矢場杉栄吉の運命の行方

夏緒

全ては「穴」で繋がっているのかもしれない

「あの、栄吉さん? 大丈夫ですか?」

 チエコさんが心配そうに上目遣いになってこちらを見ている。

 僕は動揺して、心臓がはち切れそうなほど震えるのをぐっと堪えていた。

 アンコック・へミュオン効果。

 もしも今のが白昼夢なんかじゃなくて現実に、いや、顕在意識と潜在意識の逆転なのだとしたら、今いるこの空間だってもしや現実とは限らないのではないか。

 今この状況をどう捉えればいいのか分からない。

 取り敢えず目の前には僕を心配するチエコさんがいる。

 まずは落ち着いて行動しよう。

「あ、すみません、大丈夫ですよ、心配しないで。ナイフ、ありがとうございました」

 可能な限りの冷静さを振る舞ってナイフを電話台に戻すと、手のひらによく分からない違和感が残った。

 それからチエコさんに予備の台本を渡してもらい、僕はチエコさんに指定されたページの台詞を辿って読み上げた。

 すると僕の下手くそな台詞回しでは申し訳がなくなるほどに、チエコさんは自分の台詞を感情豊かに表現した。

 チエコさんは自分の台詞をほとんど覚えていて、時折身振りも混ぜながら真剣な表情でページを進めていく。

 閉め切った倉庫の中は心なしか空気が張り詰め、そして、生温くなっていく。

 僕は彼女の台詞以外のほとんどを担当しながら話を進めていくうちに、その内容にどこか言い知れぬ不思議な欠落を覚えていた。

 このストーリーは何かがおかしい気がする。

 そう、例えば、気づかない「穴」が空いているような……。

 それが何か分からないまま、小一時間ほどそうして台詞合わせに付き合っていると、チエコさんが

「休憩しましょうか」

と声をかけてくれた。

「すみません、私ったらつい夢中になってしまって。付き合ってくださってありがとうございます。お茶、ペットボトルのやつだけどいいですか?」

「とんでもないですよ。ああすみませんわざわざ。ありがとうございます。それにしても、やっぱり女優さんは凄いですね」

「やだもう、わたしなんてまだまだですよ」

 雑談を交わしながらチエコさんは、テーブルに置いていたペットボトルと紙コップを慣れた手つきで用意して、お茶を注いだそれの片方を僕に渡してくれた。

 チエコさんは額と首筋にうっすらと汗をかいていて、それを見ていると僕はなんだか後ろめたい気持ちが湧いてきたので、さり気なく視線をそこから逸らす。

 ありがとうとお礼を言ってその紙コップを受け取ると、チエコさんの綺麗な指先が僕のそれに微かに触れる。

 その瞬間。

 カチン

 と、

 スイッチの切り替わる音がした。


「……え?」

「ところで栄吉さん」

「はい」

「お尻、大丈夫ですか?」

「え?」

 僕がもう一度チエコさんに視線を戻すと、チエコさんはさっきまでの笑顔と同じように可愛らしく笑っている。

 が、なにやら雰囲気が変わったような気もする。

 そして、何故か僕の尻について尋ねてくる。

「お尻です。私、知っているんですよ。昨日植えられましたよね、種」

「ええっと、なんのことでしょうか。尻は確かに今朝から痛いんですけど、多分昨日ぶつけたんですよ」

 そう、今朝起きたときから今の今まで、実はずっと尻に痛みがある。

 ワセリンを塗ってみたが効果のほどはあまりないのかもしれない。

 が、何故そんなことをチエコさんが知っているのか。

 チエコさんは、自分の紙コップをテーブルに戻してから、ふふふ、と笑って僕に近づいてきた。

「えっ! ちょっと待ってください!」

 チエコさんがおもむろに僕に寄ってきて、いきなり僕のベルトに触れた。

 ぴったり引っ付いてくるので胸もとの柔らかなものも当たっている。

 見下ろせば谷間が見えそうだ。

 僕は突然のことに動揺しつつ、そのベルトにかかる手を止めるべきなのかそれともこのまま流されるべきなのか、この自分の手の中のお茶入り紙コップはどうするべきか、空いているほうの手でチエコさんに触ってもいいものなのかを咄嗟に考えた。

 チエコさんからは、どこかで嗅いだことのあるような、ふわりとした柑橘系の香水の匂いがする。

 結局どうするのが正解なのか見いだせないまま硬直していると、チエコさんは、僕のベルトを指先でゆっくりと撫でながら

「記憶、消されてしまっているんですねぇ」

と言った。

「記憶? 確かにぶつけたことは覚えてないんですけど、でも多分それは酔っていたからで……」

「栄吉さんは昨日、ここに種を植えられたんですよ」

 チエコさんの左手が後ろに回ってきて、僕の尻をするりと優しく撫でた。

 僕はまさかそんなところを撫でられるなんて思ってもみなくて、思わずきゅっと尻に力が入る。

 今朝塗ったワセリンが乾くことなくぬるついているのが気になった。

「た、たね、とは……?」

「ワセリン、ちょっと少なかったかもしれませんよ。このまま突っ込んだらちょっと痛いかも。栄吉さんは、昨日エローナ・ツオンに種を植えられたんです。小さなカタツムリのかたちをしたやつなんですけど。早く何とかしないと、一週間もしないうちに栄吉さんはエローナの餌食になってしまいますよ」

 チエコさんの言っている意味が分からない。

 種? カタツムリ? 餌食?

 何故僕がエローナ・ツオンの餌食にならなければならないんだ。

 そもそも餌食ってなんだ。

 早口にそれらをまくし立てながら僕は、さっきからずっとチエコさんの香水の匂いが気になっていた。

 どんどん強くなっている気がする、柑橘系の香水の匂い。

 どこかで嗅いだことがある。

 どこかで知っている。

 いや、そんな筈はない。

 知っている筈がない。

 だが確かに知っている。

 僕は、頭に焼きついたその名前をぽろりと口にした。

「ミカンサ・クーラ……?」

 目の前のチエコさんに向かって、昨日観た映画の登場人物の一人の名前を呼んでみる。

 チエコさんは、さっきまでとは違う不敵な笑みを口もとに浮かべた。


「迎えに来たわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

矢場杉栄吉の運命の行方 夏緒 @yamada8833

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ