庭に沈む
柴田彼女
庭に沈む
緑にまみれた肌寒い家だった。門の前にはポプラの木、ポストの横にはドウダンツツジ、玄関脇にはベニモクレンがそびえ立ち、その隣にはモミジとバラが、駐車場の囲いにはうねうねと血管のようなアイビーが茂っている。自宅敷地内、土のある場所には透き間なくシバザクラとドクダミが育ち、母は運送業者や郵便局員がそれを踏むたび「話せはしないけれど、これも確かに生き物なのだけれど」と嫌味を言ってはわざわざ嫌われていた。
植物に支配され、昼間でもまともに光の差さない薄暗い僕の家は近所で「闇の家」と呼ばれ、母は子どもたちから魔女扱いされていたし、僕はさながら魔女の忌み子としてわかりやすく疎外されながら育った。母にも僕にもまともな友達はおらず、回覧板はなかなか回ってこなかったし、町内のイベントには呼ばれた例がなく、近所を歩いても挨拶はおろか目を合わせてくれる人すらいなかった。
そのようにして僕は幼少から周囲に避けられることの多い人生を送っていたが、だからといって僕たちは家族仲のいい団結した家庭というわけでもなかった。僕がまだ幼い子どもだったころから母の興味は植物にしか向いていなかった。僕が百点を取ろうが零点を取ろうが「ああ、そうなの」としか言わなかった母は、しかし庭先のバラが咲けば心底嬉しそうに「今年もかわいく咲いてくれたわね、ありがとう」と声をかけてやり、ドウダンツツジがじわじわと茶けてくれば「どうしたの? 元気を出すのよ」と泣きそうな声を出し、すぐさま栄養剤をばら撒いた。腹が空いたと訴えてもお菓子一つ与えてもらえなかった僕は、当然のように「自分は花や木よりも取るに足らない存在なのだ」と思って生きていた。
大学生となり田舎を出た僕は、まさにコンクリートジャングルと呼ぶにふさわしいような立地の大学の最寄り駅から電車で三十五分の中途半端な田舎町に居を構え、実家からの仕送りとホームセンターの植物コーナーのアルバイトで生計を立てている。地元にいたころはあれほど嫌悪していたはずの植物に対する知識が、しかし皮肉にも花売りとしては途轍もない財産として、利用価値の高いものとして僕を助けてくれた。
勤め始めて半年足らずで僕は植物コーナーの確かな戦力として数えられ、最適な栄養剤の選びかた、具合よく摘心するコツ、見栄えのよい寄せ植えの方法、初心者向けの庭造りなど、母がブツブツと庭先の花に語り掛けていたことを他者に伝えるだけで僕は心底感心されては、
「君は本当に花が好きなんだね」
と、ホームセンターの仲間は皆、見事なまでの勘違いを口走っては僕を褒めそやした。
社員の吉井さんは時々、冗談めかして「君は哲学じゃなく植物を学ぶべきだったろうな」と、煙草をふかしながら笑う。その都度、そうっすね、と返す僕の顔がきちんと「笑顔」になっているかはわからない。
僕の勤め先は、ホームセンターでは多少珍しく切り花を豊富に取り扱っていた。それらは生花として売り切るのが目標ではあったのだけれど、やはりどうしても少なからず売れ残ってしまう分はあり、店員はそれらの中からドライフラワーに成り得るものを厳選し、バックヤードで裏方作業がてらスワッグやリースに作り替え再び店頭に並べることで廃棄率を極力下げていた。ドライフラワーとしての売れ筋にはバラやアジサイ、カスミソウやスターチスなどがある。ミモザやユーカリで作ったリースもクリスマス辺りだと飛ぶように売れるし、ラベンダーやケイトウのスワッグだって季節を問わず人気商品の一つだ。
「買って、飾って、枯れて、だからハイ捨てますなんて、ちょっとね、忍びないじゃないですか。生花じゃないと運気が下がるとかなんとか……、あとはまあ、ドライフラワーは貧乏くさいとか? そういう話も聞かないわけじゃないんですけどね、でもそうじゃなくて……。単純に、ドライフラワーってかわいいと思うんですよね」
お得意様の一人である糸田さんは、毎週金曜日になると花二、三本分、合計で五百円ほどの生花を購入してくれる。彼女はひとり暮らしで、ジャンガリアンハムスターを飼っている。職場へは自転車で通っていて、好きな雑誌はFUDGE、元々このホームセンターへはペットのハムスター“もふちゃん”の餌やおもちゃを買うために不定期に通っていたのだけれど、ふと花コーナーがあることに気づきそこで何となく買ったカスミソウとミモザのスワッグがあまりにもかわいくて、そのまま癖になって今に至るのだという。糸田さんはかなりお洒落で、笑うと左の八重歯が見え、そうして相当お喋りな女性だった。
「この間、仲間内でズーム飲みしたんです。そうしたらみんな部屋がもう、びっくりするくらいかわいくって。ひとりはピンクのフリフリのクッションを抱っこしながらほろよいの桃を飲んでるし、ひとりはジェラピケのふわっふわのパーカーにショーパン、ニーハイ。店員さん、知ってます? ジェラピケ。ジェラートピケっていう、『それを着るだけで他の女へのマウントになる』っていう魔法のルームウェアブランドなんですけど、女だけのズーム飲みでジェラピケって! はーあ、女に脚見せて何の得があるんかってんですよ。いや、でもあの子、これがまた似合うんだよなあ……。GUのサテンパジャマと壁一面のお手製ドライフラワーでイキってやろうと計画してた私のダサさったらなかったですよ。心底惨めです」
「いやいや、そんなそんな」
「そんなそんななんです、これがね。あ、でも、今週末またその子らとズーム飲みすることが決まりまして。しかも今度はジェラピケちゃんが率先して、知り合いの男の子も三人呼ぶっていうんですよ。となればもうね、こりゃあ気合入れなきゃなあと! 一瞬『私もジェラピケ買ってこようかな』とか思ったんですけど、ここは敢えてちょっと奇をてらおうかなと、昨日クローゼットの奥底からバンドTシャツ出しておきました。誰のだと思います? なんと岡村靖幸です、岡村ちゃん。彼氏になって優しくなって! という女子力アピールですよ。わはは、まああんまり聴いてないんですけどね。元カレの影響で何枚かさらっとくらいなんで、話ディグられたら終わりです。ジ・エンド」
それ、結構危険なラインを攻めているんじゃないっすかね、などと言いかけ、しかしもちろん実際に伝えることはなかった。おそらくは友人だろう女性を、平気で「ジェラピケちゃん」と揶揄できる彼女はきっと、そういった危険を犯すことに対してそれほど抵抗がない。僕は淡々と彼女へユーカリの葉の加減を訊ね、指示通り二本ほどそれを増やした。
完成した花束と僕を携え、次に彼女は花瓶を選ぶ。
「女の子の部屋なら絶対ピンクですもんね」
幼いころに大人から当てこすられたのだろうか、“女の子らしい”のテンプレートを愚直に守ろうとする糸田さんの部屋を見たことはないが、彼女の外見や言動から僕が頭の中でイメージする“糸田さんの部屋に似合う花瓶”は、今彼女が手に取っている透き通るピンク色のシリンダー型のフラワーベースではなく、その斜め下に置いてある青い陶器のものだ。さばさばとした物言いや、いわゆる男ウケ重視ではないと思われる服装の割、糸田さんは「モテ」や「かわいい」「綺麗め」といった女子力を気にかけていた。
僕が思うに、糸田さんはきっと自分らしく、飾らない自分を他者にさらけ出すほうが「モテ」るし「綺麗」だろうし、“女子力”があると感じてもらえるかはわからないけれど、少なくとも「かわいらしい」とは思ってもらえるはずだ。
花が好きで、毎週金曜日には必ず五百円分の花束を自分のために買い、ドライフラワーを作り、その部屋でペットのハムスターを愛でる、トラッドスタイルが得意な二十代後半の女性。無理をしてまでジェラートピケのショートパンツを穿く必要も、昔の恋人が好きだっただけで愛聴しているわけでもない岡村靖幸のバンドTシャツを着る必要もないはずの彼女は、結局ピンクのフラワーベースを買って帰った。
父から「お母さんが倒れた」と連絡があったのは糸田さんが毎週来店する金曜日のことで、その日まだ彼女はやってきていなかった。
バイト中、休憩時間を除き携帯端末を操作することは禁じられており、僕はその日もロッカーに自身のスマートフォンを置きっぱなしにしていた。当然のように父は僕と連絡が取れず、結果としてホームセンターに直接かけるしかなかったのだと電話口で言っていた。父からの電話を受け取った始めに社員の吉井さんは、慌てた様子で僕を呼びつけ、
「早く実家に帰ってあげて、しばらく休みにしておくから」
と僕に確認を取るでもなく言い、そのまま僕をホームセンターから追い出した。
自宅に帰る途中も十分ほど父と通話をする。今日中に新幹線に乗ってくれたら駅までは迎えに行く、そのままお母さんを見舞ってほしい、二、三日はこっちに泊まっていってくれないか。父はそのようなことを何度も何度も繰り返した。そのたび彼の混乱の輪郭がはっきりと感じられ、僕は適当な相槌を返しながら執拗に「まずお父さんは落ち着いて」と伝え続けた。
アパートへ戻り、大振りの鞄に着替えと携帯電話の充電器、その他細々したものを詰めながら、僕は母について考えていた。
母とは、昔から折り合いが悪かった。
植物ばかりを一方的に愛し、僕のことを理解したいという気配が一切感じられない母に対し、僕は具体的な寂しさや苛立ちや憎しみをぶつけることができなかった。環境のせいなのか、あるいは僕の元々の気質なのかはわからないが、幼いころから僕はあらゆる物事を妥協することに抵抗がない。それもそうだよな、そんなものだよな、その程度なのだろうな。そうやって、自分の身に起こる事象のほとんどを適当に往なす僕を見、母は、
「あなたは、花を咲かせようっていう気がないのよ」
と呟いていた。
ドウダンツツジの上に倒れ込み、そのまま目を覚まさないでいる今の母は、未だ咲かない僕をどう思っていたのだろう。最終から二本手前の新幹線に乗り、田舎へと向かう。駅中で買った弁当はとっくに冷め切っていて、塊のような醤油味の米がやけに塩辛かった。
地元の駅構内はやけに明るく、どうにも現実感が薄い。
田舎町特有の人気のなさを白熱灯でごまかしたような光の下に、父がぽつねんと立っていた。何年前に買ったのか、生地の薄くなったTシャツと裾の余ったチノパンがその田舎くさい景色と妙に馴染んでいて、半年ほど前の盆に見た父の姿とうまく重ならない。僕の知っている父はもっと、ちゃんとした、出来のいい大人の姿をしていたように思う。
「急で悪かったな、大学とかバイトとか、大丈夫だったか」
「ああ、うん。それは問題ないよ。お母さんの具合は?」
「数値は安定してるらしい。ただ、目を覚ますかどうかはわからないらしい」
入院費とか諸々、お金は大丈夫なの。そう訊ねるべきか悩み、しかし切り出せないまま僕は父の運転する車の助手席に乗り込む。大学を辞めて地元に帰ってこい、就職して母の入院費を稼いでくれ。そんなことを言われたらたまったものじゃない、と思っていた。とんだ薄情者なのはわかっている、それでも僕は母のために現在の環境を投げ出そうとは考えられそうもない。
「勉強、問題なくついていけてるか?」
「あー、そこはノーコメント。はは。でもちゃんと通ってるから。サボってないよ、それだけは安心して」
「そうか、ならいいんだ。お父さんはよくサボったもんだったよ」
ハンドルを握る父の手は皺とシミにまみれ、彼がとっくに初老であることを僕へ明確に伝えている。居心地が悪い。
ちょうどその時、運よく携帯電話が鳴った。父に一言確認してから画面を見ると、届いていたのは社員の吉井さんからのショートメールだった。
【明日から五日間、休みにしておきました。さらに必要な場合は折り返し連絡をお願いします。お母様へお大事にとお伝えください。吉井】
すぐさま短く礼と詫びの言葉を返し、少しだけSNSを覗いてからスマートフォンをポケットにしまい直す。
母が入院する病院まではあと二十分ほどかかるだろう。ぽつぽつと雨が降ってくる。父が暖房を点ける。
「お前、アルバイト先、ホームセンターだったか」
「ああ、うん。そう。花売ってる」
「らしいな。お母さん、それ聞いたとき笑ってた」
「ああ、お母さん花好きだもんね」
「はは、そうだなあ。お前の花好きもお母さん譲りなんだろうな」
即座に、くだらない、と腹の中で悪態づく。父は、僕が母と同じように花を愛でるがゆえ花を売っていると勘違いしているようだった。
確かに僕は、花売り場担当だと理解したうえでアルバイト募集の電話番号に連絡を入れた。しかしそれはあくまで自らが植物に対しそれなりの知識があると理解していたからでしかなく、たとえば数学が得意だから数学科に入るようなことと限りなく同義だった。今だって別に植物が好きなわけではない。他人よりはできる、他人よりは知っている。詰まるところ、ただそれだけの話だ。
「あー……、えっと、お母さん。やっぱり悪いの?」
話を逸らすために、あるいは本質へ戻すために会話の内容を大幅に変える。父は「そうだな」と前置きしてから、
「もう何も話さないまま……、目を覚まさないまま、死んでしまうかもしれないそうだ」
俺がもう少し早く気づいていればなあ。父がぼやく。その日、父はいつものように会社へ行き、やはり帰宅はいつものように二十二時を過ぎてしまったのだという。夕方に庭先で倒れた母は父が帰ってくるまで誰にも発見されず、ドウダンツツジの上でぐったりと眠っていた。
あの家の植物がもっと少なくて、通りから玄関先が見渡せるようであれば、あるいは母だって今頃、
「大変な目に遭ったわ」
と笑って僕を受け入れることができたのかもしれない。そして、そういう性質の母であったとすれば、僕も彼女のことを心から心配し、無事でよかった、と笑い返せていたのだろう。
しかしどのみちそれらは全て机上の空論でしかなく、どういうルートを辿っていったとしてもあの家は花屋敷に仕上がったのだろうし、母はドウダンツツジの上に倒れ込んだのだろうし、もう二度と目を覚まさないのだろうし、このまま死んでしまうのだろう。僕が母の病に心を揺さぶられることなど、一生涯起こり得ないのだ。おそらくは。
その後、数日間母を見舞い、それから再び自らのアパートに戻り、大学とホームセンターと自宅を行き来する生活を再開して二ヶ月後、母は肺炎であっさりと死んだ。
結局母は目を覚まさないままだった。
母の看病と仕事と日々の生活に追われ、経験したことのない忙しさに身を浸し続けた父は、その二ヶ月間庭の手入れなどできるはずもなく、葬式のため帰った実家の庭は文字通り化物じみた花屋敷になっていた。
母があれほど手をかけていた庭も、ほんの二ヶ月構ってやらないだけでここまで醜く姿を変えるのか、と考えると僕は非常に馬鹿馬鹿しい気持ちでいっぱいになり、これまでの母の行いが不毛なそれのように思えて仕方なかった。親族の何人かから「花屋に勤めているのならお母さんの代わりに手入れをしていってはどうか」と提案を受けたが、せっかく入学させてもらった大学に通うためにもまだここへは戻ってこられないと答えるとそれ以上は何かを言ってくることもなくなった。
母が育てていたうちのいくつか、鉢植えの植物は、気に入ったものがあったら形見分けになるからと言って参列者に引き取ってもらった。彼らは一様に、
「枯らさないようにしないとね」
と言って寂しそうに笑っていたが、きっと彼らは母ほどにあれらを美しく咲かせることなどできないだろう。
「お前も、何か持っていくか」
葬儀も終わり、細かな手続きなどは全て父に任せ、僕が一人アパートに帰る。駅へ向かうため父の運転する車に乗り込む直前、父は庭を指さして僕にそう言った。
「お前ならまあまあ育てられるんじゃないのか。植木鉢なら物置に何個もある。掘り返す必要があるなら手伝う」
促されるままにその荒れ果てた庭を見渡す。
たぶん、母のことは嫌いではなかった。
折り合いこそ悪かったが、それだけだった。母がもっと長生きして、何か小さなきっかけでも起きれば案外僕らはあっさりと和解して、この花まみれの庭でコーヒーでもすすっていたのかもしれない。しかし、もはやそれはあくまでも仮定の話にしかなれない。母は死に、僕らは分かり合えないままに別れてしまった。
「あの花、少しだけ切っていってもいいかな。ドライフラワーにするよ」
「……そうだな、一人暮らしじゃそうそう花なんて育てられないか。手伝うよ、鋏と新聞紙と、ビニール袋があればいいか」
「うん。新幹線だから少しでいい」
母が倒れていたというドウダンツツジの斜向かいに咲く、数本のバラへそっと鋏を入れた。丁寧に棘を外し、新聞紙に包んでからビニール袋で覆ってやる。
匂いの弱い品種ではあるが、新幹線の車内ではいくらか香り立ってしまうかもしれない。最後まで母に悩まされてばかりだな、と思いながら、僕は父の車に乗り込む。数分も経つと室内はむせ返るようなバラの匂いでいっぱいになって、僕は小さくむせ返りながら窓を開けた。
庭に沈む 柴田彼女 @shibatakanojo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます