第3話
塗装が
シャワーで首から下を洗い流す際、邪魔にならないように顎を上げるのだが、都度その模様が目につく。換気扇の役目をもはや果たしていないそれは、もういつもと同じには見えなかった。というのも、シミは血の海に、四角い穴は二つの車輪と車体、地面に縁取られたあの構図を思い出すからだ。
体から石鹸を流し終わった僕は蛇口を閉めた。ぽたぽたと水滴が垂れる。
あの時、進さんは「死にたくない」と言った。自ら死を選んでおいて、いざ死ぬときになって心変わりしたのだろうか。であれば、あの数秒に進さんは何を考えたのだろうか。もしもあの時僕の方が前へ出ていたら僕は同じことを呟いたのだろうか。進さんに死の意思がなかったのならば、僕は進さんを見殺しにしたことになるのだろうか。
体がぶるぶると震える。お湯を止めてしまったので体が冷えたのか。天井のダクトは直接外に続いていて、冷気が流れ込んでくる。やっぱりあの場で死ぬべきは僕だったのかもしれない。
風呂の外から母の話し声が聞こえる。僕は風呂のドアを開けた。
母は神妙な顔で電話をしていた。僕の方には見向きもしない。母が家に居るのは珍しい。というか、僕が起きている時間に起きているのが珍しい。僕が学校に行っている間は家で寝ているか酒を飲んでいるし、逆に僕が帰宅して寝ている頃には男と出かけている。それに、神妙な面持ちで電話をするのはもっと珍しい。彼女が電話をしている時の声は大体男に媚びて猫をかぶったメスものだ。そんなラブコールの最中に僕を見つけるとひどく嫌な顔をして、手でしっしと僕を追い払う。でも今日はその余裕すらなさそうだった。部屋の電気もつけぬまま話し込んでいる。
母は缶ビールの缶やつまみの缶、割り箸やプラスチックの容器が散乱したテーブルの上に両足を乗せていた。貧乏ゆすりでテーブル全体が揺れ、いくつかプラスチック容器の蓋が滑り落ちた。そして、耐えきれなくなったのか母はおもむろに立ち上がってハンガーにかかった上着のポケットを漁って、タバコを取り出した。そのまま機嫌悪く電話で相槌をしながら、タバコを加え、火をつけた。ふぅと一息ついて、少し落ち着いたようだ。母は周りを見渡して、僕を視認した。そして、やっぱりしっしと手で僕を払った。
疲れていたので早く寝てしまいたかった。部屋に入って、髪の毛を乾かすのもそこそこにベッドに倒れ込む。壁が薄いので母の話し声が聞こえてくる。髪を乾かしていたタオルで頭をぐるぐる巻いて音を遮断した。目をしっかりと瞑って身体を丸め込み、そのままどろどろと眠った。
*
ぴりりと目覚まし時計が鳴った。眠気からではない
目を開けた瞬間、不快な刺激を目に受けたので、必然的に顔をしかめて半目になる。カーテンの隙間から嫌らしく照りつける太陽が残酷に新しい1日の始まりを告げていた。
髪を掻きむしると、僕ははうんざりしながら目を閉じた。ぎこちない仕草で布団から片腕のみを出して手探りで円を描くようにして時計を探るが、指先のこつんという感触と共に時計をを遠ざけてしまう。その間もアラームはなったままである。
ひと呼吸置いて、ため息とも、苦悶とも、苛立ちとも取れるくぐもった声を出しながら、遠くに行った時計を伸びをするようにしてようやく手に取った。それから、停止ボタンを潰れるほど強く押してアラームを止めた。すでに通っている高校に遅刻する可能性がある微妙な時間帯だったことを確認したが、時計を弄ってアラームを5分後に設定した。時計を支えていた左手を脱力して、手ごと時計を布団に放った。そして眉間に
目が覚めて時間を見ると、設定した5分をとうに過ぎていた。深いため息をついて、むくりと起き上がり洗面台まで行くと顔を洗った。手で桶をつくり水を掬って、ぱしゃぱしゃ音を立て水を顔につける。指にニキビの凹凸を感じる。蛇口を捻って閉める。顔を上げると鏡には酷いクマとニキビの目立つ不健康そうな男子が映っていた。
シャツを着てボタンを留めていく。まごつく手の動きが腹立たしい。そんな事を考えていると着替えが終わっていた。習慣として身についた制服の着替えは、意識を割かなくてもいつのまにかそれなりにこなせる様になっていた。母の気まぐれで出現するテーブルの上の千円札を取り、バッグを背負い込んで部屋の電気を消すと、靴を履いて外に出た。
僕は特に何を考えるでもなく、ひたすらに足を進めていた。寝不足と鬱で時間の感覚が狂い、まるで動画編集の「カット」のように点と点の間の記憶がない。時計の針も進み、進んだ道のりがその
しかし、あの駅に着いて電車を待っていると嫌でもあの瞬間を思い出してしまう。
なぜあの時、僕は手を引いたのだろうか。進さんのことを思って、邪魔をしないようしようとしたのか。それとも────。
僕はスローモーションの世界で電車がやって来るのを確認して、それからまるで言い訳をするかのように、自分を正当化するかのように進さんの気持ちを決めつけて手を引いた。
もしかしたら僕はあの瞬間、死にたくなかったのかも知れない。ふと、妖しく光る銀のレールがこちらを睨んだ。自分の汚さ、黒さが浮き彫りになるような気がして、背中が粟立った。猫背になって、胸に出来た布の空間に顔を埋めて、目を瞑った。
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