ドアを手で押し開けて、中に入って適当な食べ物を物色する。金など必要ない。どうも電子レンジは使えないらしい。レンジが必要なものは取り急ぎ持ってきて、帰宅してから時間を動かし始めて使う。僕以外、何も知らずに静止しているから、僕が盗みを働いていることなど見ていない。僕は毎日のようにリューズを押して時を止め、適当なときにまたリューズを押して時の流れを操作した。食べるものに困らない。日用品も。何もかもが、時間を止めることで、簡単に手に入ってしまう。なんてすてきなんだ。ここは天国か。
僕は毎日毎日、時を止めては盗みを働き続けた。収入は必要ないので、会社も辞めた。残念ながらどこでもドアはないので、新幹線に乗らねばならない親元には帰省しなくなった。友達ともあまりつきあわなくなった。ただ食べていける、生きていける、それだけのことで、満足していた。宝くじが当たるとこんな感じなのかもしれないと想像してみた。もともと自堕落な性格の僕には、ぴったりな生活が手に入った。
時間の感覚がなくなった。自分自身が何回眠って何回起きていたのか、まったくわからなくなった。手元のタンマウォッチで勝手に時間を操作してしまうので、普通の時計が動かない。通常の時間が動いているときにテレビやスマホで確認すると、最初にタンマウォッチを使い始めてから一週間も経過していない。それなのに僕の体感では、既に三ヶ月は経っているような気がする。だからといって、時間を止めることをやめるのは嫌だった。お金を出して買い物をするのが、とても嫌だったからだ。僕は「盗み」という形で買い物することに慣れてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます